第19回 蛾
『蛾の羽音が紡ぐ異世界』
薄暗い部屋の中、机に向かって座る高校生の真琴は、ため息をつきながらスマートフォンの画面を見つめていた。カクヨムで連載中の彼女の異世界ファンタジー小説は、思うように読者数が伸びず、コメントも少ない。「もう、書くのやめようかな…」と呟きながら、彼女は窓の外を見た。
そこには、大きな蛾が羽を休めていた。灰色がかった翅には、幾何学模様のような不思議な紋様が浮かび上がっている。真琴は思わず立ち上がり、窓に顔を近づけた。蛾は驚くほど大きく、翅を広げれば両手で抱えきれないほどだ。
「こんな大きな蛾、見たことない…」
真琴が呟いた瞬間、蛾は羽ばたき始めた。その羽音は、彼女の耳に不思議な旋律として響いた。まるで異世界への誘いのように…。
目の前が急に明るくなり、真琴は反射的に目を閉じた。再び目を開けると、そこはもう彼女の部屋ではなかった。
草原に立つ真琴を、銀色の月明かりが優しく包み込んでいた。周囲には見たこともない花々が咲き乱れ、空には無数の星が瞬いている。そして、彼女の目の前には、先ほど見た蛾と同じ紋様を持つ巨大な蛾が、ゆっくりと羽ばたいていた。
「これは…夢?」
真琴が自問する間もなく、蛾は彼女に向かって飛んできた。驚いて後ずさりしようとした瞬間、蛾の体が光に包まれ、人の姿へと変化していく。
光が収まると、そこには銀髪の美しい少年が立っていた。彼の瞳は蛾の複眼のように輝き、背中には半透明の翅が生えている。
「よく来てくれた、物語を紡ぐ者よ」
少年の声は、風鈴のように澄んでいた。
「私の名はギンガ。汝を蛾の民の王国『シルヴァームーン』へ招いたのだ」
真琴は言葉を失った。目の前で起こっている出来事が、現実なのか夢なのか、まったく判断がつかない。
「あの…私は真琴です。ここは一体…?」
ギンガは微笑んだ。「既に告げたとおり、ここはシルヴァームーン。蛾の民が暮らす王国だ。そして汝は、我々の世界を救う運命を背負う者として選ばれた」
真琴は困惑した表情を浮かべる。「私が…世界を救う?でも、私はただの高校生で…」
「汝が持つ物語を紡ぐ力が、我々の世界には必要なのだ」ギンガは真剣な表情で言った。「我々の世界は、『闇喰らい』という存在に脅かされている。闇喰らいは、物語そのものを食らい、世界から色彩を奪っていく。このままでは、我々の世界は無と化してしまう」
真琴は息を呑んだ。物語を食らう存在…。それは作家である彼女にとって、想像を絶する恐ろしい存在に思えた。
「でも、私にそんな大それたことが…」
ギンガは真琴の肩に手を置いた。「汝には特別な力がある。物語を紡ぐ力は、この世界では魔法となる。汝の想像力が、我々の世界を救う鍵となるのだ」
真琴は自分の手を見つめた。物語を書く…それが魔法になる?彼女には信じられない話だった。しかし、この不思議な世界に立っている時点で、常識は通用しないのかもしれない。
「私に…できるでしょうか?」
ギンガは頷いた。「必ずできる。我々がサポートしよう。さあ、シルヴァームーンの都へ向かおう。そこで汝の力を覚醒させるのだ」
ギンガが手を差し出すと、真琴の体が宙に浮かび上がった。驚きの声を上げる間もなく、彼女はギンガと共に空へと舞い上がっていく。
眼下に広がる景色は、まさに異世界そのものだった。光る花々が咲き誇る大地、銀色に輝く湖、そして遠くには幻想的な山々が連なっている。夜空には、地上の花々と呼応するかのように、無数の星々が瞬いていた。
「あれがシルヴァームーンの都よ」
