第15回 キーワード:箸休め

『箸休めの魔法』


エリナは息を切らしながら、森の中を駆け抜けていた。背後から聞こえてくる獣の咆哮に、彼女の心臓は激しく鼓動を打っていた。茂みをかき分け、枝を払いのけながら、必死に前へと進む。

「こんなはずじゃなかった…」

彼女は心の中で呟いた。たった数時間前まで、エリナは平和な日常を送る普通の女子高生だった。しかし、下校途中に突如として開いた異世界への門。そして、気がつけば見知らぬ森の中。現実味のない状況に戸惑う間もなく、彼女は危険な生き物たちに追い立てられることになったのだ。

枝が頬を掠めて傷をつける。靴下は泥だらけになり、制服のスカートは裂けていた。それでも、エリナは走り続けた。生き延びるために。

そして突然、彼女の前に開けた小さな空き地。その中央に、一軒の小さな木造の家が佇んでいた。エリナは一瞬躊躇したが、獣たちの気配が迫ってくるのを感じ、迷う時間はなかった。

彼女は小屋に駆け込み、扉を勢いよく閉めた。そして、背中を扉にもたせかかりながら、大きく息を吐き出した。

「ようこそ、お客さん」

突然聞こえた声に、エリナは飛び上がりそうになった。小屋の中には、暖炉の前で椅子に腰かけた老婆がいた。しわくちゃの顔に優しい微笑みを浮かべ、エリナをじっと見つめている。

「あ、あの…ごめんなさい。勝手に入ってしまって…」

エリナは慌てて謝罰の言葉を口にした。しかし老婆は首を横に振り、「気にするな。ここは誰でも歓迎する場所だ」と言った。

「さあ、座りなさい。何か食べるものをお出ししよう」

老婆の言葉に促され、エリナは恐る恐る椅子に腰かけた。するとテーブルの上に、突然料理が現れた。エリナは驚いて目を見開いた。

「これは…魔法?」

「ああ、そうだよ。ここは『箸休めの家』と呼ばれているんだ。疲れた旅人に一時の安らぎを与える場所さ」

老婆は穏やかに説明した。エリナの前には、見たこともない料理が並んでいた。色とりどりの野菜や果物、香ばしそうな肉料理。どれも小さな一口サイズで、まるで箸休めのように並べられている。

