Act.9:アウナスの劫罰




 冷たくなっていた肉体に、命の温度が徐々に戻って来る。

 術式を起動してからおよそ五日。複製体の耐久値ギリギリのところでの帰還だった。


 この秘密は、カレン・ニンフェアが長年の計画のために秘めてきた最大の隠し玉。今日この日に至るまで、カレンは自身を非術師として周囲を欺き続け、満を持して今回の作戦に乗り出した。


 彼女の固有術式の名は複製術式レプリケーション。書いて字のごとく、術式発動時と全く同じ状態の複製体を生成する、生体錬成術の一種だ。


 非常に精巧な再現度を誇り、記憶も複写されるため、複製体と本体との間で行動の齟齬が起きないのが強みだが、膨大な魔力消費に加え、複製体の活動中は、本体は一切身動きが取れなくなるため、衰弱死を防ぐ生命維持装置を使用しながらでないと運用が出来ない。

 加えてマナが転化した肉体は消耗が激しく、全速での稼働は一週間程度が限度。死亡した複製体は一日程度で霧散するが、予期せぬタイミングで死亡した場合は衣服や装備が全損する。有り体に言って使いづらさのほうが勝る代物だった。


 ただ、複製体が魔力を持たないという点は、非術師として振る舞う分において一八〇度評価が変わる。実際、カレンを知る全ての人間は、今日この日まで彼女をただの人間として認識していたのだから、その欺瞞性能は驚嘆に値する代物と言っていい。


 唯一の懸念点は、術式残留痕から対象を追跡するPHNのダンテのような感知タイプの魔術師との相性が悪さだが。その場合は複製体に目立つ行動をさせて追跡を誘い、ギリギリのところまで抵抗させる。その時派手に殺してくれていれば御の字だ。

 人間は自分の目で確かめたことに価値を見出し、それを真実だと思いたがる。ましてやそれが、自身の手で敵を殺したという事実ならばなおさらだ。


 それでも、仮に複製体だと言うことが発覚したところで、物理的に追いつけないところまで引き剥がした後であればなんの意味もない。その頃にはもうカレンは姿を眩ませた後だ。ゆっくり観光でもしながら、大手を振って解放戦線と合流すればいい。


 そのためにわざわざ三日間というわかりやすい譲歩時間をFLPE側に提示させたのだ。結果、見事に刺客たちは明後日の方向へ大捕物おおとりものと馳せ参じ、こちらは暗い灯台の下から悠々とメイザースを脱出することができる。


「……よし、動くわね」


 生命維持装置がつつがなく停止し、四肢の動きに異常がないことを確認したカレンはゆっくりと装置から降りる。正直に言えば、今すぐにでも大笑いしてしまいたいくらいの気分だった。

 よもやこんなにも思い通りに事態が運ぶとは、カレン自身でさえ思っても見なかったのだ。

 だが、あくまでも本番はここからだ。カルテルとシンジケートの衝突を誘う今回のサボタージュ作戦において、カレンが実行した偽装逃亡は第一フェーズに過ぎない。難関ではあるが、肝心なのはこの先。別ルートからFLPEに合流し、シンジケートの機密情報を餌にして有利に立ち回る交渉の時間が待っている。これまでの苦労と比べれば楽な作業ではあるが、あくまでもカレンに油断はなかった。


 あるいは、その冷静さがほんの少しだけ彼女の寿命を伸ばしたのかもしれなかった。


「……ん?」


 カレンの頭上から、妙に多くの足音が聞こえる。いまカレンが隠れ家として使っているのは、メイザースの外れにある共同墓地ポッタズフィールドの地下を改造した空間だ。こんな夜中に、地上でこうも多くの往来があることなどありえない。

 はじめは野犬が喧嘩でもしているのかと思ったが、違う。人間の足音だ。


 まさか隠れ家が突き止められたのか──? カレンは静かに移動しながら、壁に耳を当てて違和感の正体を探る。


『こちらAブロック、付近に異常なし』

『こちらCブロック、墓石の下に送電線を発見。標的のアジトにつながっているものと思われます』


 間違いない。こちらの居場所を探っている。それにこの統率の取れた動き、一介のチンピラ達ではない。高度な訓練を受けた兵隊たちの足運びだ。


「まさか……イコノクラスィアの偵察部隊……?」


 イコノクラスィア──麻薬カルテル『ロス・サングレ』最強の実働部隊。彼らが自分を探しに来ている。何のために? 解放軍は一体何をしているのか。

 いや、そんなことは今はどうでもいい。連中がここまで迫ってきているのであれば、ここが見つかるのはもはや時間の問題。今は偵察隊だけが先行しているようだが、この場に本隊が、それも部隊長のサイファーまでもが押し寄せてきたら一巻の終わりだ。


