【六.おとうとの夢・一】
平成二十四年十月十日。水曜日。午後四時七分。わたし、五歳。かいちゃん、四歳。
暖かだったおうちの空気は、とても冷えきって冷たい。ダイニングのテーブルを囲んでいた柔らかい家族の声は、怒鳴り声と子供の泣き声で満たされている。この家に子供は、昔はふたりいた。この泣いてるおとこの子は、今はもう居ない。おとうとの、蒼井かいり……かいちゃん。そして負けないくらい、わんわん泣いている女の子は、わたし。そう、この日は。この日は……お父さんとお母さんの最後の日だった。
「かいりだけは連れていくからねっ!」
お母さんが敵意を剥き出しにして叫んでいる。お母さんは、可愛い可愛い、わたしだけの小さなおとうとの手を力いっぱいに引っ張って、引き寄せようとしている。可哀想に。かいちゃんは引き付けを起こしそうになるほどに泣き叫んでいる。
「勝手にしろっ!」
お父さんが冷たく吐き捨てる。わたしは信じられない。お父さんなら止めてくれると思ったのに。わたし、大好きなかいちゃんと離れなきゃいけないの? ……そんなの、いやだ! かいちゃんは、わたしが守らないといけない。言われてるの。わたし、お姉ちゃんだから。守らなきゃいけないの。
「お父さん、お母さんを止めてよう。かいちゃんとお別れなんて、いやだよう。かいちゃんはなぎさがまもるの」
わたしは泣いた。涙も鼻水も流して、必死に訴えた。けれど、お母さんは泣き叫ぶかいちゃんをマンションの外に引っ張って行った。わたしは泣きながら追いかける。信じられないことに、お父さんは追いかけてこない。そしてすぐに、お母さんが呼んだタクシーが来た。
「お母さん。返してよ、なぎさのかいちゃん、返してよう!」
「おねえちゃん、おねえちゃん!」
ふたりの泣き声はお母さんとかいちゃんを乗せたタクシーのドアが閉まるまで近所中に響いた。
……
おとうとをお母さんに取り上げられたわたしは、かいちゃんのことをそれまで以上に、常に心の中で求めるようになった。離れてしまったおとうとが気がかりで気がかりで、夜も眠れなくなった。治ったおねしょも再発するようになった。治った指しゃぶりも、再発した。
家からかいちゃんを追い出したお父さんも、再婚したおばさんも大嫌い。……かいちゃんの居ない家の中に、わたしの居場所なんて一ミリもなかった。わたしの胸には言い表せない深い深い穴が空いて、すーすーと寒くて。寒くて、仕方なくなった。
「次は、京王多摩センター、終点です」
多摩センター止まりの京王線のアナウンスで目が覚めて、慌てて電車から降りて反対ホームの橋本行きを待った。
六月なのに、妙に冷たい風がすーすーと、髪を撫でる。自分の心の中を覗かれているみたいで、心底心臓が冷えた。
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