Act.7:死線の果て




 遠雷のような音が聞こえる。

 地が爆ぜ、礫が散り、それらが断続的に紡がれることで、遠く離れたここに届くころには、一つに繋がった轟音として耳朶を叩いていた。

 戦争が始まったのだろうか。北方ゲリラが難民キャンプに襲撃をかけ、老いも若きも関わりなく、政府軍への見せしめのために難民たちを虐殺しているのだろうか。

 それとも、一向に解決の兆しの見られない戦後処理に業を煮やした難民たちが決起でも起こしたのだろうか。

 だとしたらここも安全ではない。一刻も早く逃げなければ。


 いや、ちがう。カレン・ニンフェア……。彼女を追わなければ。迂闊だ、こんなところで気を失ってしまうなんて。

 そういえば、どうして自分は気を失っていたのだろう。


 頭が重い、体のあちこちが痛む。それにひどい耳鳴りだ。

 だが関係ない、早く名刺にあった情報屋のところまで──


「デュール──デュール!」

「…………ああ」


 焦点の定まらない視界の中に、特徴的な黒のローブ姿が映り込む。

 どうやら仰向けに寝ていたらしいことを察したデュールの意識が、徐々に現実へと引き戻されていく。


「俺、どれくらい寝てた。さっきから聞こえるこの音は何だ?」

「二十分くらいだと思う。アンが今、カレン・ニンフェアと戦ってる」

「アンが……?」


 一体どういうことだ? 頭を強く打ちでもしたのか、直前の記憶がどうにも曖昧だった。

 今日の今日まで一切姿を現さなかった彼女が、この局面に来て都合よくアンと鉢合わせたとでもいうのか? デュール達がキャンプ入りして、まだ二時間程度しか経っていないのに?


「デュール、君のおかげだよ。君が握りしめていた名刺がカギだった。君は嵌められたんだ。あの名刺はマナセーフティの解除キー。君にそれを渡した露天商にはコンポジションC爆薬が括りつけられていたんだ。僕たちの接近をカレンに報せるためにね」

「……そういう事か」


 気を失う直前、爆風に煽られながら見た黒煙と閃光の景色をデュールは思い出した。

 そうか、あの名刺は情報屋へのアクセスをちらつかせ、その足取りを追おうと名刺を受け取った追手を始末するための罠。この地にゆかりのないデュール達が、現地の情報を集めるために取りうる手段を見越した上で、あらかじめ仕掛けられていたというわけだ。


 だが、たったそれだけのために、あの女は無関係な難民を巻き込んだというわけか……。


「つくづく見下げ果てた野郎だ、カレン・ニンフェア」

「君が命がけで掴んだ手掛かりから、僕の術式を使って彼女の現在位置を特定した。彼女は今、アンとの戦闘の真っ最中だよ」

「戦闘って……あいつと渡り合ってるのか? カレンは」

「状況を見る限りはね。術式を持たない生身の体なのに、とんでもない格闘センスだよ、彼女」


 ホムンクルスであるアンの身体能力はデュールが一番理解している。彼女の白兵戦におけるポテンシャルは、間違いなく人外の域だ。

 それに生身の人間が単身で渡り合うなど、出来の悪い冗談にしか聞こえなかった。いったいどれだけの研鑽を積めば、それほどまでの境地に達することが出来るというのか。


「とはいえだ、肉弾戦に持ち込んだ以上、アンの有利は変わらない。あいつには再生能力がある。時間が経つほど不利になるのはカレンの方だ」

「それがそういうわけにもいかないんだ」

「なに……?」

「さっきの爆発騒ぎで多国籍軍が集結してる。もう数分もしたらこの辺一帯は無菌室になる。そうなったらもう作戦以前の問題だ」

「最高の冗談だな、そりゃ」


 ちょっと眠っている間に、随分と分かりやすいルールになったものだと、嬉しいやら恨めしいやら、半々の感情がデュールの脳裏を去来する。

 とにもかくにもこうなってしまった以上は短期決戦だ。多国籍軍に包囲される前にこの場を切り抜ける。脳震盪でバカになっていた今のデュールには、むしろこのシンプルさは願ったり叶ったりだろう。