 今すぐにこの場を離れないと……。決断したカレンは即座に服を着替え、出入り口とは別の場所に用意していた隠し通路に逃げ込む。暗がりの中をしばらく歩き、隠れ家からある程度の距離を離したところまで行くと、カレンは荷物を置いてその場で術式を展開した。


 闇の中で淡く光るマナの欠片が、徐々に人の形を模して集結していく。やがてそれはカレン本人の形状と質感を型取り、ついには本人と寸分違わぬ姿となってカレンの眼の前に顕現したと同時に、術者であるカレンはその場に昏倒し、死んだように動かなくなる。


 このタイミングで複製を作る理由。一見意味のない行動に思えるが、彼女なりの作戦がすでに頭の中に構築されていた。

 複製体のカレンは生まれた姿のまま、元来た道を戻り、再び隠れ家の中に入った。

そして足についていた泥を払い、先程停止させた生命維持カプセルに横たわると、なんとそのまま装置を起動させたのである。


 程なくして、アジトの位置を特定した敵部隊がドアブリーチャーの轟音とともに殺到し、生命維持装置に横たわるカレンの複製体を発見した。


「こちらユニットαアルファ、郊外共同墓地地下にて意識不明の標的を確認。標的が横たわっているのは恐らくは生命維持カプセルかと思われます」

『こちらコマンドゼロ、了解。至急増援をそちらに送る。周囲を警戒しつつ待機せよ。標的には触れるな』

「こちらユニットα了解。このまま待機します」


 眠ったフリをし、通信に耳をそばだたせながら、カレンは慎重に機会を伺っていた。

 この雰囲気、音から察するに完全武装の兵士たちだ。通信の内容からも、彼らは統率された指揮の下で行動している。足取り一つからも分かる指揮力と練度。彼らこそ、ロス・サングレの懐刀として恐れられる最強の暴力装置だ。


 増援が駆けつけるまでの時間までは把握できなかったが、少なくとも彼らの捜索はある程度分散して展開されており、この場所はその候補の中の一つだった可能性が高い。


 ならば、仕掛けるのなら今しかない。


 決断したカレンは敵に気取られないよう、慎重に寝台をまさぐる。そして寝台の一部の突起に指が触れると、すかさず爪を立てて隠されていたパネルをあらわにした。

 そこにあったのはたった一つのボタン。彼女は迷うことなくそれを押すと、直後にカプセルに仕掛けられていたコンポジションC爆薬が起爆した。


 密室の地下空間を、凄まじい熱と爆圧が侵略する。ほとんど密着状態だった複製体の肉体は当然の帰結として微塵に爆散し、居合わせたカルテルの兵隊たちもまた、状況を察する間もなく巻き込まれ、その身を爆破の衝撃が徹底的に蹂躙していった。



 共同墓地に起こった異変は、街を一望する仮設拠点からも瞭然と確認することが出来た。α部隊との通信が途絶え、淡白なノイズを流し続ける無線の有り様からしても、派遣した隊員たちが全滅したのは明白だった。その様子を、拠点で構えていた一人の男が見咎めると、抑揚のない声音で次なる指示を飛ばす。


「こちらコマンドゼロ、ユニットαが本星だ。これより作戦は包囲戦から機動戦へと移行する。各部隊は共同墓地周囲に展開し、対象を補足しろ。ただし発砲はするな。あくまでも追跡に留めるんだ」


 無線を置き、黒煙の立ち上る郊外のパノラマを、男は撮影機械の如き風情で睥睨へいげいする。いかなる感情の機微もないかのような表情に違わず、その瞳は漆黒に沈み、まるで暗闇が人の形を得たかのようなくらさが周囲にまで溶け出していた。


