Act.8:最後の罠

◇PAST DAY




 煌びやかなホールの夜を飾る極彩色のネオンが、舞台袖の控えスペースにまで漏れ出ていた。

 悪徳の都に燦然とそびえる、欲と美が渦巻く黄金と虹の楽園。ヴァルプルギス・ナハト。

 ステージの上で艶めかしく踊り、代わるがわる手を変え品を変え、客席の男たちを飽きさせることなく魅了するショーガール達。厳しい審査と弛まぬ努力の果てに、女の全てを極めつくしたと評価された一握りのダンサーだけが、その場に立つことを許される。


 ここは闇の中でしか憩うことのできない夜の蝶たちが、最後の夢を見るために翅を下ろす止まり木。


 いや、もしかしたら今ここに止まっている蝶こそが現実で、これまではただひらひらと、風に揺られるように、彷徨ほうこうする世界の夢を見ていただけなのかもしれない。


 いずれにしても、この場所こそが夢とうつつの果て。ここより先に待ち受けているのは、華々しいスポットの光の喝采か、暗澹あんたんと湿った暗がりの中か。その二択しかありえない。


 観客たちが求めるのは、より刺激的で情熱的なエンターテイメント。彼らを飽きさせないために、クラブを運営する経営陣は常に新しい風を吹かすため、あらゆる手段を使って各地から女を集めてくる。


 そう、でだ。


 舞台袖で先輩たちのショーを眺める新人ダンサーたちの中には、借金で身を持ち崩した者、孤児として戦地から売られてきた者、あるいは非合法的な取引で誘拐されてきた者、いずれも後ろ暗い背景を背負った女たちばかりで、好き好んでこんな場末に訪れる者など殆どいない。


 彼女たち候補生は、一人前と認められるまでは番号で識別される。一期につき十人。1ウーヌスから10デケムまで。

 3トレスはその中でも落ちこぼれだった。目鼻立ちもスタイルも、決して不器量というわけではない。ツンとした知的な美貌はコアな好事家こうずか受けも狙えるほどには整っていたが、彼女の場合、見た目以上に性格が堅物で生真面目に過ぎた。恵まれた素材を持ち得ながらも、どこか色気に欠けた冷たい印象が抜けきらない難物であった。


「なんかあなた、ショーガールというよりはむしろ経営陣の秘書あたりが服を脱いだみたいよね」


 そうトレスに声をかけたのは、同期の中では一番の期待株と目される9ノウェムだった。


「どういう意味?」


 どう聞いても暴言としか思えない言い様を、邪気のないカラリとした調子で宣うノウェムに、当然の如くトレスは食って掛かる。


「いやいや、悪い意味じゃないのよ? あなたってマメだし、いつも最後まで居残りしてるし。そういう真面目なところ、なんか悪くないなって。ほら、爪だってこんなに綺麗」

「私は当然のことをしているだけ。後から先輩たちにガタガタ皮肉垂れられるのが嫌なだけよ」

「うーわ、めっちゃマジメ」

「オーナーからも先輩からも気に入られているあなたに、私の気持ちなんて理解できないわよ」


 トレスは隠す素振りもなく皮肉を口にする。彼女の目から見ても、ノウェムの才覚は群を抜いて際立っていた。澄んだ夜のような黒髪、海の底を思わせる蒼い瞳、陶磁のような肌には淀み一つなく、芸術の神が色欲の悪魔と結託して彫刻したかと思わせるほどに、均整の取れた肉体美。それらの美が捉えどころのない蠱惑的なノウェムの性格によって魔性と化し、同じ女ですら、迂闊に踏み込めば虜にされかねない魔力があった。


 人間とは、二十歳の身空みそらを迎える前から、こうも艶麗な魅力を醸せるものなのだろうか。まるで暗闇の海岸線を分かつ夜光虫の如き美貌を指して、誰からとでもなく彼女のことを『魔女』と称すに至ったのは、なにかと彼女に食って掛かるトレスとしても、得心以外の選択肢を持てなかった程だ。


「ねえあなた、どうしてショーガールになろうと思ったの?」

「別に、他の子とそう変わらないわよ」

「ふ~ん」


 投げかけられた問いを袖にするトレスに対し、ノウェムはさして気にする風でもなくのほほんとした調子で頷く。その頓狂な様子が、なおトレスを苛立たせた。

 こんな女に、決して教えてなるものか。赤貧せきひんに喘ぐ故郷の家族に、はした金と引き換えに身売りされた過去など。初めから何もかもを持ち得たこんな奴に、自分の気持ちなど理解できるはずもない。