「奴らの居場所は?」

「ここから北東に二キロ。山林地帯を北上していってる」

「めんどくせえところでおっぱじめたな。とにかく車だ。一秒でも早くアンに合流する」

「その状態で運転できるのかい?」

「言ってる場合か。どの道ここにいたら拘束されるんだ。お前も腹括れ!」


 言い出すや否やデュールは立ち上がり、マーケットの入り口の方へと向かう。強打した全身が至る所で鈍く痛み、疾走せんとするデュールの体を抑えつけた。これだけ痛みながらも骨折がなかったのは、古着の山に運よく着地できた事と、日ごろから潜ってきた修羅場によって研ぎ澄まされた戦闘者としての勘の賜物だろう。


 が、この分ではどの道前線を張って戦闘に参加するのは無理だ。カレン・ニンフェアに直接引導を渡す大役は、今彼女と戦っているアンに委ねるしかない。







 最初の一太刀で仕留めるつもりだった。


 自身の能力を過信していたわけではない。ただ、生物として、純然たる能力値を見た上で、ホムンクルスである自身のスピードについてくる人間がいることなど、アンは思いもしていなかった。


 多国籍軍が時期に集まってくることを事前にダンテから伝えられていたアンの選択肢は、とにもかくにも速攻での決着。故に彼女は自身が出せる最高スピードで一挙にカレンの懐を侵略し、その胴体を両断せんと剣を一閃する。


 しかし、カレンは横薙ぎ振られた初太刀を肘と膝で挟み込むように防ぎきり、続く二撃目も振り下ろす寸前に柄頭つかがしらに掌底を当てて打ち飛ばしたのである。身体能力においても間合いにおいても、圧倒的優位にあったはずのアンの速攻を、研ぎ澄まされた技の冴えで見事に完封したのだ。


「私をただの秘書だと思って甘く見たわね。シンジケートであの魔女のそば付きを務めていた人間が、ただのカバン持ちなわけがないでしょ!」


 初速の勢いを完全に止めたカレンの拳が、逆襲とばかりにアンの鳩尾みぞおちに突き刺さる。

 速さも硬さもそれほどではない。だが神経と内臓に直接響くかのような衝撃。腹の中で思い切り鐘を叩くような残留感が痛みとなってアンのかんばせを歪ませた。


「いってえ、妙なパンチ出しやがって」


 ホムンクルスであるアンであれば、この程度のダメージは即座に回復するため、勝負を決するほどの脅威にはなりえない。体力の面からみても最終的な優位を明け渡すことにはならないだろう。

 しかし敵はアンの最高速度をあっさりと捌き、そこにカウンターを乗せてくる技量の持ち主。戦闘経験の浅いアンであっても、それがどれだけ驚異的なものであるかは理解できた。


 加えてこのいつまでも残る打撃の残留感。肉体の損傷はホムンクルス特有の再生能力でどうにかなるが、神経に付きまとうような痛みの感覚までは如何ともしがたい。一見地味なカレンの攻撃ではあったが、食らう側としては想像以上に嫌な代物だった。


 一方で、驚愕はカレンとて同じだった。先の一撃、臓腑を八つ裂きにするつもりで放った渾身のけいである。手応えから見ても確実にアンの正中線を捕らえていた。

 それをまともに食らって立っているどころか、一片の闘志の揺らぎもない。


 小柄な体格に見合わぬ異常なタフネス。スピードもパワーも常人の埒外らちがい。おおよそ怪物と言って差し支えないポテンシャルに加え、地中の鉱物から即座に武器を生成する高い精度の錬成術式を駆使し、リーチの面でもあちらが有利。悔しいが近接戦闘ではアンの有利は覆らない。


 だが──アンの最初の一撃が速攻勝負を目的とした最高速度であれば、少なくとも速度の限界値は見切ったと言ってもいい。防御に徹しつつ、確実にカウンターを差し込みながらダメージを蓄積させ、動きが鈍った隙に、最低でも片足は持っていく。


 それを達成する上での最低条件を満たすため、カレンは取り落した荷物を再び拾い上げると、背後に広がっている山林に向かってきびすを返した。


「あっ、待ちやがれ!」


 頓狂とんきょうな声を上げながらアンが追いせる。シボラ難民キャンプの周囲にまばらと散在する雑木林は、薪を得るために多少人の手が入ってはいるが、微妙な勾配がつづらに続く悪路がアンの全速の機動に制約をかけていた。


