ここで塩をひとつまみ。





 テストが終わり打ち上げをしたら、約束通りの料理教室の日だ。朝食を抜いてくるよう言っておいて、荷物には卵だけをお願いした。チキンライスなんてのは割と簡単にできるし、調味料は有り余るほどに置いてある。練習はといえば、まずはオムレツの反復練習になるだろうという想定だ。

 家を知らない菊原さんを伴って、なぎさは十時頃にやってきた。もうすぐ六月、だいぶ暖かくなってきてその服装もやや薄着になっている。シャツにサロペットをゆったりと着こなしながらも、どこかスポーティな印象が漂う。菊原さんはといえば、料理の為かシンプルなシャツとパンツルックで大人しめにまとめてあるみたいだ。

 女の子が二人、俺を目当てに家に来る。こんな日が来るなんて、誰が想像しただろうか。

 お茶を一杯飲み干してから、俺達はそろってキッチンに入った。持参のエプロンをつけた二人は大変に可愛くて、挟まれる俺の心境ときたら推して知るべし、である。

 ひとまずはチキンライス、好みによってはケチャップライスとも言えるけれど、その為のご飯を炊くところから。

「いいかい。あらかじめお米を洗って水に浸けてあるから、炊飯器のスイッチを押すんだよ」

「あれ、なんかめっちゃイラッときたわ」

「な。いくら衛くんでもやっていいことと悪いことがある」

「ごめんなさい」

 小ボケにマジギレされて凹むのもそこそこに、スイッチを押して次のステップへ。

 チキンライスの具材。我が家では鶏もも、玉ねぎ、ピーマンと人参である。鶏肉は小さめに、他は全部粗めのみじん切りに。

 二人の包丁さばきは、まぁ、いかにもやり始めではあるけれど、触ったことがないというほどでもなく。これなら怪我の心配はないだろう、と安心できるものでもあって、ひとまず安心である。

 一旦それらは別皿に避けておいて、さぁいよいよオムレツの練習にとりかかる。

「卵液は……まぁ、まったく何も入れずに、っていうのが意外と一番美味しかったりする」

「でも衛くんのは違ったよね?」

「マヨネーズをほんの少し。牛乳も少々。塩コショウ少々」

「マヨネーズ? なんで?」

「タンパク質が熱で凝固するのを、マヨネーズの油とか酢とかが緩やかにしてくれるんだと」

「へー。あ、だからふわふわになるってことね」

「そういうこと。まぁ味付けは好みだけど、とりあえずウチの味付けから」

 卵をボールに割り入れ、材料を適宜混ぜ合わせながら入れていく。

 できるだけ泡立てないよう、できるだけ白身と黄身が混ざりきるまで。混ざりきったらザルでこして、いかにも美しい卵液の出来上がりだ。

 不器用ながらもそれに続く二人を尻目に、取り出すのはフライパン。普段は弁当用の具材なんかに使う、小さいタイプのやつだ。

「練習用に、ひとまずこれでやろう」

「おー、かわいい」

「それなら何個か食べる羽目になってもだいじょぶそうだね」

「とはいえそんな忙しいわけじゃないから、落ち着いてやればできると思う」

 コンロの横に濡れた布巾を用意して、火を点けたらいざ調理スタート。

 バターを入れて中火で溶かしていく。底が隠れるくらいの卵液を入れ、ゴムベラなり菜箸でかき混ぜる。イメージとしては、キメの細かいスクランブルエッグだろうか。半熟程度になってきたな、と思ったら濡れ布巾にフライパンをトントンと乗せて温度を下げる。ある程度下がったら縁の卵が焦げないように内側に入れ込み、その後フライパンを傾け三分の二ほどを折りたたむ。そして逆側をたたみ、フライパンのカーブを使って形を整えたら、ガっとひっくり返し最後は強火で表面を固める。

