Act.3:霞の足跡




 メイザース地区を東西に分かつ運河の西側。

 荒廃が色濃く広がる立ち枯れの市街地の片隅で佇む、一際無骨で無機質な鉄コン建築に掲げられた『エストレージャ警備保障』の表札が、この街の事実上の支配者として名を連ねる麻薬カルテル、ロス・サングレのフロント企業のものであることは周知の事実である。


 亜熱帯の真夏特有の湿った暑さをものともしない寒々しい雰囲気は、決してその建物のグレイカラーメインの外観故ではない。


 その正体は、北の山岳地帯仕込みのゲリラの血脈をむ氷河のような冷徹さと、情け容赦のない苛烈さで研ぎ澄まされた構成員たちが無意識に発している、峻嶮しゅんけんの如き厳格さ故のものだった。


 しかし、今日のカルテルの放つオーラは、いつにも増して殺気立っており、それは執務室にて何やら電話中の男とて例外ではない。


「そうか、連中は行動を開始したか」

『ええ、私にできるのは今はもうここまで。この街の命運を握るのは彼らってわけ』


 大仰な言い振りの相手方に聞こえないよう、受話器を握りしめるイービスは溜息を吐いた。

 完全実力主義の超武闘派組織であるカルテルの、その頂点に立つ存在である彼の体には、これまでに数々の戦いの爪痕が傷として刻まれている。その中でも今彼に昔を思い出させるのは、額から耳にかけて刻まれた大きな古傷だ。


 ロス・サングレのメイザースにおける独自性は、必ずしも本国の意向に沿ったものではない。


 組織運営の方針を巡って本部と対立した数は一度や二度ではなく、彼の現場主義を通すため、ついには自らの額に焼鏝たきごてを押し付け、不退転ふたいてんの覚悟を持って今日こんにちの独自性を守護している。


 だが、今回のこの一件は、そういった忠節や流儀などを度外視した、極めて一方的な采配が下される公算が高い。本部に潜り込ませた彼のシンパによってある程度の足止めをすることには成功したが、カレン・ニンフェアのFLPE合流は、もはや避けようのない段階にまで迫っていた。


「お前を責めたところで仕方のない話だが、正直『やってくれたな』という気分だよ」


 忌々しさとやるせなさが同居したような面持ちで、イービスは電話の向こうのノウェムに対してこぼす。


『それに関しては面目次第もないわ。私としてもこの街の今は気に入っているから、今回のカレンの反目に関しては、それに見合った筋を通すつもりよ』

「是非ともそうしてもらいたいものだな。本国の反応を見る限り、状況は赤。連中はこの機会に、この街の一木一草悉いちぼくいっそうことごくを殲滅せんめつする腹積もりらしい」

『それは身の引き締まる話ね』


 黄色もオレンジも通り越してのっけから赤、か。遠く離れたエルドラの地で、連中が今か今かと腰を浮かしている様が目に浮かぶ。


 とはいえだ、ただデュール達の首尾を座して見届けるほど、彼らも悠長には構えていられない。あらゆる可能性を見据え、不測の事態に備える必要がある。


 その『不測の事態』には、当然スタシオン・アルク・ドレとの全面戦争という最悪のシナリオも含まれている。


「ともかくだ、こちらが譲歩できるのは先に提示した三日間という時間だけだ。互いに上々の首尾に至れるよう期待している」

『ええ、何か分かったらまた連絡するわ』


 こうして、イービスとノウェムの通話は終了した。

 両組織の不可侵協定が相成ってから実に四年余りが経つが、これほどの緊張感は抗争時代ですら数える程度しか味わう事はなかった。今でこそ立場ある身になったとはいえ、イービスの中に眠る超武闘派の血が、鉄火場の匂いに少しも沸き立たないかといえば噓になる。


 組織の長として然るべき立ち振る舞いを身に付けながらも、それ以前の領域にある『雄』としての本能は、四年そこらで枯れるようなものではない。


 いざともなれば再びその血を滾らせることもやぶさかではないが、その一方で惜しむらくは、その闘争がつまらない上方の政治によって誂えられた茶番劇の壇上であるという点だ。


 メイザースという掛け値なしの力場において、最後に物を言うのは圧倒的な力の摂理。そんなところに、しみったれた打算としょうもない支配欲に踊らされた亡者共に水を差されることは、シンジケートの企ての巻き添えを食う以上に、イービスにとっては許しがたい狼藉だった。