ギンガが指さす先に、真琴は息を呑むような光景を目にした。
巨大な樹木が天を突き、その幹と枝に無数の建物が連なっている。建物の一つ一つが、蛾の繭のような形をしており、柔らかな光を放っていた。樹木の周りを、無数の蛾たちが舞っている。
「まるで…おとぎ話の世界」
真琴の言葉に、ギンガは微笑んだ。「汝の目に映る世界こそが、我々の日常なのだよ」
ゆっくりと降下し、二人は樹上の広場に着地した。周囲には様々な姿の蛾の民たちが集まっており、真琴を好奇心に満ちた目で見つめている。
「我が民よ!」ギンガが声を上げた。「これが予言の中で語られていた、物語を紡ぐ者だ。彼女の名は真琴。我々の世界を救う力を持つ勇者なのだ」
ざわめきが広場を包む。真琴は戸惑いながらも、周囲の蛾の民たちに会釈した。
「勇者…ですか?私には無理です。物語を書くのも、最近はうまくいっていなくて…」
ギンガは真琴の言葉を遮った。「汝の力は、まだ眠っているだけだ。ここで目覚めさせよう」
彼は真琴の手を取り、広場の中央へと導いた。そこには、巨大な水晶が据えられている。水晶の中には、光の粒子が漂っていた。
「これは『物語の結晶』。我々の世界の物語が凝縮されたものだ。汝はこれに触れ、その力を解き放つのだ」
真琴は躊躇した。「でも…私には…」
その時、突然空が暗くなった。見上げると、巨大な影が月を覆い隠していく。
「闇喰らいだ!」ギンガが叫んだ。「もう、ここまで来ているとは…」
真琴の周りで蛾の民たちが慌しく動き始める。彼女には何が起こっているのか理解できなかったが、ただならぬ事態であることは感じ取れた。
「真琴!」ギンガが彼女の肩を掴んだ。「時間がない。今すぐに物語の結晶に触れるんだ。汝の力を目覚めさせなければ、我々の世界は闇に飲み込まれてしまう!」
真琴は迷った。自分にそんな大それた力があるはずがない。しかし、周りの蛾の民たちの不安に満ちた表情を見ると、何かをしなければという思いが湧き上がってきた。
深呼吸をし、真琴は決意を固めた。「わかりました。やってみます」
彼女は震える手を伸ばし、物語の結晶に触れた。
瞬間、真琴の体を強烈な光が包み込んだ。目の前に無数の映像が流れる。それは、この世界の物語だった。喜びも、悲しみも、愛も、憎しみも、すべてが彼女の中に流れ込んでくる。
そして、真琴の中で何かが目覚めた。
「物語を…紡ごう」
彼女の口から言葉が零れる。それは詩のように、歌のように響いた。
「月の光に導かれし蛾の羽音よ
闇を払い、希望の光となれ
紡がれし言葉は、世界を彩る虹となる
さあ、新たな物語の幕開けだ」
真琴の体から放たれた光が、暗くなった空へと伸びていく。闇喰らいの影が、その光に押し戻されていく。
蛾の民たちから歓声が上がった。ギンガは満面の笑みを浮かべている。
「やったな、真琴。汝は確かに、物語を紡ぐ力を持っていたのだ」
光が収まると、真琴はひどく疲れを感じた。しかし、同時に不思議な高揚感も味わっていた。
「私…本当に何かをしたんでしょうか?」
ギンガは頷いた。「ああ、汝は確かに闇喰らいを押し返した。だが、これは始まりに過ぎない。闇喰らいは必ずや再び襲来する。我々には、汝の力が必要なのだ」
真琴は周囲を見回した。蛾の民たちが、希望に満ちた眼差しで彼女を見つめている。この異世界で、自分には大切な役割があるのだと、彼女は実感した。
「私…頑張ります。この世界を、みんなの物語を守ります」
真琴の決意の言葉に、蛾の民たちから再び歓声が上がった。
