第2話オタクっぽいしゃべり方をする陰キャ、湯島アオイ

 話は三、四時間ほど前にさかのぼる。


 場所は冒頭に登場したコテージのリビングである。

 

 暖かみのある木目調のリビングテーブルとスツール。三人座ってもまだ余裕のありそうなソファ。一つ一つの家具はサイズが大きいが、それら家具が置かれているリビングには狭苦しさがない。そもそもリビングが非常に広い上、浜辺の方角一面に取り付けられた大きな窓のおかげで、解放感があるからだ。


 そんなリビングで、湯島ジョウジは目の前にある「絵画」をしげしげと眺めていた。


 その絵画は少し変わっている。イーゼルもキャンバスもなく、ただ絵だけが空中に浮かんでいるのだ。


 その絵画は、リビングの空中に塗りたくられた緑色の油性絵具を下地として描かれている。


 ジョウジは首をひねった。


 彼が首をひねったのは、その絵画がこの世の物理法則を無視して空中に浮かんでいるからではない。その絵画の中身が彼にとって理解不能だったからだ。


 ジョウジは自身の背後にいる少女を振り返った。


「わりい、アオイ。兄ちゃんにはこの絵が全く理解できねえ。わかりやすく解説してくれねえか?」


 この男、湯島ジョウジは冒頭、浜辺に向かってかぼそい声でシャウトしていた男である。歳は二十二歳。ワケあって、今は無職である。


 彼は普段からあんなに声が小さいわけではない。むしろよく通る声をしており、なおかつ妙なドスがきいていた。


 小学校でタバコを吸い始め、中学校ではバイクを乗り回し、高校に上がる頃には街の悪い大人たちと金稼ぎをするような生活を送った結果、自然とドスのきいたしゃべり方になってしまったのである。数か月前に一大決心をしてアウトローな生き方から足を洗った後も、このしゃべり方はなかなか抜けず、ジョウジも困っていた。


 そんな彼が、冒頭でなぜあんなに小さい声だったのかについては、追って説明したい。


 ともあれ、ジョウジからアオイと呼ばれた少女はすっくと立ち上がり、絵画の前に立った。


 アオイは、とにかく色彩豊かな見た目をしている。


 左右低い位置で結んだ赤い髪の毛には黄色のハイライトが入っており、体中を赤、青、黄色のバッジ、リボン、ボディペイントで装飾している。


 これら色彩の洪水は、アオイの中にある絵具が、圧力に耐えきれずに外にあふれ出したかのようだった。


 しかしその派手な見た目とは反して、絵画を見上げるその瞳には十代特有の透明感がある。年の頃は十五、六といったところか。


 アオイは静かに語り始めた。


「……この絵の中央にある正方形は、無機質なエネルギーとして描写され、その後方にある長方形は有機的な存在を表している。正方形の下にある四つの丸は接地面との摩擦抵抗が少ないことを表し、速度を感じさせる一方、有機的な存在はただその場にたたずみ、遠ざかる無機質な存在に深い悲しみを感じている。……こういう誰しもが抱えている絶望を、出来るだけ日常から遠ざけた表現で描きたかったの、兄さん」


 ジョウジは、アオイの解説を真剣に聞き、しばし目をつむって考えたが、「わりい、わかんね」と正直にギブアップした。


 すると、床に届かない足をブラブラさせながらダイニングチェアに座っていた別の女子が、ぴょんと飛び降りて、ジョウジの元へ歩み寄った。


「ジョー兄ちゃん、だまされねでけろ(だまされないでください)。この絵は、ただアオ姉ちゃんがバスに乗り遅れて学校に遅刻したときのことを描いただけなんだず」


 東北弁なまりの女子に指摘されたアオイは、神妙な表情を急に崩し、「だはっ。バレたッスか」と舌をペロリと出してワザとらしく自分の額を叩いた。


「そうなんスよ、最寄りのバス停の近くにコンビニがあるんスけど、ついついそこで毎朝肉まん買い食いしちゃって、結果、乗り遅れちゃうんスよね。先週、三回遅刻をやらかしたら、さすがに担任の先生に怒られたんス。反省文書いてこいって言われたんスけど、『ジブン、国語力死んでるんで、アート作品でもいいッスか?』って聞いたら、許されたんで、反省文ならぬ、反省画を描いたってわけッス」


「そんな適当でいいのかよ。先生、ユルすぎるんじゃねえのか」


「ジブンが通ってる高校が工業系ッスからね。アートには理解があるんスよ。反省文だと三日かかっても完成させる自信ないッスけど、絵ならこの通り、チョチョイのポイッでRTAッス」


 ジョウジの妹、湯島アオイ。十六歳。


 オタクっぽいしゃべり方をする陰キャなくせに、見た目はやたらと派手な女。


 二食分の巨大な弁当は絶対忘れないくせに、スカートのファスナーを閉め忘れて登校する、間抜けな大飯食らい。


 授業中、板書のかわりに落書きをするせいで、シャーペンの芯の消費が人一倍早い、イラストレーター気取りの女。


 それが湯島アオイである。


 アオイは空中に浮いている自分の顔ほどもある消しゴムを手に取り、絵をゴシゴシと消し始めた。


「消しちゃっていいのかよ? 先生に提出するんじゃねえのか?」


「さっきカメラで撮って、データで提出済みッス。制作過程も動画に収めてたんで、それも一緒に」


 アオイが空中で消しゴムを動かすと、その場所から跡形もなく絵具が消去された。

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