「クソ……どこ行った?」


 カレンの咄嗟の行動に意表を突かれはしたが、アンが彼女を見失った時間は十秒にも満たない。その短時間でアンを振り切れるだけの距離まで逃げ果せるのは絶対に不可能だ。

 ──奴はまだ必ず近くにいる。そう確信したアンが周囲の林に意識を集中させたその時、横合いから飛来してきた石のつぶてが彼女の側頭部を捉えた。

 激突したつぶてはアンのこめかみを切り、傷口から血がしたたり落ちる。別段それ自体は大したことはない。しかしこちらを完全に舐め切ったかのような姑息な手口が、アンにはどうしようもなく我慢ならなかった。

 闘争の空気に強張っていたアンの剣幕に、怒りの念が上乗せされる。


「野郎……」


 熟練の戦闘者であれば、それが明らかな挑発であることは即座に看破できたのだが、未熟なアンに対しては効果覿面てきめんだった。まんまと乗せられたアンは石が飛んできた方向に殺意をみなぎらせ、敵がいると踏んだ方へと踵を返した瞬間、すでに背後の茂みに身を潜めていたカレンが猛然と襲い掛かった。


「てめえっ!」


 意識が切り替わるわずかな隙に、滑り込むように懐へと入ってきたカレンの掌底が下顎目掛けて襲い来る、完全に虚を突かれたアンは、それでも持ち前の勘でその一撃を凌ぎ、返す刀で一閃をお見舞いする。


 だが、剣と体の間に存在するわずかな死角に潜り込まれた今、間合いの主導権はむしろカレンのものだ。ここまで接近されてしまった以上、全力で振りぬくことは叶わない。それでもと気合と根性で出来る限りの力を込めて刃を振り抜いて見せたアンの抵抗だったが、それがここにきて大きく裏目に出た。


 力任せで重心がブレた一撃。カレンはその間隙を見切って身を翻すと同時にアンの腕を掴み取り、そのまま外側に捩じり上げながら力の流れを掌握する。あらぬ方向に重心が持っていかれたと思った次の瞬間、アンの視界が突如として天地反転し、気付いた時にはなぜか背中から地面に叩きつけられていた。


「ガハ……」


 わけもわからず目を剥いていたアンに、さらなる驚愕が襲い掛かる。

 なんと彼女が手にしていたものとまったく同じ剣が、今まさに彼女に対して振り下ろされようとしていたのだ。

 カレンは先の接近でアンの攻撃を捌くと同時に、彼女の手から剣を奪い取り、アンが体勢を戻すよりも早く、既に剣を振り被っていたのである。


 空気を裂くような渾身の上段斬りがアンの頭蓋目掛けて振り下ろされる。それが命中すれば、いくら人外の再生能力を持つアンでもタダでは済むまい。


 アンはもう一方の剣をカレンの剣筋に差し込み、間一髪で直撃を免れると、すかさずその腹を蹴り上げて間合いから脱出した。


「チッ……なんて反射速度」


 忌まわしくもあの状況から抜け出された現実にカレンが舌打ちする。パワーもスピードも劣る中、現状カレンが唯一アンに対して優位を取れるのは、研ぎ澄まされた技と戦術の妙のみ。それも地形を利用した攪乱を含めてようやく五分という有様だ。本音を言えばこのやり取りでせめて有効打くらいは決めておきたかったが、なかなかどうして目論見通りには運ばない。


 趨勢を六:四にまで持ち込ませるには、やはり腕か脚に甚大なダメージを与えるしかない。先ほどは勝ちを急いで首狙いで仕掛けてしまったが、こちらの想定以上にアンの反射神経がずば抜けていた。


 間合いはリセットされ、先のように潜伏からの奇襲作戦はもう出来ない。あちらは確実にこちらの移動先を追跡し続けるだろう。下手に地形を利用しても、その不利を悟られて周囲の木々を手あたり次第伐採されたら終わりだ。向こうはまだその発想に至ってないのが幸いだが、錬成術式で樹木を変形させられた日には目も当てられない。


