六章 ……緊張して損した

 ――あ、あたし、なんで男の子とふたり並んでバスに乗ってるの?

 あたしにはそれがわからなかった。山道を行くちょっと古ぼけたバスのなか、あたしは『のび太』とふたり、席に並んで座っていた。

 ガチガチに緊張している。自分でそれがはっきりわかる。季節は春。いくら温暖化の進んでいる時代と言っても、まだまだ蒸し暑さを感じるような時期じゃない。とくに、緑に囲まれた山のなかとあって町中よりも気温は低め。涼しいどころか、ちょっと肌寒く感じるぐらい。

 バスのなかも人はまばらで人混みで暑苦しいと言うこともない。窓から外を眺めてみれば、一面に広がるのは山の緑。そよそよと心地良い風に吹かれ、木の葉が踊っているのがわかる。涼しさといい、窓から見える風景の心地良さといい、快適なバス旅行のはずだった。普通なら。それなのに――。

 あたしは全身ビッショリと汗をかいていた。顔が赤くなっているのが自分ではっきりわかる。膝の上においた手は、気がついてみるとがっちりと握りしめられている。その握りしめられた手のなかも汗でじっとり濡れている。

 「内ヶ島うちがしま家のお城跡を見に行こう!」

 あの日、『のび太』に満面の笑顔でそう言われてあたしは、その勢いに乗せられる形でついつい『はい!』って答えてしまった。

 あとになって『しまったあっ!』って頭を抱えたけど、あとの祭りとはまさにこのこと。一度、約束してしまった以上、断るわけにもいかないし。まして、すっぽかすなんて……。

 いくら、『のび太』相手でもそれは、さすがに失礼すぎる。

 当日になってから『急病になって……』とか言って断ろうかとも思ったけど、そんなウソをついたら後々、ずっと気まずい思いをしそうだし……。

 そんなわけであたしは今朝、頭を抱えながらも『のび太』との待ち合わせ場所に向かった。もう、そのときから胸はドキドキ言いっ放しだった。

 いや、そりゃあね。あたしだっていままで男の子と出かけたことがないわけじゃない。デートの経験だって何回かはある。なにしろ、あたし、一応はモテるほうなんで……。

 で、でもでも! まだ中学生なんだよ デートって言っても近所の公園とか、カフェとか、せいぜい映画を見に行くぐらい。バスに乗っての遠出なんてしたことない。それも、いままでろくに話をしたこともない男の子となんて。

 一応、警戒して胸の大きさがわからないよう――歳のわりには、大きい方なのよ!――大きめの服を着て、普段ははかないパンツをはいてきたんだけど……これって、さすがに意識しすぎ?

 チラリ、と、あたしは横目で『のび太』を見た。のび太はバスに乗ってからずっと窓の外を楽しそうに眺めている。その表情の無邪気なことと言ったら!

 体が小さいのと、顔立ちがまだまだ幼いせいで、そんな表情をしているとまるで小学生。それこそ、本物の野比のび太そのもの。いやほんと、『のび太』とはよくぞ名付けたものだわ。誰が最初に言ったのかは知らないけど……多分、誰かひとりが言い出したのが広まったんじゃなくて、こいつを見た全員が同じように思って、同じように呼びはじめたんだろうなあ。それぐらい、のび太そっくりだもの。

 まあ、そんなことはいいんだけど。

 それよりなにより、腹の立つのはこいつの態度。今朝、待ち合わせ場所のバス停で会ったときからずっとこの調子。表情は無邪気だわ、態度は普通だわ、女子とふたりっきりで遠出するっていうのに、そのことをまるで意識してないみたい。あたしにはこんなにドキドキさせておいて自分はなんともないなんて……ああ、腹が立つ!

 大体、なんなのよ、こいつ。女子にはまったく相手にされなくて、男子の友だちだってろくにいなくて、教室ではいつもひとりでスマホをいじってるアイドルオタクの陰キャボッチのくせに平気で女子をデートに誘って、しかも、意識ひとつしてないなんて。もしかして、実はメチャクチャ女子慣れしてるの?