 とはいえ、ノウェムにも伝えた通り、このままではシンジケートとの衝突はほぼほぼ既定路線。本国のメイザースに対する並々ならぬ執着の度合いからして、焼くか焼かれるかにしか落としどころの見いだせない戦争になることは確かだ。


 そのための備えとして、イービスは組織の長として万全の体制を整えておかなければならない。一度置いた受話器を再度持ち上げたイービスは、久方ぶりにかける番号にダイヤルを回す。


 三コールきっかり、応答のノイズが鳴っても通話相手は何を言うでもなく、あくまでもイービスからの切り出しを沈黙の中で待っていた。


「サイファー、今すぐ部隊を率いて本部へ集結しろ」

『退屈な待機時間もようやく終了か?』


 闇の底を這うようなくぐもった声が、鎌首をもたげた竜の吐息を思わせる。

 出来ることなら彼らをこのタイミングで動かしたくはなかった。イービスは心底残念そうな様子で二の句を継ぐ。


「今はまだ、だ。とはいえ状況は開戦一歩手前という塩梅あんばいだ。いつ事が動いてもおかしくはない以上、お前たちにいつまでも油を売らせておくわけにもいかない。もう一度繰り返す。『イコノクラスィア』、完全武装にて本部へ集結しろ」

『委細承知。明朝までに部隊を率い、配置を完了する』


 そう短く言い残し、サイファーとの通話は切れ、今度こそ嘆息したようにイービスは凝り固まった眉間を揉んだ。


「サイファー。こんな茶番のためにお前を使うことになるとはな……」

 

 一人ごちるイービスの言葉からは、得体の知れないものに向けられるような畏怖の念が見え隠れしていた。

 それもそのはず、その暴力性と残忍さから、地獄の悪魔の如く恐れられるロス・サングレにおいて、この『イコノクラスィアのサイファー』こそ、組織をメイザース三厄災とまで言わしめた最大の要因なのだから。







 カルテルとシンジケートの対立が、いよいよ武力衝突の様相を匂わせ始めた中、カレン・ニンフェア討伐の任を帯びた便利屋の二人とダンテ達は、度し難いことに未だ街の中に留まったままだった。


 エルドラへの出発の準備は既に整っており、本来であれば今すぐにでも街を出るべきところなのだが、そんなデュールの主張に対してダンテが待ったをかけたのである。


 約束の日までの三日間、任務が下されてからすでに五時間。陸路を全力で飛ばしつつ、亜空間移送ゲートで大陸を跨いでも、エルドラの解放区までにはたっぷり十二時間はかかる。つまり、実質的にカレン討伐のために使える時間は、帰りの移動時間を計算から外したとしても、残り二日ほどしかない。


 それほどまでに逼迫した状況にありながら、ダンテが指示した車の行き先は、まさかのカレン・ニンフェアの自宅であった。


「分かんねえ……分っかんねえよ、ダンテ。今更カレン・ニンフェアの自宅に忍び込んで、ブラジャーでもくすねるつもりか?」

「その必要があるならそうするよ」

「要らねえよ! ヤロウの下着一枚でこのクソ状況が解決するんなら、神も天使もお呼びじゃねえんだよ」


 メイザース東地区のハイウェイを走らせながら、苛立ちを隠せないデュールは荒々しく紫煙を吐き出した。


 無理もない。事が起きる以前から、カレンの自宅はシンジケートの人間によって隅々まで調べられており、エルドラから先の、彼女の行方のヒントになりそうなものは何もなかったことが判明しているのだ。


 ダンテが常人とは異なる視点を持つことはデュールとて承知の上だし、彼が無駄な行動をする人間でないことも理解している。


 が、それにしたってである。ダンテの中で何かしら筋の通った理屈があるにせよ、せめてそれを納得のいく形で説明をしてもらわなければ、明日も知れぬ身としては焦らずにはいられない。


「僕も別に自宅からカレンの行き先が見つかるとは思ってないよ。ただ、彼女がどういう人間なのか、資料からは分からないような彼女の息遣いを、実際に自分の目で確認しておきたいんだ」

「それがよく分かんねえんだよな。本当に出発を後らせてまでやらなきゃいけない事なのか?」

「こういうのは理屈じゃないからね」


 理屈じゃない。つくづく無敵の返しだと思わざるを得ないが、ダンテの有能さを分かっていなければ、デュールも今こうして指示通りに車を転がしてはいなかっただろう。実際、それこそ理屈ではない部分で、彼にも何か感じるものがあったのだから。