 いずれ力を手に入れ、自身を捨てた故郷と家族を見返してやるのだ。

 彼らがはした金欲しさに売り飛ばした娘が、みじめな自分たちよりもよっぽど大きな幸福の中にあると、まざまざと見せしめるために。

 ノウェムだけではない、誰一人にだって、この憎悪ユメの形を悟らせてなるものか。


 そうして余裕ぶって見下していればいい。

 だから、先の慳貪けんどんな回答に重ねるように、さらに続けてトレスはこう答えた。


「みんな同じよ。ここにきてしまった以上、成り上がるしかない。これはそういう仕組みなのよ」

「ふ~ん、そうなんだ」

「あんたこそ、なんでこんなとこにいるのよ」

「え?」

「え? じゃないわよ。分かるわよ、あんた別に売り飛ばされたりとか、望まずにここに来たって口じゃないでしょう? あえて選んでここにいる。はっきり言って意味が分からないわ」


 それは何の気なしの、トレスとしては、別に実りある回答を期待していたわけでもない質問のつもりだった。

 しかし、彼女が何の気なくただした問いの中にあったあるワードが、ノウェムの耳を殊更ことさらそばだたせた。


「へえ、あなたが初めてよ。あたしが好き好んでここにいると看破したのは」

「は?」


 ノウェムがそう答えたことで、傍で話を聞き流していた候補生たちの目線が一瞬にして異質の物を見た時のそれに変貌した。


 こんな、倫理も道徳も消え果てたメイザースという名の混沌の、さらに不条理な理が支配する魔女の夜会ヴァルプルギス・ナハトに、このノウェムという女は好き好んで降り立ったというのだ。

 それは望まずしてここにいる他の候補生にとって、まったく理解しがたい、狂気としか言いようのない発言だった。


 先ほどトレスが「あえて選んでいる」と言ったことも、彼女たちは内心一笑に付していた。そんなわけないだろう、何を馬鹿なことを、と。

 だが、ノウェムがそれを肯定したことで状況は一八〇度一変した。女の地獄を極めたようなこの環境に享楽で足を踏み入れたノウェムも、それを天気でも占うかのように言い当てたトレスも。彼女たちには等しく異様な存在として認識されるに至った。


「あたしね、シンジケートのトップになりたいの」

「シンジケートって……ここを仕切ってるあのシンジケート?」

「そう、黄金郷の虹の楽園。スタシオン・アルク・ドレの女帝クイーンに。それが叶った暁には、トレス。あなた、あたしのそばで働きなさい」

「ちょっと、何勝手に決めてるのよ」


 神をも恐れぬような会話についてくる者は、もはやここには一人もいなかった。

 ただのショーダンサーが、いずれは使い捨てられるだけの消耗品が、シンジケートのトップになど、馬鹿げているとしか言いようがない。変数ではなく定数を変えて式を解くようなものだ。とても付き合いきれない。


 しかし、そんな与太をただ一人のみ、真面目に受け止めた女がいた。

 別にダンサーとして大成したかったわけではない。ただ奪われるくらいなら、奪う側の立場に立つ方がいい。まったく非の打ちどころのないシンプルな答えを提示された事で、大した計画性もなかったトレスのビジョンが明確な輪郭を帯びていった。


「あなた、本名はなんて言うの?」

「……カレン。カレン・ニンフェア」

「あたしはエミリー。エミリー・シャテル・エニアグラム・ド・レヴィ」

「長いわね……」


 名前まで立派と来た。つくづく彼女は『持ちうる側』なのだと、トレスの中の劣等感がただれるように痛んだ

 なんかムカつくから、決して名で呼んでなるものか。それはトレスの──カレン・ニンフェアのしょうもない意地だったが、それは後に思わぬ方向で裏切られることとなった。


 その年、初ステージを飾ったノウェムは、その才覚を惜しげもなく開花させ、組織に莫大な利益をもたらすようになっていった。そのあまりの鮮烈さは半ば伝説となり、このショークラブにおける『9ノウェム』という数字は特別な意味合いを持つようになるという、カレンにとってはなんとも皮肉な結末へと至った。


