港町の山登り。





 ゆっくりと速度を落とし、バスは目的地に滑り込むように停車した。やや前のめりのクラスメイト達は、ドアが開くのが待ち切れないとばかりにソワソワと上半身を動かしている。凝り固まった身体が、ここから出せと叫んでいるようだ。

 やがて開いたドアからなだれ込むように下車し、荷台から荷を降ろし、見上げるのは泊まる予定になっている旅館である。総勢三百人を超える人間が泊まるのだから、そりゃあそれなりに立派だろうとは思ったいたけれど、これはなかなかどうして。それに――

「うはー、潮の匂い、くせー」

 後ろから降りてきた菊原さんが呟く。同感だ。

 ドラマとかアニメとかでよくこの匂いにテンション上げてるけど、そもそも好き嫌いの分かれるタイプの匂いだよなぁ。磯臭い、なんて言葉もあるくらいだ。

 港町。漁村ではない。なので思ったほどの田舎ではなく、立派な旅館も決してこの町の中で浮いてはいない。この三日間ほぼ貸し切りのような状態らしく、なんとも豪気な話だと感心してしまう。

 旅館の背後には小高い山があり、緑、人里、そして海の青――軽い歓声が上がるくらい、目の奥が沁みるほどに美しい景色だ。天候にも恵まれ、カラッと晴れた空は青々として海も山もよく映える。バスから降りたクラスメイト達は揃ってスマホを構え、その絶景を写真に収めていた。俺もそれに倣ってパシャリと一枚、そして二枚。

「漁港とか地味ぃ、とか思ってたけど、これはいいね」

 いつの間にか隣に立っていたなぎさが、スマホを構えて微笑んでいた。

「な。自律神経整うわ」

「なにそれ」

 おかしそうに笑うなぎさに、俺も笑みがこぼれる。

 やがて先生から集合がかかり、点呼を済ませ、ひとまずは旅館に入りそれぞれの部屋へ。

 一部屋四人グループ、各階ロビーを隔てて男女別になっており、俺達は二階のロビー近く。グループはあらかじめ決めてあって、直也と裕二、それから余っていたやつを一人加えておいた。元々教室でも本を読んでばかりのそいつは、まー我関せずの態度で、俺達は半ば三人グループの様相だ。

 もちろん必要な連絡はするし、何かを取ったり取られたりなんてのはもってのほか。この三と一の構図がお互い楽だな、ってことでこのグループになったという側面もある。

 ……なんか言い訳みたいで苦しいか。でも、事実だ。

 さておき荷物を部屋に置き、ジャージに着替えたら早速最初のレクリエーションに出発だ。一日目は軽く山登り。

「……なんでだよ」

 旅館の裏手、登山道の前に立った裕二が、それを見ながら呆然と一言。非常に同感だ。

「おーい、男どもぉ」

「お、菊原さん」

「登るぞ!」

「なんでそんなテンション高いん」

 菊原さんに続くように歩き出す裕二と直也を見送り、俺は後から続くなぎさに合流した。

「……ダイエットになる、だってさ」

「そんな太ってるようには見えないけどなぁ」

「まぁ、年頃の女子ってそんなもんだよ。あたしは単純に、運動不足解消に」

「配信者だもんなぁ」

「そ。ガチで通販に頼りがちになる」

 登山道はけれど、比較的緩やかで整備もされており、登りやすい。ぐねぐねと曲がりくねってはいるけれど、木々の隙間を縫って歩くのはなかなかに気分が良い――いつぞやかのデイキャンプを思い出す。

 スニーカーで土を踏みしめる感触。注ぐ木漏れ日。心なしかきれいな空気。喧騒のない、自然の中特有の静けさ。

 やっぱり、いざ来てみるといいもんだよなぁ。

「まちこ、やっぱり寂しそうだった?」

「まぁ。久しぶりにハグとかしたわ」

「うわぁ、やっぱりいいなぁ」

「いや、心配にならん?」

「一人になったらなったで、なんだかんだうまくやるっしょ?」

「そりゃ、まぁ」

 まちってのはそういうところがある。寂しい寂しいとか言いながら、いざ自分が修学旅行となるとにっこにこの上機嫌で出かけていくんだ。

 ぞろぞろと続く学生の行列の、その半ばほど。俺となぎさは、遅れることもなく登山道を歩く。ふもとの看板には色々と書いてあったけれど、この山は標高六百メートルほどで、所要時間はおよそ一時間半から二時間ほど。

 普段から運動をしない俺達には、少しばかり辛い道のりだ。

「まちこに写真送ったりしないの?」

「俺は帰ったら見せる派だな」

「そっか。じゃあ、あたし送らない方がいいかな」

「いやぁ、別に大丈夫だろ。なんかそういう違いみたいなのも、楽しいだろうし」

「じゃあ送ろーっと」

 そもそも来年には自分で行くことになるが、それもまぁよし、言わぬが花ということにしておこう。

 それにしても、グループで動く時にもこうしてなぎさとペアになることが多くなった。バスの席順もまた然り、何らかの作為すら疑いたくなる。

 不揃いの足音が響く。この行列のどこからどこまでのそれが響いてるのかわからないけれど、なんとはなしになぎさの足元を見てしまう。その足音を探してしまう。

 俺達も、そして周囲の同級生達も、次第に口数が減っていく。最初こそ窮屈なバスからの開放感でテンションが上がっていたものの、これはさすがに開放感がありすぎだってなもんで。