「それにしても狭いね、この車。いつもの車はどうしたの?」

「リルフィンゲルの馬鹿に凹まされて修理中だ」


 いまデュールが運転しているのは、普段彼が配達業務で使用しているセダンタイプのものではなく、後部座席エリアの一部まで拡張されたカーゴが特徴的な4WD車であった。


 数年前にシンジケートから軍の払い下げ品を譲ってもらったもので、ミリタリー感の強かったオリーブの塗装はブラックにリカラーされている。


 もともと乗り心地やスペースに余裕のある代物ではなかったのだが、デュールのとあるカスタマイズによって、ダンテが今座っている後部座席のシートは満足に倒すことが出来ないほどに切り詰められていた。


「アタシも初めて見たぞ、これ。いつものヤツの方がいいんだけど」


 助手席のアンもダンテと同様にぼやく。彼女とペアを組むようになってからこっち、助手席は実質彼女の特等席なのだが、ただの行楽気分で彼女をそこに乗せるデュールではない。前方の警戒と視界の確保、カーチェイスが起きた際の交代要員として、普段からデュールの運転を見ておくように言いつけてある。


 初めの一か月に散々辛酸しんさんを舐めさせられただけあって、アンの勘所をうまく抑えていたデュールも、なかなか抜け目がない。


「普段こいつは武器庫として使ってるからな。俺の術式が符術だってのは知ってるだろ?」

「ああ、それで……」

「ん? ん? どゆこと?」


 今の説明でダンテは即座に意図を理解したが、アンの方はまだいまいちピンと来ていない様子だった。


「符術は、術式を書き込んだ呪符を詠唱と同時に開放することで、そのコードに応じた術式を任意のタイミングで発動させる魔術だよ。デュールはその用途を、物体の転送に絞って運用しているんだ。大方後ろのカーゴには、銃器に弾薬、爆弾を詰め込んで、転送用の陣を敷いてあるんでしょ?」

「ま、おおむねそんな感じだ。本当はもっと色々できるんだが、俺は魔力が低いし、符術で対応できる空間術式の範囲も、せいぜいメイザースの街一個分だ。陣を敷くスペースやらなんやら、諸々制約を加味すると、術式と対象を絞って武器召喚に限定し、カーゴルームに陣を敷いてパッケージ化しておくのが、俺にとっての最適解だったってわけさ。だからこうして遠征の時は、武器庫ごと移動しなきゃなんねえのさ」


 術式の説明という名目の中に、何やら別の意図を察したのか、傍らで聞いていたアンが絡むように眉尻を上げた。


「デュールおめえ、わざと分かりづらく言ってんだろ」

「要するに儀式の魔法陣と武器を車にセットで積んで、いざって時のために移動しやすくしたってこと。言ってみればこの車自体が移動する結界なのさ」


 意地の悪いデュールに代わり、ダンテが補足説明を付け加えた。


「なるほどな。それで、なんで普段からこっちじゃないんだ? アタシはいつものヤツの方が好きだけど」

「燃費が悪い、重い、危ない。以上」

端折はしょりすぎだろ!」

「この車には大量の武器と弾薬、爆発物がセットで積み込まれてるんだよ。彼の仕事柄、しょっちゅう撃ち合いになるし、そんな時に至近距離に爆弾積んだ車があったら危険だろう? カーゴルームの装甲を厚くして被害が広がらないようにしてはいるけど、その分さらに車の重量も増えて、燃費が悪くなるのさ」

「アタシ、デュールじゃなくてダンテと仕事しようかな」

「馬鹿言え。おめえがPHNの下になんてついたら、半月と持たず社長の生え際が後頭部を一周しちまう。不憫ふびんすぎてお涙も出やしねえ」

 

 言いながらデュールはハンドルを切り、移動結界たる4WDがハイウェイを外れ、ダウンタウンの街並みへと下りていく。


 ダンテが言うには、カレン・ニンフェアの自宅はこのダウンタウンの中心付近というが、到着までにはまだ少し車を走らせる必要があった。


「そういえば、僕はまだ彼女の術式について聞いてないけど。アンはどんな術式を使うんだい?」

「え? アタシもわからねえけど」

「錬成術式だ、バカタレ。こないだ教えたろうが」

「ん? ああ、それそれ」


 あっけらかんと説明をデュールに丸投げしたが、彼女のその様にダンテの表情がわずかな驚愕で強張った。


「え? アンは自分の術式を理解しないまま扱ってたのかい?」

「意味わかんねえよな。まあ、その辺りはこいつがホムンクルスだからってことにしてるんだけど。俺ら人間が息吸って吐くのと同じ次元で、こいつは魔術を扱えるってな」

「それは分かるけど、最低限の仕組みくらいは教えておくべきだと思うな」

「へえ、知らなかったぜ。俺の職業が家庭教師だったなんてな」


 あくまでも有用性に重きを置くデュールにとって、魔術の仕組みやらなんやらというのは二の次の問題なのだ。この世界で武器に求められるのは仕様や性能などといった御託ではなく、『使えて当たるか』の方がよっぽど重要だ。したがって、アンが細かい理屈を抜きにして魔術を扱えるならば、デュールとしてはそれでノープロブレムなのである。

