二四章 泣いた!

 ついに、あたしのデビューの日がやってきた。

 朝日の差し込むあたしの部屋。布団にくるまるあたしの耳元で目覚まし時計が大きな音を鳴り響かせる。

 ……機械はいいよね。うまく行かなかったらどうしようとか、そんなことを思わずにすんで。

 あたしは手を伸ばして目覚ましをとめた。布団のなかから起き出した。実のところ、目覚ましなんて必要なかった。夕べは緊張のあまり、ちっとも眠れなかったから。

 本当にもう、マジで一秒だって眠れたとは思えない。不安と心配が波のように押しよせてきて心細くなって泣き出しちゃったぐらい。

 そんななかで布団にくるまりジッとしているのは本当につらかった。何度、起き出して、歌と踊りの練習をしようと思ったか。でも、武緖たけお先生からはっきりと言われていた。

 「寝不足で隈のできた顔と荒れた肌でステージに立つなんて厳禁よ。眠れないなら眠れないでいいから布団にくるまってジッとしてなさい。おとなしく体を横にしているだけでも睡眠のかわりにはなるから。くれぐれも、不安だからって起き出して夜中の練習なんてしないように」

 その言いつけを心のなかで何度も唱え、いまにも起き出してしまいそうな体を必死に布団のなかに縛りつけた。ギュッと握ったスマホの画面には『内ヶ島うちがしまさんはできることは全部やった。誰にも恥じる必要はないよ。幸運を』っていう宏太こうたからのメッセージ。

 そして、不安と心配と、そして、恐怖の夜が明けた。あたしは部屋を出て洗面所に向かう。顔を洗い、髪を整え、恐るおそる鏡をのぞく。

 ――寝不足と心配で、おばあちゃんみたいなひどい顔になっているんじゃないか。

 そう思ってドキドキしながら鏡のなかの自分をのぞき込んだけど――。

 ホッとした。

 鏡のなかのあたしはいつもととくにかわりない。武緖たけお先生の言いつけを守って布団のなかでジッとしていたのが良かったんだろう。お肌も荒れてないし、目の下にくまもできていない。髪の毛はちょっと爆発気味だけど……これはまあ、いつものことだしね。

 あたしは鏡のなかの自分をジッとのぞき込む。息を吸った。思いきり叫んだ。

 「あたしはかわいい、世界一かわいい! かわいいかぎり、できないことはこの世にない!」

 武緖たけお先生から教わった魔法の言葉を叫んで、居間に向かう。パパとママは食事の用意をして、その場にいた。ふたりとも、なんとも言えない表情。話しかけたいけどなにを話しかけていいかわからないし、そもそも話しかけていいのかもわからない。そんな様子。あたしも似たようなものだったので、なにも言えなかった。

 「おはよう」

 って、ただ、それだけを短く言った。

 「おはよう」

 パパとママも挨拶してくれた。その言い方もやっぱり、緊張してるっぽい。

 テーブルの上に目を向ける。するとそこには、やっぱりと言うべきか、ステーキとカツが載っていた。

 「静香しずかの勝負の日だからね。たっぷり栄養をとらないと」

 パパはそう言った。

 きっと、朝早くに起きてステーキを焼き、カツを揚げたんだろう。その気持ちは嬉しいんだけど……正直、こういうベタな朝食はやめてほしい。これから体型のくっきり出るステージ衣装を着て、唄って踊るって言うのに、こんな重いものを食べてお腹をパンパンにしていくわけにはいかない。それでなくても、こんなに緊張してたら肉なんて食べられない。