こうして、高校生作家・真琴の、蛾の民の世界を舞台にした冒険が幕を開けた。彼女の紡ぐ物語が、世界を救う力となる。そして、その過程で真琴自身も成長し、真の作家として羽ばたいていく─。
月日は流れ、真琴がシルヴァームーンに来てから一年が過ぎていた。彼女は蛾の民と共に暮らしながら、自らの力を磨いてきた。物語を紡ぐ力は、この世界では強力な魔法となる。真琴は想像力を駆使し、様々な物語を生み出すことで、幾度となく襲来する闇喰らいを撃退してきた。
しかし、闇喰らいの攻撃は次第に激しさを増していった。シルヴァームーンの外縁部では、すでにいくつかの地域が闇に飲み込まれている。真琴とギンガ、そして蛾の民たちは、必死の抵抗を続けていた。
「真琴、大丈夫か?」
ギンガの声に、真琴は我に返った。彼女は疲れた表情で微笑んだ。
「ええ、なんとか…」
二人は、シルヴァームーンの中心にある大樹の頂上に立っていた。眼下に広がる王国の風景は、かつての輝きを失いつつあった。至る所に闇の痕跡が見られ、蛾の民たちの羽音も弱々しくなっている。
「もう限界かもしれません」真琴は呟いた。「私の力では、闇喰らいを完全に退けることはできない…」
ギンガは真琴の肩に手を置いた。「諦めるな。汝の物語は、我々に希望を与え続けている。必ずや道は開けるはずだ」
その時、大きな揺れが二人を襲った。
「また来たわ!」
真琴は叫び、空を見上げた。そこには、これまで見たこともないほど巨大な闇喰らいの影が広がっていた。それは、まるで空全体を覆い尽くすかのようだった。
「こんなの…どうすれば…」
真琴の声が震える。ギンガも厳しい表情を浮かべている。
「我々の世界の物語のほとんどを喰らい尽くしたのだろう。もはや、これが最後の戦いとなるかもしれん」
真琴は拳を握りしめた。これまで彼女が紡いできた物語、守ってきた蛾の民たちの希望。それらを簡単に諦めるわけにはいかない。
「ギンガ、みんなを集めて」真琴は決意を込めて言った。「最後の物語を紡ぎます」
ギンガは真琴の目を見つめ、そこに燃える決意を感じ取った。彼は頷き、すぐさま行動に移った。
広場に集められた蛾の民たち。その数は、かつてに比べればずっと少なくなっていた。しかし、彼らの目には今なお希望の光が宿っている。
真琴は皆の前に立ち、深呼吸をした。
「皆さん、聞いてください。私たちは長い間、闇喰らいと戦ってきました。多くの仲間を失い、多くの物語が奪われました。でも、私たちはまだここにいます。まだ、物語を紡ぐことができます」
彼女は両手を広げ、空を見上げた。
「これから私が紡ぐ物語は、私たち全員の物語です。皆さんの想いを、私に届けてください。悲しみも、喜びも、すべてを」
蛾の民たちから、小さな光が放たれ始めた。それは彼らの想いの結晶だった。真琴は目を閉じ、それらの想いを受け止める。
「さあ、最後の物語を紡ぎましょう」
真琴の口から、言葉が溢れ出す。
「月光に舞う蛾の群れよ
闇を恐れず、光を求めて羽ばたけ
幾千の物語が織りなす symphonyは
世界を包み込む虹となる
喪失の痛みを抱きしめ
再生の喜びを歌い上げよ
我らが紡ぐ言葉の糸は
新たな世界を織り上げる織機となる
さあ、闇を貫く光となれ
物語よ、永遠に続け」
真琴の体から、まばゆい光が放たれた。それは蛾の民たち一人一人の想いと共鳴し、さらに大きな光となっていく。
光は闇喰らいに向かって伸びていった。闇は抵抗し、うねるように蠢く。しかし、真琴たちの光は決して弱まることはない。