「さあ、食べなさい。元気が出るよ」

老婆に促され、エリナは恐る恐る一つの料理を口に運んだ。すると、驚くほど美味しい味が口の中に広がった。そして同時に、疲れ切っていた体に力が戻ってくるのを感じた。

「わあ…こんなに美味しいものを食べたのは初めてです」

エリナは感激して言った。老婆は優しく微笑んだ。

「それはよかった。ここの料理には特別な力があるんだ。体力を回復させ、心を癒す力をね」

エリナは次々と料理を口にしていった。するとどんどん元気が湧いてきて、さっきまでの恐怖や不安が薄れていくのを感じた。

「あの…ここはどこなんでしょうか?私、突然ここに来てしまって…」

一通り食べ終わったエリナは、勇気を出して尋ねた。

「ここはマギアの森の中だよ。君は異世界から来たんだね」

老婆の言葉に、エリナは驚いて目を丸くした。

「異世界のことを知っているんですか?」

「ああ、時々君のような人がここにやってくるんだ。突然この世界に迷い込んでしまった人たちをね」

老婆は立ち上がり、窓の外を指さした。

「この森の外には広大な世界が広がっている。魔法や剣と魔法の世界だ。君はその世界に放り出されてしまったんだよ」

エリナは言葉を失った。まるでファンタジー小説の中に迷い込んでしまったかのような状況に、現実感が持てなかった。

「私…帰れるんでしょうか?」

不安そうに尋ねるエリナに、老婆は優しく頷いた。

「帰る方法はあるはずだ。だが、それを見つけるには旅をしなければならないだろうね」

「旅…ですか?」

「そうだ。この世界を巡り、様々な人々と出会い、経験を積むんだ。そうすれば、きっと帰り道が見つかるはずさ」

エリナは考え込んだ。突然異世界に放り出され、見知らぬ土地を旅するなんて。そんなこと、できるだろうか。

しかし、老婆の言葉には不思議と説得力があった。そして、さっきまでの恐怖は影を潜め、かわりに小さな希望の灯が心の中で灯り始めていた。

「でも…私には何もありません。武器も、お金も、この世界のことも何も知らないんです」

エリナが不安そうに言うと、老婆は暖炉の脇に立っていた杖を手に取った。

「これを持っていきなさい」

老婆が差し出した杖は、一見するとただの木の枝のようだった。しかし、よく見ると細かな模様が刻まれており、先端には小さな宝石が埋め込まれていた。

「これは…」

「箸休めの杖だ。君の旅路で役に立つはずさ」

エリナは恐る恐る杖を受け取った。すると、杖が淡い光を放ち、エリナの手にしっくりと馴染んだ。

「この杖には特別な力がある。疲れたときや空腹のときに使えば、一時的に元気を取り戻せる。そして、危険が迫ったときには君を守ってくれるだろう」

老婆の説明に、エリナは驚きの目を見開いた。

「本当にこんな大切なものを…私にくれるんですか?」

「ああ。君の旅のお守りだと思ってくれ」

老婆は優しく微笑んだ。エリナは感謝の言葉も見つからず、ただ頭を下げた。

「さあ、そろそろ出発の時間だ」

老婆が言うと、扉が静かに開いた。エリナが恐る恐る外を覗くと、さっきまでの獣たちの気配はすっかり消えていた。

「行きなさい、エリナ。君の冒険が始まるんだ」

老婆に背中を押され、エリナは小屋を出た。振り返ると、小屋はゆっくりと霧の中に消えていった。

エリナは深呼吸をして、杖を握りしめた。そして、未知の世界へと一歩を踏み出した。

彼女の異世界での冒険が、今始まろうとしていた。


エリナは長い旅路の末、ついに故郷への扉を見つけ出した。それは古代の遺跡の奥深くに隠された、巨大な石のアーチだった。アーチの中心には、かすかに揺らめく光の膜が張られている。

