【二.暗いワゴン車の中で・一】

 ワゴン車の中は、薄暗く、窮屈だ。

 ここはどこ? どこかの山の中に、くるまは停められているようだ。ひどいタバコの匂いで、うまく息が出来ない。頼りのお母さんもお父さんもいない。そして中にいる小さな頃のわたしは、裸んぼにされている。窓に小さな手をついて外に向かって叫んでいる。窓ガラスの、温度のないひんやりとした感覚が手に伝わる。窓の向こうには、中学三年生のが居る。その子を呼んでいるのだ。助けて。助けて……と。

 もちろん、わたしはその子が誰か知っている。長めの黒髪のウルフカットにピンクのくまのワンビースが可愛い、わたしのたったひとりの大切なおとうとが、背を向けて立っている。襟足がとても綺麗で、大好きだった。けれど今は、どんな顔をしているのか、怒ってるのか悲しんでいるのか、それすらもわからない。


「かいちゃん、かいちゃん!」


 それでもわたしは、窓ガラス一枚を隔てた先にいる、おとうとを呼ぶ。助けて欲しくて。大事な、世界一大切なおとうと。ずっとずっと愛してきたおとうと。わたしの一生は、かいちゃんを守るためにあった。十四年間、守ってきた。だからかいちゃんなら、分かってくれるよね? わたし、怖いの。ここ、すごく嫌なの。助けて。お願い。わたしは、どうしてもおとうとに助けて欲しくて何度も窓ガラスを叩く。けれど、おとうとはピクリともしない。堅牢な窓ガラスがビクともしないのと同じように。

 がたん。

 とつぜん、ものすごい音がしてかいちゃんの足元の地面が抜けた。吸い込まれるように、おとうとも落ちていく。長いウルフカットも流れるように引っ張られて、宙で踊る。

 ごおおっ。ワゴン車の中に居るわたしの眼下に見えるのは、おとうとが通っていた中学校の中庭。お昼の時間。談笑している女子生徒やスマホをいじる男子生徒まで詳細に見える。かいちゃんが落ちたのは、お昼休みだった。


「かいちゃーんっ!」


 みるみるピンクのワンピースのおとうとは小さくなって、植え込みの脇のコンクリートに頭から落ちた。

 ごんっ。

 ワゴン車にも届くくらい、大きくて鈍い音がした。


「おねえちゃんだもんな。守れるよな? おとうとのこと」


 何度も何度も聞いてきた、男のひとの声がわたしの耳元でささやく。そのままわたしは窓から引き剥がされて、またワゴン車の座席に顔を押しつけられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る