 その後もノウェムは順調にスターダムを駆け上がり、ついには経営陣すら屈服させ、文字通りスタシオン・アルク・ドレのクイーンとして、メイザースの夜を彩る夜会の主の道を突き進んでいった。


 その姿を誰よりも長く、誰よりも近いところから眺め続けていたカレンの胸には、焦がれんばかりの憧憬と、あふれんばかりの嫉妬で渦巻いていた。

 何も持ち得なかった彼女が、全てを手にした女のそばで、ただただおこぼれに与り続ける立場に甘んじなければならない屈辱。そうして十五年に渡って繰り返された日々が、彼女の歪んだ野望をより強固なものに変じていった。


 いつか、ノウェムの全てを奪い取る。彼女の築き上げてきたすべてを、木っ端微塵に粉砕して見せる。そのためなら例え自分自身ですら踏み台にして見せる。


 そうだ、思い出せ。あの日に誓ったすべてを。


 こんなところで──こんな、便利屋だの調査官だのと、どこの馬の骨とも知れないフリーランスのチンピラに阻まれるほど、自身が積み上げてきた執念は甘くはない。


 もうすぐ、もうすぐだ。後一手で計画は成就する。

 窮地もあった、不測の事態もあった。それでもカレンの中の野望の火は潰えてはいなかった。

 なぜなら彼女の計画は、これまでただの一度たりとも、彼女の掌の上から出たことなどなかったのだから。




◇DAY.3




 悪路をき、ひっきりなしに小石を踏む車体の感覚が、カレン・ニンフェアの意識を揺り起こした。

 片腕を飛ばされ、もはや失血死を待つしかないこの体では、もうこれまでのような機動力を発揮することは叶わないだろう。てっきりあのままキャンプに放置されるとばかり思っていたが、どうやら彼女を捕縛した便利屋たちもまた、何かしらの思惑があって動いているようであった。


「あ、目醒ましたぜ。デュール」


 カレンの覚醒を目聡く察知したアンが、ステアリングを握るデュールに声を掛ける。

 先の死闘で急激な成長を見せたこのホムンクルスの少女の負傷は、今はもうきれいさっぱりなくなっている。完全に全快状態だ。まったくもって馬鹿げた力だと言わざるを得ない。


「私を連れ去ってどういうつもり? お前たちの任務は私を殺すことでしょう?」

「いいや、お前と解放戦線FLPEの合流を阻止することだ。お前の生き死にそのものはさして重要じゃねえ。ま、どの道死ぬけどな。その怪我の有様じゃ。なんにしてもお前はここでジ・エンドだ」

「あの爆発を食らった割には元気そうね、便利屋のデュール」

「ざけんじゃねえ、テメエのおかげで今も背中が爛れてんだ。さっさと用事済ませて医者んとこ行かなきゃ、感染症でテメエの後追いをする羽目になる。あの世でまでテメエと追いかけっこなんざ御免被るぜ」

「ふふ……それはどうかしらね」


 不敵に脂下がってカレンが身じろぎをした次の瞬間、横合いから暗殺用の峨嵋刺がびしが突き付けられる。その針先の鋭さに輪をかけて鋭利な視線を向けながらカレンを眇め見ていたのは、プロヴィデンス・ヒューマンネットワークからの刺客、天網てんもうのダンテであった。


「妙な動きはしない方がいい。君の一挙手一投足いっきょしゅいっとうそく生殺与奪せいさつよだつも含めて僕の手の内だ。肩が凝ろうと尻が痒かろうと、あらゆる動作に対して許可を求めるんだ。残り少ない命を、せめて安寧のうちに過ごしたいのならね」

「では一つ、早速聞いてもらってもよろしいかしら」

「なに?」

「死ね」


 次の瞬間、カレンの太ももに容赦なく峨嵋刺が突き立てられる。長さ二十センチはあろうかという暗器針が、握りの根元まで深々とねじ込まれ、傷口からじわじわと血が広がっていき、カレンの体が反射で小刻みに震える。


