第2話 自転車とニム

 石段を下りると、音と光が少しだけ遠のいた。かわりにと聴こえたのは、近くの沢の湧き水が、湿った草を揺らす音かもしれない。

 乗り捨てられたいくつもの自転車の方に近づくと、大小様々なしっぽが一斉に振られた。取り付けられた赤い反射板が、遠い街灯の光を受けて、火事を見つけた消防車のような騒がしさで光る。その中に、一つだけ短いしっぽを丸めている自転車を見つけて、ホンタはその側に寄った。


「待たせてごめん、帰ろう」


 ホンタの自転車も前は、白地に黒いブチの入った、大福みたいになめらかなしっぽをしていた。それが一学期が始まってすぐの頃、駅まで遊びに行った時に、誰かにしっぽを切られてしまった。

 鋭い切り口は、きっとハサミか何かだろう。時間をかければまた伸びるから、なんて慰めの言葉は聞きたくなかった。そんな意地の悪い人間がこの世界にいるのにも嫌気が差したし、ちゃんと自転車置き場に停めなかった自分にも腹が立った。それで、ようやく反射板のベルトが付けられるようになってからも、ソラサギ駅の方へはめっきり行かなくなったのだ。


 ホンタは自転車にまたがると、街灯の薄く照らす細道にペダルを漕ぎ出した。くず入れに捨ててくるのをすっかり忘れていたので、右手には、幽霊船になった薄青いビンを握ったままだった。

 林道に繋がる道の側を通ろうとした時、青みを帯びた自転車が一台、舞台に不慣れな役者のように、街灯の光から少し外れて佇んでいるのが見えた。その隣にいる自転車の持ち主を見て、ホンタはキュッとブレーキをかけた。


「ニム、何してんの?」


 短い黒髪と小さなメガネ。怒っているようにも見える伏し目がちな表情。休み時間にサッカーの試合に加わることもなければ、前の日のアニメの話にも参加しない。いつもいつも教室の端の席で本ばかり読んでいる、同じクラスのニムだった。

 ニムは、腰に巻きつけていた薄いワサビ色の上着をちょうど着直すところだった。こんな暑い夜に七分の上着を羽織る理由を考えて、ホンタはそっと声をかけた。


「もしかして、林に入るの?」

「そうだけど」


 ニムが鼻のわきにしわを寄せて答えた。石段で弁当を食べていたら、急に鳩が集まってきた時のような。そんなうっとうしそうな顔だった。


「こんな時間に、危ないよ?」

「湧き水広場のとこまでだから、平気さ」

 ニムの手には、懐中電灯と、空になったラムネのビンが握られている。それを見て、ホンタはきょとんと首をかしげた。

「何しに行くの?」

 ニムがじとりとホンタを見た。ホンタが答えを待っていると、ニムは近くに誰もいないのを確かめた後で、小さく声をひそめながら言った。


「光るさかなを、見に行くんだ」

「光るさかなって、ゴマチが持ってるやつ?」

「あれは、ペット用に明るく大きくした養殖ものさ。天然のはもっと小さくて、もっと静かな光をしてるんだって」

「それが、いるの?」


 ホンタが聞くと、メガネの奥に見えるニムの目が少しだけ笑った。


「星明りの音がする夜、湧き水の匂いのする夏の野原に集まって、淡光魚たんこうぎょは空を目指すんだ。ほら、今日は新月でしょ」

「でも、湧き水なら神社の方にもあるよ」

「でも、夏祭りをしてる。あんなに騒がしかったら星の音なんて聞こえやしないよ」


 ラムネのビンと懐中電灯を脇に挟んだニムが、ポケットからメモ帳を取り出して街灯の下に広げた。そこには五月からの月の満ち欠けや天気予報、町で湧き水が出ている場所なんかが、細かな字でびっしりと書きこまれている。


「ぜったい、今夜なんだ。湧き水広場に行けばきっと、光るさかなが見れるはず」


 そう言ったニムの目は、屋台の灯りに照らされたリンゴ飴のように、きらきらと輝いていた。

 ホンタがこの夏休みを、マンガとゲームと寝坊を繰り返しながら過ごしている間、ニムはずっと、どきどきしながらこの日を待っていたのだろう。それを知って、今まであまり話したこともなかったクラスメイトが、実はすごく面白いことを考えてる人間なのだと。ホンタはとてもわくわくした気持ちになった。


「ねえ、それ、ぼくも見たい」

「え?」

「一緒に行っちゃ、だめかな?」


 ホンタの言葉に、ニムは嫌そうに眉を寄せた。けれどホンタの右手にある薄青色のビンを見ると、一つ頷いて言った。


「いいよ。じゃあ、ラムネからビー玉を抜いておいて」

「分かった」


 ホンタはニムの自転車の隣に、自分の自転車をそろえて停めた。

 街灯に半分だけ照らされたニムの自転車は、カステラ色のふわふわしたしっぽをしていた。ちゃんと毎日、ブラシをかけて埃を取ってやってるのかもしれない。毛足が長いせいか、付けられた反射板のベルトは、ホンタの自転車のよりもずっと幅広だ。ぱたぱたと元気に揺れるしっぽを見て、持ち主よりもずっと人懐っこいんだな、とホンタは思った。

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