「ここが…帰り道」

エリナは震える声で呟いた。旅の仲間たちが彼女の背中を優しく押す。

「行くんだ、エリナ。君の世界が待っているよ」

剣士のレインが声をかけた。

「でも…みんなと別れるなんて」

エリナの目に涙が浮かぶ。魔法使いのフィオナが彼女の手を取った。

「私たちはずっと友達よ。それは変わらないわ」

獣人のガルムがにやりと笑う。「また会えるさ。君ならきっと、また扉を見つけられるはずだ」

エリナは仲間たちを見渡し、深く頷いた。そして、箸休めの杖を握りしめ、光の膜に向かって一歩を踏み出した。

しかし、その瞬間だった。

「待ちなさい!」

甲高い声が響き渡り、遺跡が揺れ動いた。突如として現れたのは、魔王ダークファングだった。彼は邪悪な笑みを浮かべ、エリナたちを見下ろす。

「よくもここまで来たな。だが、お前たちを簡単に逃がすわけにはいかん!」

魔王が両手を広げると、無数の魔物たちが現れた。エリナたちは背中合わせで陣形を組む。

「くっ、こんなところで」

レインが剣を構える。フィオナが呪文を唱え始め、ガルムが爪をむき出しにする。

エリナは一瞬迷った。このまま光の膜をくぐれば、安全に帰れるかもしれない。しかし…

「みんな、私も戦います!」

エリナは仲間たちの前に立ちはだかった。箸休めの杖を掲げると、それは眩い光を放った。

「なに!?」老婆の声が響く。「エリナ、その杖を天に掲げなさい!」

エリナは言われた通りにする。すると突然、杖から無数の光の粒子が放たれた。それは魔物たちに降り注ぎ、彼らの体を包み込んでいく。

「これは…」

驚きの声が上がる中、光に包まれた魔物たちの姿が変わっていった。恐ろしい姿は消え、代わりに疲れ切った表情の人々の姿が現れたのだ。

「そうか…彼らは魔王に魔物に変えられていたのね」フィオナが呟いた。

魔王ダークファングは怒りの形相で叫ぶ。「バカな!私の軍団が…!」

エリナは杖を魔王に向けた。「もうやめてください。誰も傷つける必要はないんです」

魔王は一瞬、躊躇したように見えた。そしてその瞬間、杖の光が彼も包み込んだ。

光が収まると、そこにいたのは一人の老人だった。魔王の仮面が剥がれ落ち、疲れ切った表情で膝をつく。

「私は…何をしていたんだ…」

老人は混乱したように呟いた。エリナは彼に近づき、優しく手を差し伸べる。

「大丈夫です。もう終わったんです」

その時、遺跡全体が光に包まれた。そして、老婆の姿が浮かび上がる。

「よくやった、エリナ。君は箸休めの真の力を引き出したんだよ」

「箸休めの…真の力?」

老婆は穏やかに微笑んだ。「そう。人々の心を癒し、憎しみや怒りを鎮める力だ。君はその力で、この世界に平和をもたらした」

エリナは驚きの目を見開いた。自分がそんな大それたことをしたなんて、信じられなかった。

「でも…私はただ、みんなを守りたかっただけです」

「その pure な思いこそが、箸休めの力を呼び覚ましたんだよ」

老婆の姿が次第に透明になっていく。「私の役目はここまでだ。これからは君たちが、この世界の新たな守護者となるんだ」

そう言って、老婆の姿は消えた。残されたのは、箸休めの杖と、新たな使命を与えられた仲間たちだった。

エリナは光の膜を見つめた。そこには、彼女の故郷の風景が映し出されている。両親や友達の姿も見える。彼女の心は揺れた。

「エリナ」レインが声をかけた。「もし望むなら、僕たちは君を止めないよ」

フィオナも頷く。「あなたの幸せが一番大切だわ」

ガルムは黙ったまま、ただエリナを見つめていた。

エリナは深呼吸をして、仲間たちに向き直った。

「私…ここに残ります」

その言葉に、仲間たちの顔に喜びの表情が浮かぶ。

「でも、時々は故郷に帰らせてもらいますね」エリナは微笑んだ。「両親に会いに行ったり、お土産を買ってきたり」

「もちろんだ!」レインが大きく頷く。「僕たちも一緒に行こう。君の世界も見てみたいしね」

フィオナが目を輝かせる。「素敵ね!異世界観光ツアーってわけね」

ガルムは少し困ったような顔をした。「俺は…目立ちすぎるかもな」

みんなで笑い合う。その時、エリナは気づいた。この仲間たちと過ごした時間、この世界での冒険。それらは彼女の人生にとって、かけがえのないものになっていたのだ。

「よーし、これからは私たちで、この世界をもっと素敵な場所にしていきましょう!」

エリナが声高らかに宣言すると、仲間たちも賛同の声を上げた。

そして彼らは、新たな冒険へと歩み出した。時に故郷と行き来しながら、異世界の平和を守り、人々の心を癒やしていく。それが、箸休めの力を継承した彼らの使命となったのだ。

エリナは時々、あの日のことを思い出す。下校途中に突然開いた異世界への門。恐怖と戸惑いの中で始まった冒険。そして今、彼女はこの世界になくてはならない存在となっている。

彼女は箸休めの杖を見つめ、微笑んだ。

「さあ、今日もどこかで、誰かの心に箸休めを」

エリナの新しい人生。それは終わりなき冒険の始まりだった。

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