第29話 来年も、いっしょに来ようね
へれんは、ゆっくりと、一言ひとこと、ことばを切って言う。
「その、行ったことのない、トロイアって遠い国、海峡の向こうの遠い国、いちど行ってみたい、とか、思ったんじゃ……ないかな、って」
わたしは言い返した。
「おんなじことじゃない?」
べつに慌てても、急いでもいなかった。
へれんの横顔を見て、つづける。
「だとしても、やっぱり、そのアカイア人とか、ギリシャ人とかは、みんなで団結して奪い返しに行くんだよ。だってさ」
ことばがきゅっと詰まったので、わたしは言い直す。
「だって、その王妃様のヘレンだって、そんな遠いところにほんとに行きたいわけないもの。そんなところにずっといたいわけじゃないもん。そうに決まってるもん。だからさ」
ステージでは、こんどはその大きい弦楽器も音を止めて、いまはドラムだけが、ドラムとシンバルの派手な音を立て続けている。
その音は振動になって伝わってきて、心にまでその震えが伝わるみたいだ。
「だから」
でも、そんな震えはどうでもよかった。
「へれんがどんなところに連れられて行っても、たとえへれんが自分で行ってみたかったとしても、わたしは取り返しに行くよ。たとえわたし一人でも取り返しに行くよ。だって、そうじゃないとさ」
ひと息では言えなかった。
うつむいて、短く息をつく。
「へれんは心細いに決まってるもん。へれんは、さ」
言って、わたしはへれんの顔を見ると、へれんもわたしの顔を見たところだった。
目が合う。へれんがふっと力を抜いて笑顔を作る。わたしも同じように笑顔になる。
「ありがと」
いまの何ごともさっさとやってしまうへれんではなくて、とろんとろんしていたあの小学校のへれんのような、ふわふわした声になっていた。
「だからさ、
ちかみー。
ちかみぃ?
何それ?
「来年も、いっしょに来ようね、夏祭り」
「うん」
わたしはうなずいた。
たとえ、へれんとわたしが別々の高校に行っていても。
ふだんはもう顔さえ合わせない生活をしていても。
いや、「たとえ」じゃなくて、たぶん、そうなる。
へれんは海峡の向こうの別の国に行ってしまう。
でも……。
わたしはステージのほうをぼうっと見た。そのステージのきらきらの明かりがわたしの目にどんなに映っていたかはわからない。
わたしは、こくっと、へれんの肩に頭をもたせかけた。
わたしよりちょっと背の高いへれんの肩に。
へれんがふうっとやさしく息をつくのがわかった。
いまのわたしの顔、写真に撮ったら、どんなに写るだろう?
でも、撮ろうとは思わなかった。
息をするたびにへれんの体が動いて耳と肩にその動きが伝わって来る。
スマホで写真を撮るよりも、いまはただそれを感じていたい。
気がつくと、へれんも、そのわたしの頭に自分の頭をもたせかけていた。
わたしが小さく言う。
自分でもくすぐったくなるように。
「来年も、きっと来よう」
ステージでは、一人で音をたたき出していたドラムがタタタタタタと軽く音を叩き、そしてさっき
わたしは、へれんの肩の上で、軽く目を閉じて、その心地のよい音楽をきいていた。
(終)
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