第5回 キーワード:公衆便所

『異世界トイレ管理人~便器から始まる第二の人生~』


俺の名前は佐藤健太郎。28歳、独身。特筆すべき特技もなく、平凡なサラリーマン生活を送っていた。そんな俺が、まさか異世界で公衆便所の管理人になるなんて、誰が想像しただろうか。

その日も、いつも通りの退屈な一日が終わろうとしていた。残業を終え、疲れ切った体を引きずるようにして駅のホームに立っていた俺は、ふと駅の公衆トイレに立ち寄ることにした。

「ん?」

トイレに入ろうとした瞬間、違和感を覚えた。どこか、いつもと様子が違う。扉を開けると、そこには見たこともない光景が広がっていた。

「な、何だこれ...」

目の前に広がっていたのは、まるで異世界から切り取ってきたかのような風景だった。緑豊かな草原の中に、一軒の小さな木造の建物。その屋根には「公衆便所」と書かれた看板が掲げられている。

困惑する俺の背後で、突然ドアが閉まる音がした。振り返ると、来た道は跡形もなく消えていた。

「おや、来たね。待っていたよ」

老人の声に驚いて顔を上げると、目の前に白髪の老人が立っていた。長い白髪と髭をたくわえ、杖を突いた姿は、まるでファンタジー小説に出てくる賢者のようだ。

「君が新しい管理人かい?」老人は優しく微笑んだ。

「え?管理人?」俺は混乱したまま聞き返した。

「そうさ。この異世界公衆便所の管理人さ」老人は当たり前のように言った。「君は選ばれたんだよ。この便所を管理し、異世界の人々の快適な生活を支える大切な仕事をするために」

俺は言葉を失った。異世界?公衆便所?管理人?何が何だか分からない。

「ちょ、ちょっと待ってください」俺は必死に状況を理解しようとした。「これは夢か何かですよね?僕はただのサラリーマンで...」

老人は首を横に振った。「いいや、これは現実だ。君には特別な才能がある。それは、トイレを清潔に保ち、人々に安らぎを与える才能だ」

俺は呆然とした。特別な才能?トイレを清潔に保つ?そんなの誰でもできるじゃないか。

「君は気づいていないかもしれないが」老人は続けた。「君の職場のトイレはいつも清潔だった。君が無意識のうちに気を配っていたからだ。そして、そんな君の心遣いが、多くの人々を癒してきたんだよ」

俺は思わず苦笑いをした。確かに、会社のトイレの汚れが気になって掃除をしたことはあった。でも、まさかそんなことが...

「だが」老人の表情が一変した。「この異世界には、君の力を必要としている者たちがいる。彼らは、清潔で快適なトイレを知らないんだ」

「え?」

「そうさ」老人は悲しそうに言った。「この世界では、トイレという概念すらない地域もある。人々は不衛生な環境で用を足し、病気に苦しんでいる。君の力が必要なんだ」

俺は言葉を失った。まさか、トイレの存在が人々の生活を左右するなんて...

