#19 自分の能力を見誤ってはいけない。いい意味で。

(六十四点……うん、及第点だな)


とある日の昼前の数学。中間考査から二週間ほどが経ち、返却された解答用紙を前に、霧也は満悦の表情を浮かべていた。数学の時間の度に今か今かと覚悟していたからか、真に緊縛が解かれたような感覚は極上であった。


間違った箇所を確認し所々にある凡ミスに苦笑していると、同じく嬉し気な顔を隠す気もない妃貴が答案用紙を持って机の前に立っていた。


そして霧也と目が合ったと同時に、ばばんと丸の多い解答用紙を眼前に掲げる。その解答用紙の右上にある点数を見て、霧也は絶句した。


「はちじゅう、ろく……!?お前、そんなに頭良かったのか?」


「元からそこまで悪くないっての。霧也は……六十四か。ま、霧也にしては頑張った方じゃない?あたしにはかなわないけど」


「はいはい、俺の負けですよっと……」


『どやぁ』というテロップが似合いそうな顔で胸を張る妃貴。そんな妃貴の様子に呆れた眼差しを向けると同時に、先日自分が考えたことを今の状況に照らし合わせる。


(ヒロインかもしれない……とはいったものの、言うほどか……?あの時の俺は空気に乗せられてただけじゃないか?)


妃貴を『ヒロイン』だと、認識していた。だが今はどうだろうか、いつもと何変わらぬ幼馴染の姿。


あの時を経て何か妃貴に変化でもあれば確信を付けるのだが、何も変わらないようでは「勘違い」と勘違いしてしまうのは自然な事だった。


その後、友人の元へと駆けてゆく妃貴を、霧也は何気なく目で追った。そこでも友人に自慢しているのか、霧也に見せた「どやぁ」という表情を見せている。だが何故か、俯瞰して見る幼馴染の笑顔は、霧也の目には普段よりも輝いて写って。


(でもやっぱ……ヒロインだったらいいよなぁ……)


そんなことを考えてしまう自分の女々しさと不甲斐なさに、大きく溜息をついた。

嬉しいことがあった数時間後、霧也の気分はどん底までに落ちていた。耳に入ってくるのは、ボールの跳ねる音と走り回るクラスメイトの足音。目の前に広がるバスケのゲームを、気だるげな眼で眺める。


(こいつらの体力どうなってんだ……フィジカル強すぎだろ……)


自分との格差を見せつけられたようで劣等感に苛まれる霧也。その中でも一人の男子生徒は、特筆して動きがすさまじかった。


華麗なボールさばきと俊敏な動き、目の前にディフェンスが立ちふさがってもわずかに見える進路を見抜き避ける。とても同い年とは思えないようなプロフェッショナルな動きに、霧也はいつの間にか見入っていた。


「よぉ~っし!勝ったぁ!!」


「すげーじゃん莉樹!まさか点数の半分入れるなんて!」


「さすが、中学時代のエースストライカーだね」


「いやいや、俺なんてそんな……みんながいなかったら俺こんな動けなかったぜ?」


莉樹りき」と親し気に呼ばれる少年は、チームメイトから賞賛の嵐を受けていた。多方面からの賞賛を、莉樹は謙遜して丁寧に受ける。人々をまとめ上げるカリスマ性も見せられた霧也は、より自分の劣等感を増幅させていた。


「気になるの?あの男子」


「……まぁ、少しな」


自分の気持ちに正直になれない霧也は、そっぽを向いて答える。その様子を見て、妃貴も莉樹の方を見る。人気の凄いその光景に、妃貴は口角を上げて霧也に向き直る。


「もしかして……羨ましい?」


「はっ!?べっ、別に!?」


「図星。確かに天野くんの方が『主人公』らしいもんね?」


「なっ……!?」


含みのある言い方をされ、話したこともない男子に負けた気になる霧也。気を落とす霧也の元に、一人の首にタオルを巻いた男子生徒が歩み寄る。


「齋条、交代しよう。今日まだ一回も試合出てないよな?」


「あっ、そ、そうだけど……」


「じゃあ頼む、俺連戦だったんだ」


「わ、分かった……」


「おう、よろしく」


急な展開に、霧也はおずおずと腰を上げる。心配さが残る、コートに歩いていくその背中に、妃貴は好奇の眼差しを向ける。霧也が運動できないのを知っている妃貴は、霧也が負け犬となるかはたまたその逆か、結果を期待していた。