 しかし、アンとしても一切予断を許さない心境ではあった。こちらの動きを確実にいなし、ここまで追い詰めてくる敵は彼女にとって初めてだった。これが術式なしの生身の人間によるものだというのだから、驚愕を禁じ得ない。もしこれがアンより身体能力の面で劣るデュールやダンテとのマッチアップだったらと思うと、背中に冷たいものを感じずにはいられなかった。


 靴底で砂を嚙む音さえ聞こえてきそうな静寂の睨み合いの中で、両者の思考が交錯する。どの道持久戦はあり得ない。騒ぎを聞きつけた多国籍軍が集結してくる前に、次の打ち合いで勝負を決めきる。


 先に動き出したのはカレンだった。カレンは羽織っていたウインドブレーカーのファスナーを下ろし、その流れのまま正面からアンに向かって突撃する。


「舐めやがって、どつき合いで有利なのはこっちだっつうの!」


 距離を詰めてくるカレンの突撃を、まごうことなき殺意を込めてアンが応じる。互いに得物は剣一振り、奇襲と太刀取りの手札を切ってようやく手にした互角のリーチを、カレンは最大限に利用する腹積もりだった。

 しかし、それだけで勝ちを譲るほどアンも甘くはない。相手が正面から突っ込んでくるのなら、今度こそ確実にその総身を切断するのみ。

 アンの集中力が跳ね上がる。その腕は神速の振り抜きのため、その目は刹那の隙を見極めるため、アンの持ちうる全知全能が、この必殺の一斬のために研ぎ澄まされていく。


 カレンの重心がわずかに前傾した、そのごくわずかな綻びを見極めたアンは、しかし微動だにすることはなかった。


「何!?」


 踏み込みの刹那の中でカレンが瞠目する。これ以上の侵入を許せば間合いの有利はカレンに渡る。それを見過ごすほどの馬鹿だというのか? あの少女は。


 いや、そんなはずはない。さすがにそれはあり得ない。

 彼女は待っているのだ。極限の極限、決して後戻りのできない最後の分水嶺。その一線にカレンが踏み込む瞬間を。


 ならばと、カレンはその疾走をさらに加速させる。アンの見切りの精度を限界まで揺さぶるために。

 さあ、ここが分水嶺だ。両者の眼が互いにとっての必殺の間合いを見極め、極上の一閃を振り抜く──その機先を制したのは身体能力で勝るアンの横薙ぎだった。


 逆袈裟に振り抜かれたアンの剣閃は、カレンの輪郭を両断し──否、その手ごたえは異様なまでに軽く、肉を裂く感触も骨を断つ重さもそこには存在しなかった。


「かかった──」


 カレンの策略が光る。彼女が寸前になって加速したように見えたのは、歩幅を誤魔化すことで相手の距離感を誤認させるためのブラフ。実際に彼女が走っていたのは、振り抜かれた刃圏のわずかに外側だったのだ。


 完全に虚を突かれたアンの視界が突如黒く覆われる。その正体はアンが剣を横薙ぎにした直前に脱ぎ捨てられたウインドブレーカーによる暗幕だった。

 即座に服を振り払い、体勢を立て直したアンの前に、しかしカレンの姿はどこにもなかった。カレンはアンの視界が塞がれた一瞬の間に背後を取り、今まさに彼女に向かって必殺の斬撃を見舞おうと振りかぶっていたのだ。


「終わりよ!」


 今度こそ獲る──裂帛れっぱくの気合を乗せたカレンの手元が、突如として重みを失った。振りかぶった刃が振り下ろされるまでのほんの刹那。一秒にも満たない時間の中でその理由をカレンは理解した。


 この土壇場にきて、アンは錬成術式を解いたのだ。となれば当然、術式範囲内にあった彼女の剣もマナの欠片となって散っていく。先程までのアンの戦術にはなかった機転だ。


 この短い時間の中で急激な成長を見せたアンの脅威を、しかしカレンは油断なく見極めていた。奪った武器が術式によって構築されたものであれば、術式範囲内にある限り任意のタイミングで解除することも可能。そこに可能性が存在する以上は、決して対策を怠らない。


そして見事にカレンはその可能性を引き当てたのだ。霧散して消えていくカレンの手には、奪い取った剣とは別に一振りのナイフが握りしめられていた。圧倒的に不利だった戦況の中最後に乾坤一擲を制したのは、カレン・ニンフェアの技と戦略、そしてあらゆる状況を想定した先読みの力であった。