「君には選択肢がある」老人は真剣な眼差しで俺を見た。「この世界に留まり、人々を助ける道を選ぶか。それとも、元の世界に戻るかだ」

俺は迷った。元の世界に戻れば、平凡だけど安定した生活が待っている。でも、この世界には俺を必要としている人々がいる。

「決断する前に、まずは様子を見てみるといい」老人は微笑んだ。「この便所で一晩過ごしてみるんだ。そうすれば、君の役割が分かるはずだ」

そう言うと、老人は杖を突きながらゆっくりと歩き去っていった。

「ちょっと待って...」俺が声をかけようとした時、老人の姿は霧の中に消えていた。

残された俺は、呆然と立ち尽くすしかなかった。目の前には、小さな木造の公衆便所。周りには見渡す限りの草原が広がっている。

「まあ、とりあえず...中を見てみるか」

俺は意を決して、公衆便所の扉を開けた。中は意外にも清潔で、木の香りが漂っていた。便器は石でできているようだが、形は地球のものとよく似ている。

「ふむ...」

俺は便器を軽く叩いてみた。するとどこからともなく、キラキラとした光の粒子が舞い上がった。

「なっ...何だこれ」

驚いて後ずさりしたその時、外から人の声が聞こえてきた。

「すみません!使わせていただきます!」

声の主は、20代前半くらいの青年だった。褐色の肌に、エルフのような尖った耳。明らかに異世界の住人だ。

「あ、ど、どうぞ」

俺は慌てて便所から出た。青年は軽く会釈すると中に入っていった。

しばらくすると、中から歓声が上がった。

「すごい!これは...なんて素晴らしいんだ!」

青年は興奮した様子で便所から飛び出してきた。

「あなたが、この便所の管理人ですか?」青年は目を輝かせて俺に聞いた。

「え、ええ...まあ」俺は曖昧に答えた。

「素晴らしい!」青年は俺の手を握りしめた。「こんなに清潔で快適な便所は初めてです。しかも、あの光る粒子...なんだか体の中から浄化されたような気分になりました」

俺は困惑しながらも、なんとなく嬉しさを感じた。

「これで、村の人々も安心して用を足せます。本当にありがとうございます!」

そう言うと、青年は軽やかに走り去っていった。

「村...?」

俺が首をかしげていると、今度は老婆がやってきた。そして幼い子供を連れた若い母親。次々と人々がやってきては、便所を使い、感謝の言葉を残していく。

夜になると、便所の前に小さなテーブルと椅子が現れた。そこには「管理人様へ」と書かれた紙切れが置いてあった。

『管理人様へ

本日より、あなたがこの便所の管理を任されました。

この便所は、異世界の様々な場所とつながっています。

使用者は、必要な時に自然とここへ導かれます。

あなたの仕事は、この便所を清潔に保ち、

使用者に安らぎを与えることです。

そして何より大切なのは、

トイレの文化を広め、人々の生活を豊かにすることです。

頑張ってください。』

俺は深いため息をついた。どうやら、これが現実らしい。俺は本当に、異世界の公衆便所管理人になってしまったのだ。

でも...悪くない気がする。人々の笑顔を見ていると、なんだか温かい気持ちになる。今まで味わったことのない、やりがいを感じる。

「よし」

俺は意を決して立ち上がった。まずは、この便所の仕組みを理解しなければ。あの光る粒子の正体も気になる。

そうして俺の、異世界公衆便所管理人としての第一日目が始まった。これから俺は、便器を通して異世界の人々とつながり、彼らの生活を少しずつ変えていくことになる。

そう、これは便器から始まる、俺の第二の人生なのだ。


俺、佐藤健太郎は今や立派な異世界公衆便所管理人として日々を過ごしていた。当初は戸惑いばかりだったが、今ではこの仕事にやりがいを感じている。

便所の仕組みも少しずつ理解できてきた。あの光る粒子は「浄化の霊気」と呼ばれるもので、使用者の体内の毒素を浄化する効果があるらしい。おかげで、この便所を使用した人々は健康になるのだ。

また、便所の場所が日々変わることも分かった。ある日は砂漠の真ん中に、またある日は雪山の頂上に。そのたびに新たな文化や種族と出会い、トイレの重要性を説いていく。

今日も、俺は朝からせっせと便所の掃除に励んでいた。

「おはようございます、管理人様」

振り返ると、いつの間にかエルフの少女が立っていた。彼女の名前はリリア。この3ヶ月間で最も頻繁に便所を訪れる常連の一人だ。

「おはよう、リリア。今日も早いね」

「はい!今日は特別な日なんです」リリアは嬉しそうに言った。「私の村で、初めての公衆便所が完成するんです!」

「そうか!おめでとう」俺は心から祝福した。

リリアの村は、俺が最初に出会った場所だった。当初は野外で用を足すのが当たり前だった彼らに、トイレの概念を教えるのは大変だった。でも、根気強く説明し続けた結果、ようやく理解してもらえたのだ。