 「……ねえ」

 あたしは思わず『のび太』に尋ねていた。

 「もしかして、お姉さんとか、妹さんとかいる?」

 あたしの質問がよほど意外だったんだろう。『のび太』は外の景色を眺めるのも忘れてあたしに向き直った。メガネの奥の目がまん丸に見開いている。

 「いや? 僕はひとりっ子だよ。なんで?」

 「な、なんでもない……!」

 あたしは思わず顔を赤くしてそっぽを向いた。『のび太』は少しの間――本当にほんの少し――不思議そうにあたしを見ていたみたいだけど、すぐにさっきまでの無邪気な表情に戻って外の景色を眺めに戻った。

 お姉さんや、妹さんがいるなら女子慣れしていてもおかしくないと思ったんだけど……。

 そう言えば、去年の学園祭でのフォークダンスでも、こいつだけはしっかりと手を握ってきたのよね。あたしだけってわけじゃなく、女子みんなとそうだったみたい。他の男子はみんな、すっかり照れちゃって、顔を赤くしてそっぽを向きながら軽く照れるのが精一杯だったのに。こいつだけが人の顔をしっかり見て手を握ってきた。そのときも、妙な感じはしたんだけど……。

 ――もしかして、こいつ、学校の外ではけっこう、遊んでいたりするの?

 だとしたら、侮れない。あたしはこいつとふたりきりで遠出なんかしてきたのを、本気で後悔しはじめていた。


 「さあ、ついたよ。ここからは少し歩きになるから」

 『のび太』は相変わらずの無邪気な笑顔でそう言って、バスを降りた。あたしもまさかひとりでバスのなかに残るわけにもいかず、『のび太』と一緒にバスを降りた。バスを降りた途端、『のび太』はおおきく伸びをした。

 ……『のび太』が伸び。

 いや、シャレじゃないんだけど……。

 「う~ん。気持ちのいい天気だねえ。空は晴れてるし、涼しいし、風は気持ちいいし。まわりはきれいな緑ばっかりだし」

 「そ、そうね……」

 たしかに、山のなかとあって右を向いても、左を向いても、まわりは目につくかぎり緑だらけ。空の青とのコントラストが目に優しい。普通なら、こんなところにいればたしかに気持ちよくなれるだろう。でも――。

 いまのあたしはそれどころじゃなかった。スキップするみたいに先を行く『のび太』のあとについて、なるべく距離をとって、でも、はなれすぎないよう気をつけながらついて行く。

 まわりに人は全然いない。山のなかでよく知りもしない男子とふたりきり。それはさすがに不安になった。でも、こんな山奥でひとりになるのもやっぱり怖い。つかず離れずギリギリの距離を保ってついていくしかなかった。

 そんなあたしの頭の上を一羽のチョウが飛んでいった。それを見た『のび太』がたちまち嬉しそうな声をあげた。

 「あ、見て、内ヶ島うちがしまさん! もうチョウが飛んでるよ」

 そう言いながら『のび太』は『わ~い』とか言いながらチョウを追って走り出した。その姿に――。

 あたしは急に憑き物が落ちたように納得した。

 ――なんだ。こいつ、女子慣れしてるんじゃなくて、その逆だったのね。まだ思春期前なんだ。

 年齢的には中二でも、中身はまだまだ小学生。女子を意識するほど成長していない。そうでなかったらさすがに、女子を前にこんなお子さま丸出しの姿をさらしたりはしないだろう。

 だから、逆に平気で女子とふれあえる。フォークダンスのときにしっかりと手を握ってきたのも性別を意識していないから。こんな遠出に平気で誘ってきたのも『女子を誘う』ことの意味がわかっていないから。

 そうとわかったら、どっと疲れが襲ってきた。

 ――ああ。あたしの緊張はなんだったの。

 このときほど自分がバカに思えたことはない。

 『のび太』はというと、いまだにチョウを追いかけて駆けまわっていた。その姿の楽しそうなこと。体の小ささといい、顔の幼さといい、本当に小学生そのもの。その姿に――。

 あたしは思わず笑っていた。なんだか、小学生のいとこの付き添いをしているような気になってきた。そう思うと余裕もできる。笑える気分になってきた。

 「ほら、そんなに走ると転んじゃうよ」

 あたしはそう言いながら、チョウを追って走りまわる『のび太』を追って駆けはじめた。

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