「へえ、うめき声一つ上げないんだ。大した根性だね。普通だったら泣き叫ぶところなんだけど、まだアドレナリンが切れてないのかな」

「ダンテ、あんま車を汚させるな。掃除が面倒だ」


 そう注意するデュールの口調はまるで、カビを見る清掃業者の如き風情であった。

 この絶体絶命の窮地においてこんな減らず口を叩くカレンの神経は、全く持って理解に苦しむが、こんなところでいくら彼女を嬲りものにしても一文の得にもならない。

 とはいえ、勝手が許される立場でないことは、改めてその身に刻みつけなければなるまい。


「カレン、最後くらい建設的な話をしよう。僕はあんまり血が得意じゃないんだ。できればこんなことはしたくない。これは偽りのない、僕の心からの本音だ」

「見た目に違わず甘ちゃんなのね。オフィスにこもってゴミ弄りに興じていればよかったのに」

「君が余計な署名に僕の名前を使うからだろ。その言い分はずいぶんと勝手な話じゃないか」

「そんなこともあったかしらね」


 うそぶくカレンの瞳からは、いかなる屈服の念も感じられない。自身の負傷をまるで意に介さないかのような態度が、ダンテに僅かな違和感を抱かせた。


「君、痛みを感じないのかい?」

「そんなわけないじゃない。薬で痛覚を抑えているだけよ」

「君の家にあった鎮痛剤の錠剤はそれか。だが、ここまでの負傷にも耐えるとなれば、相当な量を服用しないと無理だ。そこまでして何がしたいんだい?」

「こういう時のためよ。おかげで随分と手を焼いたんじゃない?」


 どうにも要領を得ないカレンの言い様に、ダンテの中の疑念がますます降り積もる。

 この違和感、まるでこうなることでさえ、あらかじめ見越していたかのような──。

 訝るダンテに被せるように、更に続けてカレンが言葉を重ねる。


「お前たちは私を拘束していい気になってるのかもしれないけれど、私からしたらお前たちのほうが滑稽よ。今こうしてお前たちと同席している。この状況そのものが、ここに居る私の最大の目的なのだから」


 急激に温度を下げたカレンの言葉に、誰もが注目を禁じ得なかった。そして矢庭にカレンが口を大きく開ける。ほとんどあくびと区別のつかない動作であったが、口腔内にあった僅かな違和感に気がついたデュールが、掛け値なしの驚愕とともにアンに指示を飛ばした。


「歯の奥に起爆スイッチだ! アン、下顎を刎ねろ!」


 デュールの真意を察するよりも早く、アンの刃がカレンの顎関節に滑り込んだ。その斬撃で腱を断たれたカレンの口は顎が外れたかのように垂れ下がり、さらに、もはや一刻の猶予もないと判断したデュールのダメ押しの弾丸が、無慈悲にも彼女の額を貫いた。


 自爆覚悟の仕込み爆弾。よもや自身の命さえも顧みないカレンの不屈の覚悟が、狭い車内の時間を凍りつかせていた。誰もが息を呑み、呼吸の音さえ聞こえない静寂の中、カレン・ニンフェアの目論見はその死をもって阻止された。


「クソ……野郎、最後の最後まで。ムカつくにもほどがある」


 だが見事と言わざるを得なかった。カレン・ニンフェアは最後の瞬間まで、協力者の情報を口にすることなく、沈黙のうちに秘密を守りきったのだから。


 しかし、ただ一人ダンテだけが、拭いきれない違和感に表情を固くしたままだった。


「おかしいよ、デュール」

「何がだ?」

「何がって言ったら、全部さ。最後のカレンのセリフ、まるでこうなることが最初からわかってたみたいじゃないか」

「それだけ用意周到な女だったってことだろ」


 一体何がおかしいのかと、言外にその意を込めながら話すデュールに、しかしダンテは追従することはなかった。


「たしかに、彼女の罠は巧妙だった。僕たちが現地の情報屋に頼ることを見越し、そことの接点に罠を仕掛けたりね。僕の残滓検索サイコメトリーに可能な限り引っかからないための作戦としては、あれ以上の策はなかったと言ってもいい」

「何が言いたいんだ、お前は」

「でもだよ、そこまで僕を警戒するのなら、むしろ彼女は余ったマナセーフティーの名刺は破棄してないといけなかったはずなんだ。だけど彼女はそうしなかった。これだけ僕を警戒していた彼女が、唯一の魔術的痕跡を携帯したまま逃亡なんて、そんな間抜けなミスをするだろうか」