「管理人様のおかげです」リリアは深々と頭を下げた。「村の皆、感謝してます。だから...」

彼女は少し躊躇したあと、俺に封筒を差し出した。

「これ、村からの招待状です。完成式典に、ぜひ来てほしいんです」

俺は驚いた。これまで、この便所の外に出たことはなかったからだ。

「いいの?俺が外に出ても」

「大丈夫です!」リリアは力強く頷いた。「老賢者様に確認済みです」

老賢者...あの白髪の老人のことか。彼とは、時々夢の中で会話することはあったが、まだ謎の多い存在だ。

「分かった。行かせてもらうよ」

俺がそう言うと、リリアは満面の笑みを浮かべた。

「ありがとうございます!では、明日の正午にここに来ます。一緒に村まで行きましょう」

リリアが去った後、俺は少し考え込んだ。便所の外に出ることへの不安と、自分の活動が実を結んだことへの喜びが入り混じる。

そして迎えた翌日。

リリアと共に歩くこと2時間。ようやく彼女の村に到着した。

「わぁ...」

思わず声が漏れた。村の中心には立派な木造の建物が建っており、その前には大勢の村人が集まっていた。

「皆さーん!管理人様が来てくれました!」

リリアの声で、一斉に視線が俺に集まる。

「おお!管理人殿!」

「来てくれたんですね!」

「ありがとうございます!」

次々と村人たちが駆け寄ってきた。老若男女問わず、皆が俺に感謝の言葉を浴びせる。

村長らしき老人が前に出てきた。

「管理人殿。本日は遠路はるばるお越しいただき、誠にありがとうございます」

村長は深々と頭を下げた。

「我が村は長年、不衛生な環境で苦しんできました。病気に苦しむ者も多く、特に子供たちの健康が心配でした」

村長は一度言葉を切り、村人たちを見渡した。

「しかし、管理人殿との出会いで全てが変わりました。清潔な環境の大切さを学び、そして今日、ついに我が村にも立派な公衆便所が完成したのです」

大きな拍手が沸き起こる。

「これからは、村人全員が健康に、そして幸せに暮らせることでしょう。本当に...本当にありがとうございます!」

村長は目に涙を浮かべながら、再び頭を下げた。

俺は圧倒されていた。まさか、自分の仕事がこれほどまでに人々の生活を変えていたなんて...

「さあ、管理人殿」村長が俺に近づいてきた。「あなたの手で、この便所のテープカットをお願いします」

大きなハサミを手渡される。俺は深呼吸をして、ゆっくりとハサミを開いた。

「せーの...」

村人たちの声に合わせて、俺はテープを切った。

「わぁーーーー!!!」

歓声が響き渡る。人々は喜びのあまり抱き合ったり、跳ねたりしている。

その瞬間だった。

便所から突如、まばゆい光が放たれた。

「な...何だ!?」

驚いて目を覆う俺。しかし不思議なことに、その光は徐々に柔らかくなり、心地よい温かさを感じるようになった。

光が収まると、便所の前に一人の人物が立っていた。

「よくやった、健太郎」

「! あなたは...」

そう、現れたのは最初に俺を異世界に召喚した老賢者だった。

「君の仕事は立派だったよ」老賢者は穏やかに微笑んだ。「君は単にトイレを管理しただけではない。人々に衛生の大切さを教え、健康をもたらし、そして何より...希望を与えたんだ」

老賢者はゆっくりと杖を掲げた。

「そろそろ君の役目も終わりだ。立派な公衆便所ができた今、この村にはもう君は必要ない」

俺は少し寂しさを感じた。でも、それ以上に達成感で胸がいっぱいだった。

「ありがとうございました」俺は老賢者に頭を下げた。「この経験は、一生忘れません」

「うむ。では、そろそろ帰還の時間だ。だがその前に...」

老賢者は不思議な形の水晶を取り出した。

「これを受け取りなさい。これがあれば、君はいつでもこの世界とつながることができる。そして、必要な時にはまた、君の力を貸してほしい」

俺は恐る恐る水晶を受け取った。手に触れた瞬間、温かいエネルギーが体中に広がるのを感じた。

「さようなら、健太郎。そして、ありがとう」

老賢者の言葉とともに、まばゆい光に包まれる。

目を開けると、そこは...

「ここは...」

駅の公衆トイレだった。あの日、異世界に召喚される直前にいた場所だ。

ポケットに手を入れると、そこには確かに水晶が入っていた。

「やれやれ」俺は小さく笑った。「まさか、トイレ掃除が異世界を救うことになるなんてな」

俺は駅を出て、久しぶりの現実世界の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

確かに、元の世界に戻ってきた。でも、俺はもう以前の俺ではない。

異世界での経験は、俺に大切なことを教えてくれた。

どんな小さな仕事でも、それは誰かの人生を変える可能性がある。

そして、真心を込めて努力すれば、必ず誰かに届くのだと。

「よし」

俺は意を決して歩き出した。

明日からは、この世界でも何かできることを探そう。

トイレ掃除だけじゃない、人々の生活を豊かにする方法を。

そう、これは終わりじゃない。

俺の、本当の第二の人生の始まりなのだ。

ポケットの中で、水晶が小さく輝いた。

いつか、また異世界の人々に会える日を楽しみにしながら――

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