 しかし、今回同じ現場に立ち会うダンテとしては、彼女の術式の詳細についてはある程度理解しておかなければならない事柄だった。


「アン。君は魔術が何を媒介にしているかは知っているかい?」

「分からねえ」

「君の術式である錬成術式については?」

「分からねえ」

「そもそも君がホムンクルスであるという点については?」

「分からねえ」

「…………」


 そうか、よく分かった。何も分かっていないということが。


「デュール」

「なんだよ」

「雑」

「別にいいだろ。そんなに授業がしたいなら今この場で済ませちまいな」


 肝心なところを丸投げするデュールに呆れを覚えながらも、ダンテは仕方なしと言わんばかりにかぶりを振ってから咳払いした。


「魔術の発動を媒介するのはマナというエネルギーだよ。正式名称は多元中立同素体。

Multi-Utility マルチユーティリティ Neutralニュートラル Allotropeアロトロープ』の頭文字をとってMUNAマナ。何かであって何物でもない。この世界のあらゆる要素に変質する特性を持ったエネルギーを使って、僕たち魔術師は魔術を行使することが出来るんだ」

「んん、んん?」

「火にも水にも鉄にも、なんにでも化ける物体」

「なるほどな!」

 

 複雑なダンテの説明に補足する形で、デュールが簡潔にまとめる。実際には物体ではなくあくまでもエネルギーであり、マナが変質するのは必ずしも物質そのものではない。

 運動やベクトルなど、とある現象を形作る上で必要なプロセスを構築するのも、媒介としてのマナの役割なのだが、そこまで説明したところでアンに理解できるはずもあるまい。


「僕たち魔術師は、生来生まれ持った思考や素質、いわゆる魂の本質を基にした、世界に対する心象風景を持っている。マナはそのイメージに呼応して、その術師が持つイメージを具現化する。

 僕の残滓検索サイコメトリーや、フォージの熱量操作サーマルオペレーションとか、その人だけが持つ術式のことを固有術式というよ」

「デュールの符術は?」

「彼のは固有術式とは違って、魔術の近代化に伴って研究、体系化された現代魔術に分類される術式さ。魔力総量に依存はするけど、然るべき工程を踏めば誰にでも扱うことが出来る。

 魔導軍の兵士の主流は、体系化された術式がメインの現代魔術師によって編成されているんだ」

「ま、俺のルーツはレムリアの先住民族だからな。血筋的に魔術との親和性はそんなに高くねえんだ」


 一世紀前、魔導大国アルカディアと機巧国レムリアとの間で起こった『魔械大戦』


 魔術が近代化にむけてかじを切った直接の要因でもある戦争だが、デュールはその敗戦国に系譜をたどる人種の、さらにマイノリティなルーツを持つという事実をここで明かした。


 それは彼の猫を思わせる縦長の瞳孔という身体的特徴と、決して無関係ではないのだが、デュールがあまりにもあっさりと身の上を明かしたので、誰もそれを気に留めることはなかった。


 特に民族だの人種だのと言ったイデオロギーに無頓着なアンの無関心ぶりは甚だしく、あっさりと話の軌道を元に戻した。


「それで、アタシの錬成術式ってのは?」

「錬成術式は、一般的にはとある物体を媒介にして、それを別の形状に再構築する術式だよ。錬金術と言われることもあるけど、両者に特筆するほどの差はないから、一緒くたに覚えても問題ないね」

「まあ、その辺に関してはこいつも肌勘で分かってるとは思うぜ。酒場でこいつが下手人の首を刎ねたときにこしらえた剣は、バーカウンターの鉄板を鍛え直したもんだったからな」


 その日現場にいなかったダンテのために、酒場での一件で発覚したアンの術式についてを、デュールが端的に付け加えた。


「要するにただの鉄板を剣に作り替えられるってこと?」

「その認識で問題ない。術式範囲内にある物体なら、お前の好きなように形を変えられるってわけだ」

「ふ~ん」


 分かってるんだか分かってないんだか、なんとも曖昧な返事をするアンであったが、彼女の性格を鑑みるに、余計な知識をごちゃごちゃこねくり回すより、より直感的で枠に縛られない運用を目指す方が、彼女に秘められた可能性を伸ばす上で有用だろう。