「ク……ッソ」


 左脇を下から抉るように、カレンのナイフが深々と突き刺さる。その一撃はアンの腋窩神経えきかしんけいを切断し、さらには腋窩動脈えきかどうみゃくにも損傷を与えていた。忸怩じくじたるは直前に錬成術式を解かれた際に生じた重心のズレと、角度的な問題で心臓を狙えなかったことだが、当初の目的通り、腕一本を機能停止にまで追いやった。


 カレンはおまけとばかりに、離脱と同時にアンの膝裏にナイフを突き立てつつ間合いの外へと飛び退いた。


 これで腕と脚、両方に有効打を与えることに成功した。いかに強靭なタフネスを持とうが、神経と腱を切断された手足、大量出血による失血のリスクを抱えた状態で跳ね回るのは不可能だ。敵は今秒ごとに体力を失い、今に立っている事すらままならなくなるだろう。


「……危なかったわ。大したものよ、お嬢さん」


 それはカレンの心からの本音だった。持ち得たのは鍛え抜かれた技と経験の差。しかし目の前の少女はそれをも凌駕する身体能力と成長速度を持って、あと一歩のところまでカレンを追い詰めたのだ。その事実に驚嘆しないほど、カレン・ニンフェアも不感症ではなかった。


 まさに薄氷はくひょうの勝利、極限まで張りつめていた神経が、束の間の安堵に綻び掛けたその時だった。


「……え?」


 不意に重心が傾く。バランスを失って体が倒れていく。咄嗟に腕を突こうとしたが、どういうわけかそれも叶わずにカレンは地にぬかづいてしまっていた。

 慌てて前方に視点を戻したカレンだったが、彼女の目の前にはあり得るはずのない光景が広がっており、それは掛け値なしの驚愕となって今度こそ彼女の総身を打ちのめした。


「馬鹿な……そんな馬鹿な!」


 彼女の目の前には、もはや立つことさえままならないはずの少女が、今まさに剣を振り抜いたばかりの格好で背を向けていた。さらに彼女とカレンの間には、肩から切り落とされたカレンの右腕が、生気を失った色合いで転がっていたのだ。


「嘘よ……だってそんな……あり得ないわ!」


 腕も足も、まともに動かすことなど絶対に出来ないレベルのダメージを与えた。よしんばアンが最後の力を振り絞って特攻を仕掛けてきたにしても、満身創痍の身で放てる剣戟などたかが知れている。にも拘らず、アンは先ほどまでとまったく変わらない機動力で、神速の一閃の下にカレンの右腕を切断して見せたのだ。


 こんなのはもう、タフネスどうの以前の問題だ。どうにか状況を理解しようと、こちらを振り向いたアンの姿を凝視した結果、カレンは初めて自身のミスに思い至った。


「傷が……治ってる?」


 山林に潜伏し、挑発と陽動のために石を投げつけた際に負わせたこめかみの傷が、何事もなかったかのように消え失せていた。別段頭蓋を砕くつもりの剛速球をお見舞いしたわけではない。出血が止まる程度なら、特に驚嘆には値しない事柄だ。


 だが、傷そのものがなくなっているというのはどういうことだ?


「まさか……」


 この局面において、カレンの思考が全く想定していなかった可能性へと思い至る。


 負傷の即時再生、強靭な身体能力、高精度に練り上げられた魔術のセンス、そして燃え盛る様な紅蓮の瞳。生身故にマナを知覚できなかったカレンが終ぞ気づくことのなかった、目の前の少女に秘められた力の正体を──。


「そう、……ホムンクルスだったのね」

「まあ、そういうことだ」


 アンが韜晦とうかいもなく首肯したことで、カレンは自身が犯した痛恨のミスを思い知る。

 そう、彼女は常軌を逸してタフだったわけではない。最初に鳩尾みぞおちに撃ち込んだ掌打も、彼女は別に耐えていたわけではないのだ。破壊された内臓を再生させていたにすぎない。損傷をなかったことに出来るのだ。

 この事実を誤認してしまったカレンの運命は、もはやその時点で決まっていたも同然。彼女がこの場を切り抜けるために講じた一切の策略は、アンの再生能力の前には無にも等しい足搔きでしかなかった。