 その周囲だけ重力が異なるような、迂闊に近づくことさえ憚られる雰囲気の中、ただ一人臆することなく鷹揚とした足取りで側まで寄って行ったのが、ロス・サングレの頭目、イービス・クレイであった。


「ビンゴだったか? サイファー」


 拠点に遅れて到着した様子のイービスが問いかける。それに対し、サイファーと呼ばれた男が無表情の中に僅かな不満を滲ませながらイービスを眇め見た。


「ああ、情報通りだ。しかし本当に追跡だけでいいんだな? ここを逃すと後はないんだぞ?」

「まあ、俺としてもこれ以上肝を冷やすのは避けたいところなんだが、この事件最大の功労者たっての要請だ。無下にするのも野暮というものだろう」

「そのためにイコノクラスィアのユニット一つが犠牲になった。この埋め合わせは一体誰がする?」

「ノープロブレムだ、サイファー。それに見合う額をシンジケートに約束させた。後は賊の塩漬けの首一つあれば事足りる。そのケジメを『奴』が付けるっていうんなら是非もない。ならば見届けようじゃないか。このくだらん茶番の行く末を」

「理解できんな、お前たち侠客きょうかくという生き物は」


 サイファーは相も変わらぬ暗い目のまま、再びメイザースの街並みに視線を戻した。


「それにだ、ノウェムが何を秘め隠しているのかも分からない以上、迂闊にこちらの威力を見せつけるわけにもいかない。本国はあくまでも戦争を望んでいるが、賽の目が出るまでは連中にその口実を与えたくない。あくまでも俺の方針は現状の維持。今は奴をこの街から出さないことに全力を集中しろ」

「お前がそう言う以上は従うさ。せいぜい連中がこの舞台の幕引きに間に合うことを祈るんだな」


 まだなにか言いたげではあったが、それ以上は野暮と判断し、サイファーは沈黙にその意を預けた。

 後の事は。彼らがどのように事件に幕を引くのか、それはサイファーとしても気にならないといえば嘘になる事柄だった。



 強烈な熱と圧力に押しつぶされるような感覚に襲われ、カレンは複製体から意識を取り戻した。

 鎮痛剤を服用する暇もなく、複製体が体験したフィルタリングなしの死と痛みのフィードバックは、本体であるカレンの脳に強烈かつ鮮烈な負荷をかけていた。


「あああぁぁぁ……クソッ! だから嫌なのよ……薬なしで死ぬのは」


 やむを得ない緊急回避とはいえ、たった一度の臨死体験でさえ頭がどうにかなりそうなショックに襲われる。今回は痛みもほとんど一瞬だったからまだいいが、これがもっと持続的なものであったらと思うと、とてもではないが正気を保てる自信はない。


 とはいえ、ダメージと引き換えに一定の成果は得られた。後続の追手が掛かる前に、夜陰に紛れて次の隠れ家に向かう時間を確保することが出来た。正直ここより安全なアジトはこの街にはないため、共同墓地地下を放棄するのはカレンにとってかなりの損失だった。


 残るアジトは市内に三箇所、市外に一箇所。選択肢は多いに越したことはないが、問題は移動だ。今の襲撃から推測するに、現在のメイザースは無菌室さながらの厳戒態勢だ。蟻一匹通ることもままならない網目の中を、単身で移動するのには相当のリスクが伴う。


 術式発動中の本体が行動できないデメリットは、術式の存在が露見しない限りは無視しても問題ないどころか、彼女の秘密を強固に守る利点になりえるが、逆を言えばひとたびその存在が露見してしまえば、本体の行動制限は重大なリスクに変じてしまう諸刃もろはつるぎなのだ。くわえて事前準備の殆どできない状況下では、気軽に囮としても使えない。敵が術式に対してどこまで把握しているのかは不明だが、どのみちここから先の計画を立てるに当たり、術式ありきで作戦を考えるのは事実上不可能だ。


 いや……そもそもなぜこのタイミングでアジトの位置が露見した? 問題はそこだ。

 仮に北方国境地帯で複製体の可能性にデュールたちが気付いたにしても、そこからピンポイントで本体の居場所を突き止められるとは思えない。仮に、万が一アジトの位置を特定したとしても、最初に襲撃をかけてくるのがカルテルの兵隊というのは一体どういうことだ? カルテルはむしろこの機に乗じてシンジケートを潰す方に舵を切るのが自然だし、なによりそれは本国であるFLPEの方針だ。

