第6回 キーワード:感情的

『感情の魔法使い』


空が泣いていた。

灰色の雲から降り注ぐ雨粒は、まるで天の涙のようだった。アリアはその雨に打たれながら、自分の涙と空の涙を区別することができなかった。

「なぜ...なぜ私だけが...」

彼女の声は風に掻き消され、誰にも届くことはなかった。

アリアは15歳。この世界では、15歳になると魔法の才能が目覚める。そして、その才能に応じて王立魔法学院への入学が許可される。彼女の親友たちは皆、見事に合格を果たした。火を操る者、水を操る者、風を操る者...。

しかし、アリアだけが違った。

彼女には何の才能も目覚めなかったのだ。

「私には...魔法の才能がないの...?」

その事実を受け入れることができず、アリアは街の外れにある小さな丘に逃げてきた。ここなら誰にも会わずに済む。誰にも自分の惨めな姿を見られずに済む。

雨は激しさを増していった。アリアの長い黒髪は雨に濡れてべったりと顔に張り付き、服は泥まみれになっていた。でも、彼女にはそんなことはどうでもよかった。

心の中で渦巻く感情が、彼女を苦しめていた。悲しみ、怒り、嫉妬、絶望...。それらが混ざり合い、まるで嵐のように彼女の中で荒れ狂っていた。

「どうして...どうして私だけ...」

アリアは膝を抱えて座り込み、顔を埋めた。彼女の周りの空気が、少しずつ変化し始めていることに気づかないまま。

その時だった。

「おや、こんなところで何をしているんだい?」

突然聞こえてきた声に、アリアは顔を上げた。

目の前に立っていたのは、長い白髪とヒゲを蓄えた老人だった。深い青色のローブを身にまとい、杖を手にしている。その姿は、まるで昔話に出てくる魔法使いのようだった。

「あなたは...誰...?」

アリアの声は震えていた。恐怖か寒さか、それとも別の感情か...。

老人は優しく微笑んだ。

「私はマーリン。この世界の感情を見守る者さ」

アリアは困惑した表情を浮かべた。感情を見守る...?そんな役割があるのだろうか?

「感情...?」

「そう、感情だよ。君の周りに見えないかい?」

マーリンと名乗った老人が指さす方向を見て、アリアは息を呑んだ。

彼女の周りの空気が、様々な色に染まっていたのだ。赤、青、黄色、紫...。それらの色が渦を巻き、踊っているかのように見える。

「これは...私の...?」

「そうだよ。君の感情が形になったものさ」

マーリンは静かに説明を続けた。

「君は自分には魔法の才能がないと思い込んでいる。でも、それは間違いだ」

アリアは息を呑んだ。間違い...?では、私にも才能が...?

「君の才能は、他の誰とも違う特別なものだ。君は感情を魔法として操ることができる」

「感情を...魔法として...?」

アリアは自分の周りに渦巻く色とりどりの空気を見つめた。これが...私の魔法...?

「そうだよ。君の強い感情が、この魔法を引き出したんだ。悲しみ、怒り、絶望...。それらが混ざり合って、この美しい魔法を生み出している」

マーリンは杖を軽く振った。すると、アリアの周りの色彩がさらに鮮やかになり、まるでオーロラのように空中を舞い始めた。

「でも...こんな魔法...何の役に立つんでしょう?」

アリアは不安そうに尋ねた。火や水、風のような魔法と違い、感情の魔法は実用性がないように思えた。

マーリンは優しく笑った。

「君はまだ若いから、感情の力を理解していないんだね。感情は、この世界で最も強力な力の一つなんだよ」

「最も強力...?」

「そうさ。人々の心を動かし、世界を変える力を持っているんだ。君の魔法は、その感情を直接操ることができる。想像してごらん。悲しんでいる人を慰め、怒りに燃える人を鎮め、絶望している人に希望を与える...。そんなことができるんだよ」