「みんな、諦めないで!」真琴は叫んだ。「私たちの物語は、ここで終わらない!」
蛾の民たちも声を上げ始めた。彼らの想いが、真琴の言葉と一つになる。
光と闇のせめぎ合いは、まるで永遠のように思えた。真琴は全身全霊を込めて、物語を紡ぎ続ける。汗が滝のように流れ、体は震えている。しかし、彼女は決して止まらなかった。
そして──
「あっ…!」
ギンガの声に、真琴は目を開けた。
闇喰らいの影に、ヒビが入り始めていた。
「続けるんだ、真琴!」ギンガが叫ぶ。「もう少しだ!」
真琴は残された力を振り絞り、さらに言葉を紡ぐ。
「新たな夜明けを告げる鐘の音よ
眠りし世界の記憶を呼び覚ませ
失われし色彩を取り戻し
希望の光で闇を切り裂け」
大きな音とともに、闇喰らいの影がひび割れていく。そして、ついにそれは粉々に砕け散った。
かつてない程の眩い光が、世界を包み込む。
真琴は力尽き、その場に膝をつく。ギンガが彼女を支える。
「やり遂げたぞ、真琴」
彼の声は、喜びに満ちていた。
光が収まると、そこには驚くべき光景が広がっていた。
シルヴァームーンの世界は、これまで以上の輝きを放っていた。花々はより鮮やかに咲き誇り、空はこれまで見たこともないほど澄み渡っている。そして何より、蛾の民たちの姿が変わっていた。
彼らの翅は、虹色に輝いていたのだ。
「これは…」真琴は言葉を失う。
ギンガが説明した。「闇喰らいを打ち倒しただけではない。汝は、失われた物語をすべて取り戻し、さらに新たな物語を生み出したのだ。我々の世界は、生まれ変わったのだよ」
蛾の民たちは歓喜に沸き立っていた。彼らは空高く舞い上がり、虹色の光の渦を作り出す。
その光景を目にしながら、真琴は静かに微笑んだ。
「ねえ、ギンガ」
「なんだ?」
「私、きっとすごいファンタジー小説が書けそう」
ギンガは笑った。「間違いないな。だが、その前にゆっくり休むがいい」
真琴は頷き、深呼吸をした。彼女の中で、新たな物語のアイデアが芽生え始めている。それは、この世界での経験をもとにした、かけがえのない物語になるだろう。
数日後、真琴は自分の世界に戻る準備をしていた。
「本当に戻るのですか?」若い蛾の少女が、悲しそうに尋ねる。
真琴は優しく微笑んだ。「ええ、でも心配しないで。私はまた必ず戻ってくるわ。そして、もっともっと素敵な物語を紡いでいくから」
ギンガが真琴に近づいてきた。「我々の世界の入り口は、常に汝に開かれている。物語を必要とする時は、いつでも来てくれ」
真琴は頷いた。「ありがとう、ギンガ。必ず戻ってくるわ」
別れの時が来た。蛾の民たちは、真琴を取り囲むように集まっている。
「みんな、ありがとう。私に素晴らしい物語をくれて」真琴は深々と頭を下げた。「これからは、私が皆の物語を伝えていくわ」
ギンガが儀式を始めると、真琴の体が光に包まれていく。
「さようなら」彼女は微笑んで手を振った。「また会いましょう」
光が強くなり、真琴の姿が消えていく。
気がつくと、彼女は自分の部屋にいた。まるで夢から覚めたかのようだ。しかし、それが夢ではないことを、彼女はよく知っている。
机の上には、彼女のスマートフォンがあった。画面には、未完成だった小説の原稿が表示されている。
真琴は深呼吸をし、キーボードに手を伸ばした。
「さあ、新しい物語の始まりよ」
彼女の指が、軽やかに踊り始める。
それは、蛾の羽音のように美しく、力強いリズムだった。
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