 もしやカルテルは、イービス・クレイは、本国の意向を無視して独自に動いているとでも言うのか? だとしたらFLPEは何をしているというのか。


「チッ……温室育ちのジジイ共が。こういうときに連中を止められなくて親分ヅラとは笑わせるわね」


 とにかく、今は判断材料が少なすぎる。リスクは負うが、現状を打開するためにも集められるだけの材料は集めなければならない。そのためにもまずは近場のアジトまで移動だ。


 意を決したカレンは地下通路を脱し、えた異臭を放つ下水道から地上へと上がる──彼女はそこで目の当たりにした地上の光景に、言いようのない不安感を覚えた。


「何……これ」


 遠くの方で火事の煙が上がっていた。いや、火事そのものは別段この街では珍しくない。それこそこの街では異教徒を裁くがごとく、来る日も来る日もどこかしらで誰かが家ごと焼き殺されているのが常だ。

 問題は場所だ、ここから確認できる限り、立ち上っている黒煙の数は三箇所。いずれもあれは、


「あ……ああ……」


 カレンの想像を超えた悪夢ファンタジーが、頭の中でめくるめく。

 状況を整理しようにも、そこには整理するまでもなく明らかな現実が厳然として聳えていた。見晴らしの良い場所まで移動し、改めて火事の現場を確かめてみたところで、それは燃やされているのが彼女のアジトであることを決定づけるだけだった。


 ありえない、あり得ない、有り得ない──!

 

 ひたすら脳裏で繰り返される否定の言葉が、眼の前の現実を拒み続ける。もはやどうすればいいのか分からなかった。この時彼女は、初めてメイザースという街の恐ろしさを実感していた。巨大組織の庇護下にいた日には決して味わうことのなかった圧倒的恐怖。頼るものも何も無い、完全な孤立状態でこの魔境に立つことが何を意味するのか、ショートした思考の中で唯一それだけが明確な理解となって彼女の正気を蝕んでいた。今のカレンは、さながら虎の檻に放り込まれた豚も同然だった。


「そうだ……電話……」


 縋り付くような思いで、カレンはカバンの中から携帯を取り出した。FLPEとコンタクトを取るため、わざわざ独立回線を敷いてまで構築したホットライン。盗聴のリスクを限りなく抑えた虎の子だ。

 彼らに今すぐメイザースを攻撃させよう。もはやカルテルなどどうでもいい、解放戦線の本部隊による直接粛清だ。戦争さえ始まれば、事態はカレン一人の問題ではなくなる。全て有耶無耶にした上で、改めて再起を図ればいい。


「…………」


 しかし、電話口から帰ってきたのは無慈悲で無情な不在信号ビジーシグナルの音だけ。

 カレンは何度もコールし直した。それこそ彼女自体が壊れた機械であるかのように、何度も、何度も。しかし何度繰り返したところで、返ってくるのは沈黙という名の現実だけだった。


「ああ……あああぁ…………ああああああああぁぁぁぁぁっ!!」


 膝から崩れ落ちたカレンは屈辱の中で咽び泣いていた。もはや鉄くずも同然に成り果てた携帯を振りかぶり、思い切り地面に叩きつけようとした。だが出来なかった。それをしてしまったら最後、彼女はこの魔の都から自身を守るための最後のよすがすら打ち砕いてしまうことになる。

 それだけは出来ない、それだけは、何があっても。それほどまでに彼女にもたらされたメイザースの恐怖は絶大なものだった。


「逃げなきゃ……」


 絶望と恐怖に根こそぎにされた理性の中で、ただ一つだけ残されたシンプルな答え。

 それがどこかなのか、どこまでなのか、いつまでなのか。もうそんなことはどうでもよかった。

 ただ、逃げるのだ。どこまでもどこまでも、いつまでもいつまでも、逃げて逃げて逃げ続けるだけだ。


 カレンは歩き始めた。風に吹かれる病葉わくらばのように、はねをもがれた蝶のごとき這々ほうほうていで、行く宛も行き着く先もない、煉獄れんごくの闇の中へ。

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