アリアは息を呑んだ。確かに、そう考えると...。

「でも、どうやって...?」

「それを学ぶのが、これからの君の旅になるんだ」

マーリンはアリアに手を差し伸べた。

「さあ、一緒に行こう。君の才能を磨く場所へ」

アリアは少し躊躇した。しかし、自分の周りで踊る色彩を見て、決意を固めた。

「はい...行きます」

彼女がマーリンの手を取った瞬間、周囲の景色が変わり始めた。丘の風景が溶けていき、代わりに見たこともない不思議な光景が広がっていく。

「ここは...?」

アリアは驚きの声を上げた。

目の前に広がっていたのは、巨大な水晶でできたような城だった。その壁面には、様々な色の光が走っている。まるで、城全体が生きているかのようだ。

「ここが感情魔法学院だよ」

マーリンが説明した。

「ここで君は、自分の才能を磨いていくんだ」

アリアは息を呑んだ。感情魔法学院...。そんな場所があるなんて、想像もしていなかった。

城の門が開き、中から数人の人物が現れた。彼らの周りにも、アリアと同じように色とりどりの空気が渦巻いている。

「みんな、新しい仲間だ」

マーリンが声をかけると、彼らは温かい笑顔でアリアを迎え入れた。

「ようこそ、感情の魔法使いさん」

その言葉に、アリアの心が温かくなるのを感じた。そして、彼女の周りの空気が、幸せを表す黄金色に輝き始めた。

「これが...私の魔法...」

アリアは自分の手から放たれる黄金色の光を見つめた。それは、彼女の心の中にあった暗い感情を押し流していくようだった。

「さあ、新しい人生の始まりだ」

マーリンが優しく背中を押す。

アリアは深呼吸をして、一歩前に踏み出した。

これから始まる未知の冒険に、期待と不安が入り混じる。でも、もう後戻りはできない。彼女の人生は、この瞬間から大きく変わろうとしていた。

感情の魔法使いとして、世界をどう変えていけるのか。

人々の心にどんな影響を与えられるのか。

そして、自分自身はどう成長していくのか。

答えは誰にもわからない。

ただ一つ確かなことは、アリアの人生が、これまでとは全く違うものになるということだ。

城の中に足を踏み入れた瞬間、アリアの周りの空気が虹色に輝いた。それは、彼女の中に眠っていた無限の可能性が、ようやく目覚めたことを示しているかのようだった。

新しい冒険の幕が、今まさに上がろうとしていた。


五年の月日が流れた。

アリアは今や、感情魔法学院の優秀な卒業生となっていた。彼女の周りには常に、虹色の魔法のオーラが漂っている。それは、彼女が様々な感情を自在に操れるようになったことを示していた。

「アリア、準備はいいかい?」

マーリンの声に、アリアは深呼吸をした。

「はい、行きましょう」

二人は感情魔法学院の門をくぐり、外の世界へと一歩を踏み出した。

アリアの故郷の街が、彼女を待っていた。

五年前、魔法の才能がないと思い込んでいた少女は、今や人々の感情を癒し、導く力を持つ魔法使いとなっていた。しかし、その力を本当の意味で試されるのは、これからだった。