 するだろうか、という言葉とは裏腹に、ダンテの口調は限りなく否と言わんばかりだ。ダンテの術式は、大前提として追跡対象の術式痕がなければ成立しない。術式を持たない非術師のカレンにとっては本来脅威になりえないのだ。にも関わらず、カレンはダンテを警戒し、彼の追跡を逃れることを前提にした作戦を展開した。

 仮にダンテの術式精度を誤認していたとしても、わざわざ自分からヒントを残すような真似をするのは、どう考えても辻褄が合わない事柄だった。


「デュール、車を停めて」

「え? ああ」


 多国籍軍からの追跡はすでに振り切り、一行は夜陰に紛れてアルカディアとの国境線を通過中だった。幸いにして人里もない荒野の只中であったため、断る理由もないと、デュールは指示通り路肩に車を停止させた。


「アン、彼女を車から降ろす。手伝って」

「おう」


 特に異議を唱えることもなく、アンはカレンの遺体を車からおろした。すでに日は暮れ、周囲は闇に包まれている。これでは検分など出来たものではないので、すかさずダンテは持っていたライトでカレンの遺体を照らした。


「…………」


 右腕喪失。下顎を刎ねられ、額を撃たれたカレンの無惨な死相には怖気を感じずにはいられない。議論の余地もなくカレン・ニンフェアは死亡していた。それは確かなことだった。ダンテは遺体の衣服を捲り、腹部を触診する。


「うん、腹に何か詰めてるね。多分キャンプでも使ったコンポジションC爆弾だ。奥歯に仕込んだスイッチもハッタリじゃなかったみたいだね」

「それが何なんだ?」

「わからないかい? 彼女はこの企みにおいて、自分が死ぬことも想定していたんだ。それはFLPEを通してカルテルをけしかけて、シンジケートを乗っ取ろうとしていた彼女の謀略とは明らかに矛盾している。彼女は何があってもFLPEに合流しないといけない。そこに自爆っていう選択肢なんてあるはずがないんだよ」

「最後に一矢報いてやるとか、そういうことじゃないのか? 現に奴は最後、俺達を巻き込むことが目的だったって言ってたじゃねえか」

「違うよデュール、重要なのはそこじゃない。彼女はと言ったんだ」

「言葉の綾だろ、そんなの」

「言葉の綾かどうかは、この死体を調べてみれば分かることさ」


 ダンテはそう言うや否や、カレンの死体から服を剥いだ。車内にてカレンを拘束していた際、最も近くで彼女を見ていたダンテだけが感じ取っていた違和感。すでに血まみれになっていたシャツを手にしたダンテは、躊躇なくそれに鼻を押し当てた。


「おい、お前何してんだよ」


 思わぬ奇行にさしものデュールも口を挟まずにはいられない。しかしダンテは、そこに確かな意味があると確信した様子で、服に残されていた匂いに全意識を集中させていた。


「やっぱりだ、ミシン油の匂いだよこれ」

「ミシン油ってあれだろ? 服作るときの機械についてる」

「そう、衣服の製造過程で付着するんだけど、そのままだと石油臭いから、大抵は着る前に洗ったりして匂いを取るんだ。覚えているかい? デュール。彼女の家には同サイズ同メーカーの服が、未開封状態で何着も保管されてた。つまり彼女は、メイザースから逃亡する際、わざわざ新品の服を着て脱出してるんだ」

「それがなんかおかしいか?」

「服だけならね。だけど見てご覧よ、彼女の履いていた靴。靴底のすり減りが殆ど見られない。これも新品だ」


 そう言ってダンテはカレンから脱がせた靴を底面が見えるようにして差し出した。

 たしかにそこには、ダンテが指摘した通りほとんどすり減りの見られない様相を呈していた。それだけではない、付着していた汚れも、その殆どが昨日今日ついたばかりのような、比較的新しい汚れしかなかったのだ。


「確かにこれは妙だな。几帳面とかそういうのとは度を越している。ダンテ、遺体に靴擦れの跡は?」

「ある。やっぱり明らかに履き慣れてないやつだよそれ。戦闘があることを想定しておいて、このチョイスはどう考えても合理的じゃない。ねえ、デュール。これから僕は、僕たちにとって受け入れがたい一つの仮説を言わなくちゃならないんだけど、それを聞く覚悟はあるかい?」