「そんなの、反則じゃない。出鱈目でたらめよ」

「反則だろうが出鱈目だろうが、早とちりして自爆したのはあんたの方だ。実際、喧嘩の腕ではアタシはあんたに一歩も及ばなかったんだからな。正直身につまされる思いだよ。あんたがこんなに使える奴だなんて、まったく思ってもみなかったぜ」

「ふん、人形風情が言ってくれるわね。才能で勝ちを拾った分際で」

「知らねえよ、勝ちは勝ちだ。約束通り、アタシは今からあんたを刻む。これが全てなんだよ」


 アンは冷酷に言い放つと、さらにもう一振り剣を錬成してカレンににじり寄る。

 彼女が一歩踏み占めるごとに、死の冷気が肌一面からみ込んでいくように、その総身を凍てつかせていく。切り飛ばされた右腕の切断面からは既に大量の血が流れ出ており、その意に反して徐々に体の動きが鈍化していく。

 あらゆる状況が、あらゆる方向性をもって、カレンが次に繰り出される一撃を凌ぐことの不可能性を突き付けてくる。


 よもやここまで、解放区を目前にしたこの難民キャンプで、ついに追い詰められたカレン・ニンフェアの喉首に、しかしその刃が突き立てられることはなかった。


 アンの動きがにわかに止まり、殺意に満ちていた表情が、苛立ちによって曇りの度を増した。それはまるでせっかく仕留めた獲物を横取りされた狼の如き剣幕だった。


 アンに遅れてカレンも周囲の異常に勘づく。彼女たちの周囲を囲うようにいくつもの気配が森の陰から一斉に銃口を突き出した。間違いない、騒ぎを聞きつけて殺到してきた多国籍軍の哨戒しょうかい部隊だ。


「そこを動くな、お前たちを拘束する」


 くぐもった兵の言葉からは、こちらに対する一切の譲歩をも受け付けない硬さが見て取れる。動くなと命令した以上、それに少しでも逆らおうものなら躊躇なく発砲する気構えで臨んでいるのがありありと感じられた。


 アンもカレンも身じろぎ一つしない。何も軍の指示に従っているわけではない。突き付けられた刃が、確実な勝利が、ほんのあと少しの所にまで迫っていた。そこに思わぬ横槍が入ったことで、つきかけていた決着が膠着状態にまで後退した結果、両者は静止以外の選択肢が取れなくなったのだ。


「クソッタレ、この大一番で余計なことしやがって……」


 かくも忌々し気にアンが吐き捨てる。突き付けられた銃口が徐々にこちらとの距離を縮める。このままではもはや全てが御破算になるのは目に見えている。カレンも、アンも、両者はこの時初めて、明確な共通の利害の一致を見ていた。


 確認出来る限り、接近してきた哨戒部隊の人数はアンの視界内に五人、カレンの視界内に六人。向かい合う二人を包囲しながら、徐々に徐々に近付いてきている。

 だがそれはあくまでも現時点での話だ。襲い来る敵を一人一人排除していても、続々と押し寄せてくる物量に押され、最終的には完全に逃げ道がなくなる。

 ならば、ここは一気呵成に周囲の敵を蹴散らし、敵勢力が手薄になる瞬間を見計らって、一時的にでもここから離脱するのが最適解だ。


「あんた、何人いける?」

「さあ、お前の采配次第だ」


 アンの問いからその意図を察したカレンが、目配せと共に同調の意を示す。

 迷っている時間はない。そう決断したアンは、手にした双剣のうちの一本を上空目掛けて放り出し、兵たちの注目が宙を舞う剣に集まったのを見計らうと同時、一気に加速して敵中へと突っ込んでいった。


「このクソが! 余計な茶々入れやがって! 全部台無しだ!」


 怒りのままに振るわれた刃が哨戒兵たちを両断する。その一度の踏み込みで三人が死亡し、命からがら初撃を逃れた兵たちが、恐怖に錯乱しながら銃弾をばらまくも、弾道をも見切る動体視力を持つアンの前には意味をなさない。


 そんなアンの背中に照準を定めていた背後の兵たちに、宙に放られた剣を掴み取ったカレンが襲いかかる。状況からして敵対状況にあったはずの両者が、この局面において共闘の姿勢を見せたという事態に、虚を突かれた兵たちは対処もままならないまま、刻まれた骸となり果てていった。