「はぁ……きっつ」

 運動不足のなぎさも、息を荒げてこんな有り様だ。汗で張り付いた髪が、なんだか妙に艶っぽい。

 やがて見えてくる頂上らしき開けた景色に、周囲はわかりやすく沸き立って足を早めた。その流れに乗るように俺となぎさも足早に頂上を目指す。

 開けた背の低い草原。こう言ったらなんだけど、よく整備されているような。登ってきた山に生える木々はその絶景・・・・を遮らない場所で途切れていて――眼下には港町。建ち並ぶ家々は屋根の形も色も様々で、そこに人が息づいているとひと目見てわかる生活感に溢れている。車の流れがミニチュアのようで、あるいはジオラマのようでもあり。

 そしてやっぱり、バスから見るとはひと味もふた味も違う。遠く輝く水平線と空の境界が混ざりそうなほど鮮やかで、けれど波のきらめきがそれを海と教えてくれる。

 スマホを構える人。それすら忘れて見入る人。そりゃあ誰もがそれに夢中ってわけでもないけれど、少なくとも隣のなぎさは、呆然とも言えるような表情で。

 少し開いた口が、ぼうっとしたような瞳が。陽光に染められた頬が。透き通るような髪が。

「きれー」

「……だなぁ」

 はっと何かを思いついたようにこちらを見たなぎさは、スマホを取り出してカメラを起動させた。

「一緒に撮ろ」

「あー。いいね」

 それを受け取り、腕を目一杯伸ばして、町と海を見下ろすように。

 まちこのチェキ会と同じように、ポーズを変えて何枚かを撮った。さすがにこの人だかりでハートを作る度胸はなかったけれど、肩を組んだり腕を組んだり、テンションが上がって二人共妙に大胆になっている。

 ひとしきり写真を取り終えたら、山頂のレストランで昼食だ。季節の野菜を使った天ぷらと、優しい味の茶碗蒸し。山の上というロケーションか、修学旅行というイベントか、いずれにせよみんなでワイワイと囲む料理のうまいことうまいこと。

 下山の方が辛いってのはよく聞く話だけど、勾配の緩いこの山においてはさほどでもない。なんなら普通に歩くより楽かな、ってなもんで――なんて調子に乗って歩いていると、よくないことが起こるものだ。

 下山し始めてから一時間ほど。なんとなく、なぎさの歩き方がぎこちない。歩調が一定じゃないというか、要するに右足をかばっているような。

「なぎさ、そこの岩、座って」

「……やっぱ気付く?」

「まぁ。靴擦れ? そういや靴新しいな」

「動きやすいスニーカーって、実はあんまり持ってなくてさぁ。買ったんだよ最近」

 素直に岩の上に腰掛けたなぎさは、靴と靴下を脱ぎ、足を俺の方に差し出した。手荷物から消毒液とティッシュ、それから絆創膏を取り出してまずは消毒から。

「沁みる?」

「大丈夫。準備いいねぇ」

「任せろ。裁縫セットまで持ち歩く男だぞ」

「家庭的が過ぎる」

 ティッシュで軽く拭いて絆創膏を貼り、ゴミは鞄にしまい込む。なぎさは靴下と靴を履き直し、ゆっくりと立ち上がった。

 俺はその前に背を向けてしゃがみ込み、「ほれ」と首だけ振り返る。

「……いやぁ、でも」

「下り道あと三十分はあるぞ。行けるか?」

「うぅん……ちょっと、辛い、けど」

「まぁ……男の背に、ってのはちょっと気が引けるのはわかるけど」

 逡巡はしばらく続いたが、結局彼女はおずおずと肩に手をかけ、俺の腕に脚を預けた。

 修学旅行はまだまだ始まったばかり。これから楽しいことがたくさん待っている。ここで無理して怪我を悪化させたら、それこそ馬鹿らしいじゃないか。

 背後に感じる息遣いと柔らかさ。腕に、足に感じるその温もり、重み。

 ああ、いかん。彼女は怪我をして、仕方なく頼ってくれてるんだ。下世話な感情は捨て去るんだ。言い聞かせてはみるものの、やっぱり彼女は俺の推しで、好きな人だ。

「なんかいい匂いする」

「シャンプーとか、別に分けてないからかな」

「あぁ、そっか。道理で。まちこのシャンプーの香り。すんすん」

「嗅ぐな」

「かぐわしい」

 口には出さないけど、そっちだって相当だ。

 爽やかなシトラス系の香り。少し離れるとまったく気にならなかったそれが、今は熱を帯びるほどに色濃く感じられる。酔ってしまいそうだ。

「ごめんね」

「……いやぁ、むしろ役得というか」

「周りに人がいっぱいいるけど」

「羨ましかろう」

「あはは。じゃあ、ふもとまでたくさん、堪能してね」

 遠慮がちだった身体の力を抜き、なぎさは肩に置いていた手を俺の胸元で組み直した。

 委ねられたその身体の温もりが、柔らかさが、熱を上げる。

「めっちゃ、ドキドキするね」

 顔が耳に近いもんだから、息遣いもその声も、よく響く。ふわりと耳から沁み入り、脳を揺らすように溶けて広がる。酔ってしまいそうだ。

 途中何度か下ろして腕を休めたりしながら、およそ三十分。腕も脚も相当疲れてしまったけれど、予定通りに無事下山することができた。

 まだ背にはなぎさの感触が残っていて、じんわりと熱を上げて汗をにじませる。

 先を歩いていた菊原さんがなぎさを心配する間、裕二と直也が寄ってきて俺の肩を叩いた。

「脚ガックガクじゃねぇか」

「うるせぇ。三十分おんぶしてみろ」

「まぁ、おつかれ」

 そしてスポーツドリンクを差し出してくれるもんだから、「おぉ」なんて気の抜けた声を上げてしまう。

「ありがとう」

「で、どうだった?」

「……それ以上聞くな」

「ちっ」

 気遣いが台無しだ。




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