「今更勿体つけるなよ。ここまで来たら聞くしかないだろうが」


 すでにダンテの表情は、これから述べようとしている仮説の結論のために曇りきっていた。日頃から無表情で淡々とした、いかなる時も冷静な彼がこんな顔をするということは、よほど容認しがたい結論が待ち受けているのだろう。


 つかの間の沈黙を挟み、意を決したダンテが口を開く。


「この死体は、カレン・ニンフェアじゃない」

「なっ……」


 全く想像すらしていなかった結論に、今度こそデュールは瞠目に顔を染め上げる。それは傍らでいたアンにとっても同様だった。あまりにも突拍子のない話ではあったが、それに反してこの場の誰もがそれに対して異を唱えることが出来ない。ダンテが導き出した結論には、どういうわけか確かな説得力を感じさせる何かがあったのだ。


「偽物……影武者ってことか?」

「もっとタチが悪い。これはカレン・ニンフェアと寸分違わない複製体だよ。おそらくこれは彼女の固有術式だ。相当に使い勝手は悪いだろうけど」

「いやいや、だってあいつは非術師だって、ノウェムに太鼓判を押されてたろ」

「複製体には魔力が宿らないんだよ。彼女の術式は、術式発動時点と全く同一の自分を生み出すものなんだ。その複製体は通常の人間と同じように代謝し、本人と同じように思考してコミュニケーションを取ることはできるけど、実際その内面には一切の感情が存在していない。魔術はイメージを具現化する力だから、その源泉となる想像力の存在しない複製体には魔力が宿らない。そうでなければカレンは無限に自身をコピーして、個にして群の存在となっているはずだからね」

「マジかよ……じゃあなんだ? あの家の服やらメガネやらは、奴が複製体に着せるために用意していたスペアだったってことか?」

「だろうね。複製できるのはあくまでも肉体と記憶だけ。それも一体限りだ。これだけの精度となると、本体となるオリジナルのカレンは行動不能になっているかもしれない。それが逆にこの術式の厄介なところなんだ。本体でも複製でも、行動している個体が常に一体だけなら、第三者が観測する彼女の行動の時間的整合性に矛盾は生じなくなる。そして彼女が鎮痛剤を日常的に服用していたのは、複製体が死亡したときにそれまでの記憶と感覚がオリジナルにフィードバックされるからだね。痛みや臨死体験まで返ってくるとなると、予期せぬ副作用が本体に影響を出しかねない。そういう心的外傷を防ぐために、複製体は薬で痛みを遮断しているんだ」


 ダンテの分析と予測を、デュールは頭の中で何度も反芻する。ここに転がっているカレン・ニンフェアの遺体が本体であることを示す反証を必死になって探していた。

 

 しかし、何度繰り返したところで結果は同じだった。カレンの動機、行動、そこから導き出された結論の全てに筋が通っている。異様に整頓された自宅の様子も、大量に服用していた鎮痛剤の用途も、ダンテが立てた仮説の中でのみ、筋の通った説明をつけることができる。


 カレン・ニンフェアは魔術師である。固有術式は複製レプリケーションで間違いない。そのデメリットもほとんどダンテの推測通りだろう。


 つまり、ここに至るカレンのすべての行動は、ダンテを中心としたフリーランスの刺客を欺くための陽動作戦。カルテルの横槍によって阻まれた三日間の空白を利用し、刺客たちと本体との物理的な距離を稼ぐための囮だったのだ。

 彼女の本体は今、彼らの思いも寄らない場所で息を潜めている。そして複製体の死亡をきっかけに事の次第を全て把握するだろう。

 カルテルから与えられた時間はもうほとんど残されていない。今から作戦を立て直し、再度カレンを追跡することは、事実上不可能だった。


「終わった……」


 絶望と疲労が、重く重くのしかかる。この先に待っているのは、カルテルとシンジケートの総力戦。血で血を洗う大抗争だ。

 もはや誰も口を開かなかった。ここからメイザースまで一体何百キロ離れているのか、計算するのも億劫だった。今彼らにできるのは、ただ降りかかる火の粉が、できるだけ小さいものであれと祈るだけ。


「クソ……」


 そう吐き捨てるデュールの悪態も、こだま一つなく闇夜に吸い込まれていく。

 

 それが、カレン・ニンフェアが彼らに対して仕掛けた、最後にして最大の罠だった。

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