 「これから唄って踊るのにこんな重いもの食べられないから。ライブが終わったら思いっきりお腹空くはずだから、帰ってから食べるわ」

 そう言って、遠慮させてもらった。そのときのパパの『やっちまった!』な表情は多分、一生、忘れないと思う。

 結局、ママの用意してくれたハチミツ入りの野菜ジュースだけを飲んだ。コップ一杯のジュースを飲み干すのさえ、緊張で喉がカラカラのいまのあたしには大変だった。

 ちょうどそのとき、宏太こうたが向かえに来た。あたしは意を決してパパとママに向き直った。

 「パパ、ママ、行ってきます」

 「行ってらっしゃい」

 「幸運を」

 がんばって、と、言われなかったのには正直、ホッとした。

 家を出たあたしを、宏太こうたがいつもの無邪気な顔で出迎えた。

 「夕べは眠れた、内ヶ島うちがしまさん?」

 「だいじょうぶ。宏太こうたは?」

 「僕はダメだなあ。緊張して全然、眠れなかったよ」

 宏太こうたは情けなさそうに笑いながらそう言った。言われてみれば目の下にうっすらとくまらしきあとがある。

 ――あたしのためにそんなに心配してくれたんだ。

 そう思うとなんだか嬉しかった。そしてなにより、心強くなれた。

 「でも、僕はステージに立つわけじゃないからね。内ヶ島うちがしまさんが眠れたならなによりだよ。さあ、行こう」

 「ええ」

 あたしと宏太こうたは、並んで武緖たけお先生の教室を目指した。手にてをとって……とは、残念ながらいかなかったけど。


 撮影場所である武緖たけお先生の教室。ここまで来ると改めて緊張する。ゴクリ、と、唾を飲み込んでいた。知らずしらず握りしめた手のひらは汗でベットリだった。

 「覚悟はいい?」

 武緖たけお先生の言葉に、

 「はい」

 あたしはうなずいた。

 そうよ。ここまできたらジタバタしたってしょうがないじゃない。覚悟を決めてやるだけよ。

 「そう答えられるだけの落ち着きがあれば立派なものよ。それじゃあ、ふたりとも位置について」

 「はい!」

 あたしはステージへ、宏太こうたは撮影補助として、それぞれの位置に着く。

 あたしと、宏太こうたと、武緖たけお先生。た山奥の片田舎にあるちいさな教室での、たった三人だけの小さなちいさな撮影。それでも――。

 あたしを写すカメラ。そのカメラの向こうは全世界とつながっている。世界中の誰もがあたしを見る可能性がある。あたしの分身が世界中のどこにでも表われるかも知れないのだ。そう。まるで、『どこでもドア』みたいに。

 ――そう。あのカメラは、あたしにとってまさに『どこでもドア』。あたしはいま、世界中とつながるんだ。

 そう思うと緊張とそして、全身が燃えあがるような高揚感が押しよせてきた。

 スポットライトがあたしを包み、音楽が鳴り響いた。

 いよいよ、はじまりだ。

 ――笑顔! 自分のなかのありったけのかわいらしさを出し切って!

 その思いを胸に笑顔を浮かべ、カメラに向かって歩きだす。音楽に合わせて唄いはじめる。


 幸せになれる魔法を教えてあげる

 いますぐあたしに恋をしなさい!


 体を横にしてまっすぐに伸ばした指でカメラの向こうの誰かを指さし、ウインクをひとつ。

 必死に練習して体に叩き込んできた振り付け。正直、意識してる余裕なんてなかった。緊張で頭は真っ白。自分がいま、なにをしているかもわからない。そんな状態。それでも、あたしの口は歌を唄い、体はダンスを踊る。

 そのあたしを、武緖たけお先生がジッと見つめている。

 ――そう。それでいいの。デビューで緊張しない人間なんていない。頭が真っ白にならない人間なんていない。だからこそ、頭が真っ白になればなるほど体が自動的に動くように、レッスンで叩き込む必要がある。吐くまで練習させたのはそのため。頭が真っ白な状態でレッスンを繰り返し、同じ状況になったときに体が自動的に動くようにするため。安心しなさい。あなたはそのすべてをきちんとこなした。やるべきことはすべてやった。自分に自信をもてなくてもいいから、自分のしてきたことを信じなさい。

 武緖たけお先生の顔がそう語りかけていた。

 武緖たけお先生への感謝が心の奥からあふれ出してきた。

 頭が真っ白なまま、自分がなにをしているのかわからないまま、流れのままにあたしは唄い、踊る。そう。頭は意識が飛んでいても、いままでにやってきたことはこの体が覚えている。体に任せればいい。そうすればきっと、うまく行く!


 この世にはあたしがいる

 かわいい笑顔で世界を照らす

 あたしが笑えばみんなハッピー

 あたしを見ればみんなハッピー

 よそに行ったらあたしには会えない

 どんな雲も どんな闇も みんなまとめて

 吹き消してあげる

 ひとりでウジウジしてないであたしのライブを

 見に来なさい

 すべての人に教えてあげる

 幸せになれる魔法

 いますぐあたしに恋をしなさい!


 気がついたとき――。

 音楽は鳴りやみ、あたしはステージの真ん中でひとりポツンと立っていた。

 ――あれ? なにがあったの? なにがどうなったの?

 ボンヤリとした頭でそう思った。

 宏太こうた武緖たけお先生が近づいてきた。

 「終わったよ。お疲れさま、内ヶ島うちがしまさん」

 宏太こうたが優しくそう言ってくれた。

 「よくやったわ。最後までミスもなく唄いきったわね」

 武緖たけお先生がいつもの意地悪鬼婆からは想像もできないぐらい優しい表情でそう言ってきた。

 宏太こうたがいつも通りタオルとスポドリを手渡してくれた。そこで、あたしはハッとなった。

 「……終わった。反響、反響はどうなの」

 取って食うような勢いで宏太こうたに尋ねた。宏太こうたは、あたしの反応を予想していたんだろう。黙ってスマホを見せてくれた。あたしが唄い、踊る動画が流されているスマホを。

 コメント欄を見るのが怖かった。

 もし、誰ひとりとして見ていなかったら……。

 見られていたとしてもボロクソに言われていたら……。

 そんな恐怖と不安に襲われながら、それでもあたしはコメント欄を見た。そこには、


 ――やったぜ! 我が岐阜にもご当地太陽ソラドルの誕生だ!

 ――内ヶ島うちがしまソーラーシステムをよその連中に渡すな! 同志よ、集まれ! サポートプログラム開始だ!

 ――静香しずか、かわいいよ、静香しずか

 ――歌詞も素敵。なんだか、やればなんでもできるって気にしてもらえたわ。

 ――応援する。がんばって!

 ――我らが内ヶ島うちがしま太陽ソラドルと一緒に、この岐阜の地を盛りあげるぞおっ! 同志よ、集え! 天下布武、再びだ!


 そんなコメントの数々に――。

 あたしは宏太こうたに抱きついて泣きじゃくっていた。

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