 そう考えていたものだから、デュールもあえて細かい説明を省いていた。


 というより、現時点ではそうせざるを得ないという方がニュアンスとしては正しい。デュールにとってもダンテにとっても、アンのありようは彼らが知識として知っているホムンクルスと、いくつかの差異があったからだ。


「正直言うとさ、僕の中でのホムンクルスって、もっと寡黙で感情表現の希薄なイメージだったんだけど、アンはずいぶんと人間らしいよね」


 淡々と自身の感想を述べるダンテに追従するように、デュールが頷く。


「まあ、こいつに関しては分からないことが多すぎる。そういえばお前に調査を依頼した件、何か分かったことはないのか?」

「詳細については後日報告書にまとめるけど、一か月前に彼女を追っていた車両については特定できたよ」

「へえ、早いな」

「そんなに期待されても困るよ。現場に残された痕跡もだいぶ限られてたから、直接彼女に繋がる情報は掴めてないんだから。ただ──」


 ダンテはそこで一度言葉を切り、一瞬だけ間を空けた。それは時間としてはごくごく短い沈黙であり、そこに逡巡しゅんじゅんがあったのかさえ、傍目には判断がつかないものだった。


「ただ、現場に残されたマナの残滓から軍のデータベースに照合をかけたところ、彼女を追っていたのは、魔導軍の中でも正規に登録されていない、かなり暗部に食い込んだ機関のものだということは分かったよ」


 軍の暗部。大した情報ではなさげという前振りの割に、えらく剣呑なワードにさしものデュールも閉口した。


 どの道降りかかる火の粉は払うという方針自体に変わりはないが、その方針も相手如何である。


 敵の輪郭に当たりを付けられる程度の情報が得られたことは確かに僥倖ではあるが、まだまだ底の知れない深淵の深さを思うと、暗雲立ち込めるような気分になるのは致し方のない話だった。


 古今東西、秘密組織と呼ばれるものにロクなものなどあった試しがないのだから。


「そうなると、不自然なのはあの日以降アンに対して追手がかかる様子もない点だな。暗部なんて呼ばれる連中が関わってるなら、是が非でも取り返したいってのが奴らの心情だろうに」

「おそらくだけど、彼女に関しては同じ軍関係者にも知られたくない事情があるんじゃないのかな。それに加えて、彼女が落ち延びたのは世界最悪の犯罪都市メイザース。

 ある程度治安の悪い地域なら諜報員みたいな連中が潜り込む余地はあるけど、この街はそういう隙を見いだせないほどの閉塞感で覆われているから」

「なるほどな。追撃の掛けづらさもあるが、ほとぼりが冷めるまで放置しておく分にも都合がいいってわけか」


 確かに、あの街の閉鎖性に関しては覚えがある。メイザースで群雄割拠する勢力の、剃刀かみそりの刃の上で綱渡りをするような均衡きんこうは、その実外部からの介入によって容易く瓦解するもろさをはらんでいる。


 そのため、街の実権を握る者たちの排他性は、並みいる犯罪都市に輪をかけて苛烈であり、シンジケートが管轄する社交の場以外の領分に踏み込んで無事でいられた諜報関係者は殆どいない。


 不純な動機で利益をむさぼろうと企んだ不埒なスパイが、ピカレスク鑑賞気分でメイザースに踏み込んだが最後、翌朝には全員仲良く浜を寝床にしてくたばるのがこの街のお約束だ。

 

 そういったメイザース特有の自浄作用が、かえってアンを放置する要因になっているのだとしたら、彼女を取り巻く状況にも一定のボーダーを引くこともできる。


 しかし、それはあくまでも現段階の話であり、将来的な彼女の安全を何ら保証するものではなかった。いやむしろ、カレン・ニンフェアの計画が完遂された暁に訪れる大混乱の中でなら、軍としてはアンを奪還する絶好の契機ともなりうる。


「まさに分水嶺ぶんすいれい……か。いやはや全く、難儀な星の巡りだよ」


 誰に向けるわけでもなく、デュールは静かに独りち、すっかり灰となっていた煙草を備え付けの灰皿に押し付ける。


 奇しくもアンに対する一連のやり取りが終わると同タイミングで、一行を乗せた車はカレン・ニンフェアの自宅前へと到着していた。


 果たして鬼が出るか蛇が出るか。何が出てくるにせよ、せめてこの寄り道が無駄足にはならないことを祈るばかりだ。

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