街に一歩足を踏み入れた瞬間、アリアは息を呑んだ。

街全体が、暗い色に染まっていた。灰色、濃紺、暗赤色...。それらが混ざり合い、重苦しい空気を作り出している。

「この街の人々の心が...」

アリアは呟いた。彼女には、街全体の感情が見えていた。

悲しみ、怒り、恐怖、絶望...。

「どうしてこんなことに...」

マーリンは静かに説明した。

「君がいない間に、この国は大きな戦争を経験したんだ。多くの人が愛する人を失い、家を失った。そして今、人々の心は傷つき、閉ざされている」

アリアは胸が痛んだ。自分が学んでいる間に、故郷でこんなことが...。

「私に...何かできるでしょうか?」

マーリンは優しく微笑んだ。

「それを確かめるのが、君の最後の試練だ」

アリアは深く息を吸い、決意を固めた。

彼女は街の中心へと歩き始めた。道行く人々は、皆暗い表情をしている。笑顔が見当たらない。

中央広場に着いたアリアは、高台に立った。

「みなさん、聞いてください」

彼女の声は、魔法の力で広場全体に響き渡った。人々は不思議そうにアリアを見上げる。

「私は、みなさんの心の痛みを感じています」

アリアは自分の周りに渦巻く感情の色を、ゆっくりと広場全体に広げていった。

「悲しみ、怒り、恐怖、絶望...。それらはとても辛いものです。でも、それらを感じられるということは、みなさんがまだ生きている証なんです」

彼女の言葉に、人々の表情が少しずつ変わり始めた。

「失ったものは、二度と戻ってきません。でも、私たちにはまだ未来があります。その未来を、どんな色で塗り替えていくか...それを決めるのは、私たち自身なんです」

アリアは、自分の魔法を最大限に引き出した。

広場全体が、様々な色の光に包まれていく。

暗い色が、少しずつ明るい色に変わっていく。

灰色から薄い青へ。

濃紺から紫へ。

暗赤色からピンクへ。

人々の表情が、驚きに満ちていく。

「みなさんの中にある感情...それは決して悪いものではありません。それらを受け入れ、そして前に進む勇気を...」

アリアの魔法が、人々の心に直接語りかける。

すると、驚くべきことが起こった。

広場の隅から、一人の少女が泣き始めたのだ。

それは悲しみの涙ではなく、あまりにも長い間押し殺してきた感情が、ようやく解放された涙だった。

その涙に触発され、次々と人々が泣き始めた。

男性も、女性も、子供も、お年寄りも...。

みんなが、心の奥底にしまい込んでいた感情を、一気に解放したのだ。

アリアは、その様子を見守りながら、静かに微笑んだ。

彼女の周りの空気が、温かい黄金色に輝き始める。

それは、希望の色だった。

涙を流し終えた人々の表情が、少しずつ和らいでいく。

中には、隣の人と抱き合う者も現れた。

長い間忘れていた連帯感が、少しずつ蘇っていく。

アリアは、さらに魔法を込めた言葉を紡ぐ。

「私たちは一人じゃありません。みんなで支え合い、この街を...この国を...再び幸せな場所にしていきましょう」

彼女の言葉に、人々が頷き始めた。

広場全体が、希望の黄金色に包まれていく。

そして...

誰かが拍手を始めた。

その拍手は、瞬く間に広場全体に広がっていった。

アリアは、感動で目頭が熱くなるのを感じた。

彼女の魔法が、本当の意味で人々の心に届いたのだ。

マーリンが、静かにアリアの横に現れた。

「よくやったな、アリア」

「マーリン...これで...」

「ああ、君の最後の試練は見事に成功だ。君は立派な感情の魔法使いになった」

アリアは深く息を吸った。

これが、自分の魔法の真の力なのだと、初めて実感した瞬間だった。

しかし、これで終わりではない。

むしろ、本当の仕事はここからなのだ。

人々の心を癒し、希望を与え、そして新しい未来へと導いていく。

それが、感情の魔法使いとしての使命なのだから。

アリアは広場を見渡した。

人々の表情が、少しずつ明るくなっていく。

笑顔が、一つ、また一つと生まれていく。

「これからが、本当の始まりね」

アリアは静かに呟いた。

彼女の周りの空気が、虹色に輝き始める。

それは、無限の可能性を示す色だった。

アリアは、もう一度深呼吸をした。

そして、新たな一歩を踏み出す。

感情の魔法使いとして。

人々の心を癒す者として。

そして、新しい時代を作る立役者として。

彼女の旅は、まだ始まったばかりだった。

空が、美しく晴れ渡っていた。

雲一つない、透き通るような青空。

街全体が、希望に満ちた新しい朝を迎えていた。

アリアは、その空を見上げながら微笑んだ。

かつて彼女を苦しめた雨は、もうどこにもない。

代わりに、暖かな陽の光が街を包み込んでいる。

「さあ、行きましょう」

アリアは、マーリンに向かって言った。

「この街には、まだたくさんの人がいます。みんなの心を、一人一人癒していかなきゃ」

マーリンは、誇らしげな表情でアリアを見つめた。

「そうだな。君なら、きっとできる」

二人は、広場を後にした。

街の人々が、希望に満ちた表情で彼らを見送る。

アリアの周りには、虹色の魔法が踊っていた。

それは、これからこの街に訪れる幸せな未来を予言しているかのようだった。

感情の魔法使い、アリア。

彼女の物語は、まだ始まったばかり。

そして、この街の...いや、この世界の新しい物語もまた、

ここから始まろうとしていた。

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