光るさかなの夜

上杉きくの

第1話 夏祭りの夜

 綿菓子とハッカパイプの甘い匂いが、汗ばんだホンタの頬をかすめた。


 浮き立つような笛の音は、カラスのように柱から見下ろす四角い機器の奥から。どうどうと胸に響く太鼓や摺鉦ちゃんちきの響きは、遠いやぐらの向こうから。月のない夜空の先に、お焚き上げの煙のように立ちのぼっては消えてゆく。

 星を散らばした紺色の空を見上げれば、紙垂しでを付けたサカキの枝くらいの細さの電線に、ホオズキの実を思わせる無地の提灯ちょうちんがいくつも下がり、蒸し暑い夏の空気をぼんやりとした飴色で照らしていた。参詣さんけいの声は大人も子どもも明るくさざめいて、まるで天の川のように、色とりどりの花や金魚の模様を揺らしながら流れていった。


「ホンタ、かき氷食べようぜ」


 アサガオを咲かせた薄い藍地あいじの袖を伸ばして、隣にいるアカワが宝石色のシロップが並ぶ屋台を指差した。ホンタは小さく首をかしげる。

 夏祭りに行くからと、母からもらった小遣いは千円札と五百円玉が一枚ずつ。昔はもっと安く済んだのにねえ、とため息混じりに言われたが、きっといつになったって、夏祭りの夜には子どもの遊び足りないがあふれている。

 それに、と首にかけたタオルに触れながらホンタは思う。

 かき氷は、屋台で出しているものより、伯母さんの店の方がおいしい。砕いた氷にまでふわりと優しく甘みがついていて、そっと垂らしたシロップが積み重なった氷の山を隕石いんせきのように崩すようなこともない。

 伯母さんの店はソラサギ駅の方にある。じりりと揺れる線路沿いを、背の高いヒマワリたちに見送られながら自転車を漕いでいかなきゃならなくて、最近は全然食べられなくなった。


「ぼくはいいや」

「でも、暑いじゃないか」

「じゃあ、ラムネにしよう」


 氷水の中から浮かび上がったラムネは、北極の海にもぐり続けた潜水艦のようだ。さくりとフィルムをはがしてビー玉を落とす。

 手のひらにじわりと染みた甘い雫を、ホンタは空色のシャツの裾で拭った。

 ホンタが薄青く光る潜水艦を傾けていると、隣で濃いラベンダー畑をのどに流し込んでいたアカワが大きな声を上げた。


「見ろよ、ゴマチだ。光るさかなを連れてる」


 整列した提灯ちょうちんの先に、花田色はなだいろの浴衣をそびやかして歩く、恰幅かっぷくの良いゴマチの姿が見えた。母親が町一番の病院で婦長をしているゴマチは、いつも、クラスのみんなが羨むようなものを見せびらかすように持っていた。

 今日のゴマチが持っていたのは、うら細く、空へと向かって伸びる紐だった。その先は、提灯の合間を縫うようにぷかりと宙を泳ぐ、金色のさかなの尾ひれに繋がっている。


淡光魚たんこうぎょだっけ。高いんでしょ、あれって」

「高いんだろうさ、だんぜんな」


 光るさかななんて、そこらの店先に置いてあるものじゃない。夏祭りがこれから半年続いたって、きっとホンタの小遣いでは、買えることのない値段がするのだろう。

 ゴマチの周りには、光るさかなを一撫ででもしよう、淡いうろこの一つでも分けてもらおうと、ツツジに集まるクマンバチやオオスカシバのように、取り巻きたちが囲んでいる。そこには見知ったクラスメイトたちの顔もあった。

 金のさかなは、神社の池の鯉くらいの大きさをしていて、ぱくぱくと口を動かしては薄くにじんだ夜の空を見上げている。その姿はなぜだか、少しだけ息苦しそうに見えた。


「な、おれたちも触らしてもらおう、光るさかな」


 空になった紙カップをくず入れに放り込んだアカワが、よく跳ねるボールを見上げた柴犬みたいな顔で言った。

 それを見て、ホンタがふと思い出したのは、死んだ田舎の祖父の言葉だった。


『さもしい人間には、なるなよ』


 お気に入りの椅子で鮭とばの皮を一本ずつむき、黒光りする食用バサミで丁寧に一口大に切り分けながら、彼はホンタにそう言った。ひとかけもらった鮭とばの、塩味を帯びたぐにぐにした食感が、いやに鮮明に思い出された。

 さもしい、の意味は良く分からない。

 しかし何となく、ゴマチの所へ行って、光るさかなに触らせてもらうのは、さもしいなのではないかと。胸の中のやや奥側の方でホンタはそう思った。


「ぼくはいい。自転車が心配だから、もう帰るよ」

「そう。じゃあ、また新学期な」

「うん、新学期に」

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