第22話 カナダと日本って半日以上の時差

 「ああ」

 前の女の人が答える。今度はくすっと笑う。

 「先生、ほんとは今日ここに見に来てくれるはずだったんですけど、論文書かないといけないの、一個、書いてなかったらしくって、それどころじゃなくなって」

 「え?」

 へれんは軽くショックを受けたようなリアクションだ。

 それが、相手に合わせるためにやったのか、ほんとにショックなのかは、わたしにはわからない。

 「書かずにすませられると思ってたらしいんだけど、催促来ちゃってさ、アメリカから。いや、カナダだったかな?」

 「はい」

 「それが、そんな国だから、当然、英語の論文でさ。先生さ、ドイツ語は得意なんだけど、英語苦手なんだよ。でも、締切あさってですよ、それ以上待てませんよ、とか言われて。いまから書くのは無理です、って返事したんだけど、なんか、キャンセルするって選択肢が最初からなかったみたいでさ。で、向こうとの時差表を時計の横に置いて、いまも研究室で青くなって書いてるはず」

 くくっ、と笑う。

 「時差表、って?」

 へれんがあの豊かな声できいた。

 「だからさ、カナダと日本って半日以上の時差があって、日本で締切の時間が来ても、カナダではまだ半日とか時間があるわけ。その時間を使って間に合わせようって」

 「はい」

 どういうことか、よくわからない。

 へれんはわかったのかな?

 「そんなのだから、野見のみ先生に怒られるんでしょ?」

 さっきたしなめられた女の人が言う。ソーセージを焼いている人も笑っている。

 「いえ、あの、祖父も」

 へれんが体の前できゅっと両手を組んで言う。

 「原稿遅れさせるって、しょっちゅうですから。あ、祖父って、自分でメール書かないひとなので、父とか母とかわたしとかが代筆したりするんですよ。そうすると、相手のひとが今日じゃないと間に合いませんって書いてるのに、平気で、あと一週間ぐらいで送ります、とか返事してて」

 「それは、野見先生ならそれで許されると思うけど」

 「いえいえ」

 へれんも目を細くして笑った。

 「こないだ、ほんとに間に合わなくて。雑誌だったんですけど、雑誌に載らなかったんですよ、祖父の原稿が。でも、祖父は自分の原稿がいちばん大事だから、雑誌は待ってるものと思ってて、最初に、雑誌を送ってこないって怒って、電話して雑誌を送ってもらったら、こんどは載ってないって怒って。父と母でなだめるのでたいへんだったみたいで」

 「『現代の理想』の特集号ね。たしかに、野見先生の、予告には出てたのに載ってないね、って話してたんだけど」

 「出版社と相性悪かったのかな、とかいろいろ話してたんだけど」

 「いえいえ、そんな事情で」

 話がわからなくなってきた。

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