 包囲網は瞬く間に崩壊し、一太刀ごとに舞い上がる血飛沫がやつれた山林に花道を飾る。しかし想像以上に多国籍軍の対応は早かった。先陣の哨戒部隊が全滅を喫するころには既に、後続の部隊が早くも押し寄せてきていたのだ。


「クソ、ぞろぞろと……」


 もはや元の木阿弥か。そう歯噛みするアンの耳が、遠くから接近してくる4WDのエンジン音を捉えた。


「アン! 脱出するぞ」


 土煙を上げながら山道を突っ走るは、既に満身創痍の体に鞭打って車を駆るデュールであった。多国籍軍が集結していることをダンテから聞き及んでいたデュールは、こうしてここまでアンを迎えに来たのである。


「どうやら決着はつかなかったみたいだね。腕は飛んでるけど」

「それはそれで好都合だ。アンを拾ってここから出る。カレンはここでおしまいだ」

「ダメだよデュール。彼女はメイザースに関わる重要な機密を持ってる。軍と取引でもされたら、僕たちはカルテルとシンジケートの抗争以上の厄介ごとを街に持ち込むことになる」

「とはいえここで揉み合ってる時間はないぜ」

「僕に考えがある。とにかく車を彼女たちの方に寄せるんだ」

「ええい、クソ! 迷ってる時間はねえか」


 ダンテの指示のままにデュールはアクセルを踏み込む。獰猛な唸りを上げながら山道を疾駆する4WDの有様は、さながら荒れ狂う猪だ。デュールは策も考えもなく混沌の只中に飛び込んでいき、砂煙を上げながら荒々しく停車した。

 すかさず車から飛び降りたダンテが、集結しつつある敵陣に正面から向かい立ち、胸の前で三角の掌印を結びながら詠唱を紡ぐ。


思考感応サイコネクト混線ランブル──!』

 

 瞬間、カレンを含めたダンテの術式範囲内にいた兵たちが一挙に前後不覚へと陥り、崩れ落ちるように倒れていく。

 意識を共有し、言語の壁を越えて他者との意思疎通を可能とする魔術通信である思考通信サイコネクトは、本来同意を得た者同士でのパスを開通させなければ使用が出来ない。


 しかし、ダンテはその卓越した解析能力をもって、一方的かつ強制的に自身の意識を対象にねじ込むことが出来るだけでなく、掌握した相手の意識をシャッフルさせることで、敵の機動力を削ぐ攻撃手段として運用することが出来た。


 自分の意識と体の動きが一致しない状態が秒ごとに切り替わると、対象は激しい船酔いのような錯覚に陥る。もはや戦闘どころではなくなった敵勢力はその場に膝をつき、激しい嘔吐と共に行動不能となった。


 敵の無力化を見届けたデュールが、すかさずアンに指示を投げる。


「乗れ!アン。そこのカレン・ニンフェアも担ぎ込め」

「何言ってんだよ! ここで決着付けないと!」

「馬鹿野郎! もう数分もすりゃここは無菌室だ。野郎の始末は場所を変えるしかねえ!」

「チッ、仕方ねえ」


 どうやら選択の余地はないらしい。立て続けの横槍ではらわたが煮えくり返る思いのアンは、苦虫を嚙み潰したように歯噛みしつつ、昏倒したカレンを担ぎ上げて車に乗り込んだ。


「出せ!」

「分かってんよ!」


 デュールが穴も空けよとばかりにアクセルを踏み込む。濛々と砂の尾を引いて疾駆するデュールの車は猛然と山道を抜け、脱兎のごとくシボラ難民キャンプの敷地外へと駆けていった。


「アン、ダンテ、そいつの止血と拘束だ。この際だ、野郎がこの三日間で誰とコンタクトを取ったのか、念のため聞いとかなくちゃならねえ」

「そういうの先に言ってくれよ。殺しちまうところだったぜ」

「それはそれで構わねえんだよ。俺たちの第一目標はカレン・ニンフェアのFLPE入りの阻止だ。尋問はまあ、行きがけの駄賃だな」


 デュールの顔が安堵に緩む。ここまでに紆余曲折はあったが、目下最大の懸念であったカレン・ニンフェアの捕縛は、いくつもの幸運に恵まれる形で、ここにこうして相成った。

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