入ると同時に少しばかり広く見えるコート、高く見えるバスケットゴールを前に、霧也の足は震えを増す。その肩をトントンと誰かが叩く。肩を跳ねさせ振り返ると、三連戦中の莉樹が疲れた様子もなく霧也を見ていた。


「齋条、期待してるぞ」


「あ、まぁ……成るだけ頑張る」


「あぁ、ベストを尽くしてくれ」


霧也を鼓舞した後、コートの中心へと赴く莉樹。その威厳に「勝者」のそれを見た霧也は、おずおずと妃貴の方を振り向く。視線に気づいた妃貴がぐっと親指を立てるその姿を見て、霧也は苦笑してコートに向き直す。


(そうか、逃げられないか。いいよ、『ラブコメ主人公』ってのを見せてやるよ……。俺だって伊達に運動してなかったんだ)


背水の状態で、霧也は士気を上げる。中間考査の時と同様、「もう逃げられない」という現実が霧也を奮迅させていた。


そうしてやる気が最高値に達した時、ホイッスルが鳴った。霧也は足に宿る自信と士気を運動エネルギーに変換して、コートを強く踏み出した。

試合終了のホイッスルが鳴ったと同時に、霧也は強く床に倒れ込んだ。目いっぱいに写る天井、呼吸困難になるほど上がる息、そして胸に広がる達成感。「無理をしている」と自分で一瞬で分かった。


試合の結果は、『勝利』。首を横にした視界の先では、チームメイトが連勝を喜んでいた。そこで寝込んでいるのは自分だけだと気づき、急いで起き上がって座り込む体制になる。心の高ぶりを隠すように顔を下に向けていると、頬に冷たいものが触れる。


「おつかれ~。意外といい動きだったじゃん。あ、これあげるよ」


「おぉ、サンキュー妃貴。めっちゃ助かる」


妃貴から受け取った水をオアシスを見つけた放浪者のように呷る。喉に広がるみずみずしさに回復を覚えながら息を整える。落ち着いた霧也は、のっそりと立ち上がって妃貴の方を向いて告げる。


「俺なりに、動けた……。こんなに動けるなんて自分でもびっくりだ」


「そうね~。『ラブコメ主人公』の為の努力の成果じゃない?」


「なら、良いんだけどな……」


こぼれる笑みを隠すでもなく浮かべる霧也。そんな霧也の背中を、強い力がばしんと叩く。驚いて振り向くと、三試合連戦だったにも関わらず疲れを見せない笑顔を浮かべた莉樹。


「ナイスプレイだ、斎条。結構いい動きだったな」


「そんな……天野君だって、すごかったよ」


「天野、でいいよ。クラスメイトなんだし。お疲れ、斎条」


「……お疲れ、天野」


目の前に突き出される拳に、霧也も拳を作って小突く。満足した莉樹がひらひらと手を振って去っていくのを見て、霧也はまた、莉樹のカリスマ性を垣間見た。


「友達、増えたね」


「増えたかどうかは分からない……けど確実に近づいている。このまま、俺は……」


「時間の問題じゃない?まぁ、それなりに期待してるよ」


「……は?時間ってどういう……」


含みのある事を残しながら霧也の前を歩く。胡乱をこぼす霧也に、妃貴は「あ、そうそう」と言って立ち止まる。そして霧也の目をはっきりと捉え、告げた。


「言い忘れてたけど、さっきの試合めっちゃ『主人公』らしくてかっこよかった。……それだけ」


そう言い残して体育館を出る妃貴。霧也はその背中を見つめながら、体育館で一人、その発言の意味を考えていた。

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