 皿に盛り付けて、完成。

「おー、やっぱすげー」

「簡単そうに見えるんだよねー」

「慣れだよ慣れ。どっちからやる?」

「あたし!」

「譲るわー」

 なぎさと場所を入れ替わり、フライパンを洗って水気を取り、布巾を濡らし直したら準備完了。

 重要なのは迷わないこと。「恐る恐る」は絶対に結果に現れる。卵液を流し入れるにしても、かき混ぜるにしても、卵をたたむにしても返すにしても。

 そしてなぎさは、迷わず怯まずできる人間だ。気負わずやれば、必ずできる。

「あちゃー」

 と思っていたら、どうやら卵がフライパンからうまく剥がれなかったようだ。

「ちょっと早かったな。もう少し待ったらいいと思う」

 ひとまずスクランブルエッグにするとして、テイクツー。

 元々小器用ななぎさは、大抵の物事をそつなくこなす。ゲームプレイなんかはその最たる例だが、料理においてもその器用さは存分に発揮された。

 テイクツーにして既に形は整い始め、ボコボコとしながらも立派なオムレツが出来上がった。

 そして三度目にして、中身がふわとろのオムレツが見事に皿に盛り付けられた。焦げ目が多少あり、形もつるつるとまでは言わないまでも、初心者とは思えない出来栄えだ。

「完璧。なぎさ、やっぱ器用だな」

「へへ。あとは大きいフライパンで同じように、だね」

「そういうこと」

「じゃあ紗奈、次がんば」

「くそぉ、ちょっとうまくできたからって」

 場所を交代し、コンロの前に立つ菊原さんは、柄にもなくと言ったら失礼かもしれないが、少し緊張した面持ちだ。

「ゆっくりでいいから、落ち着いて」

「うん。バター敷いてぇ」

 手つきをみればなぎさと変わりない。恐る恐る、といった感じもなく、慌てず手早くできているように思える。

 けれど。

 どうにもうまくいかない。卵をたたむ時のフライパンの傾きだとか、タイミングだとか火加減だとか、その時によって要因はまちまちだけれど。

 三度の失敗で、菊原さんは少し考え込んでしまっていた。

「うーん……一つ一つ気をつけてるつもりだけど、どっか抜けちゃうなぁ」

「まぁ、考えてる間もどんどん状況が進むからね」

「あ、じゃあ遠野くんちょっと後ろ来てよ」

「え、もしかして」

「手取り足取りってやつで。足は取らなくていいけど」

「えー……まぁ、昔まちにはそうやって教えたけど」

「じゃあそんな感じで!」

 なんとなく……いや、確かな後ろめたさを感じて、俺はなぎさの方を窺ってみた。けれど彼女は「なにそれー」と笑っていて、少なくともそれを気にしている風には見えない。

 仕方ないか、と俺は菊原さんの後ろにまわり、その両の手を恐る恐ると握ってみる。

 柔らかな手だ。彼女は部活動をしておらず、また料理も見ての通りの不慣れで、実家住まい。水仕事の多い俺とは明らかに違う、滑らかで瑞々しい、小さな手。少し身体を引いてはいるけれど、それでも感じるその背の温もりも、優しく香る髪も、なんだかとても落ち着かない。

 ああ、いかん、だめだ。くらくらする。

 まちだと思おう。小さい頃は、料理を教えろとせがむ妹に、いつもこうしていたんだ。いっそ抱きしめるくらいに身体を寄せて、その手を自らの手と思うくらいに。

「おぉ……これは、あすなろ抱きに近しいものを」

「よく知ってんなそんな言葉」

「乙女の美学ってやつよ」

「意味わかんねぇ」

 菊原さんに応じて軽口を叩いてはみるものの、鼓動は早まったまま一向に収まる気配もない。それが彼女の背に伝わってしまいそうで、また身体を引きそうになってしまうのをかろうじて堪えた。

 さておき彼女は至って真剣であり、本気でオムライスを習得したいらしい。なら俺はそれに応えなきゃならないし、恥ずかしがって動きが疎かになっちゃ元も子もない。

 ……今更ながら、手を取るのは卵液を入れてからでよかったよな、なんて思いながら作業を開始する。

 少しやりづらくはあるけれど、この体勢も懐かしいながら馴染みのあるもので、思ったよりも順調に進んだ。

「ちょっと離すから、この卵の感覚覚えて。このくらいで返し始めるから」

「うん、うん」

 卵の様子をまじまじと見つめながら、菜箸を軽く動かし、菊原さんは小さく頷いた。再びその手を取り、そして気付く。

 三度の失敗が、思いの外堪えてるらしい。なぎさが順調に成功したから尚更だろう。

 ゆっくり、けれど確実に、決して焦らせない速度で調理を進めた。このくらいでも大丈夫だよ、と手を通して伝えるように。

 ああ、本当に懐かしいな。最初にまちに教えたことを思い出す。あの時の彼女も不安そうで、けれど手を握った瞬間に身体の緊張が抜けていくのがよくわかった。信頼されてるな、と感じるのと同時、絶対にうまくできるようになるからなと俺の方もかえって気負ってしまって。

 あの時は結局何度か失敗して、まちを泣かせてしまったっけ。その分、うまくいった時の喜びようもすごくて、飛び跳ねるようにリビングを駆け回った。

 今度は失敗しなかった。慣れたもんだ。

「おー、なるほど、なるほど。できるかも!」

 振り返る菊原さんの笑顔に、その時のまちの笑顔が重なって見えて、なんだか微笑ましく思えた。

「えと……遠野くん?」

「え?」

「その、いいんだけど、手が」

「ああ、悪い悪い」

 思わぬ回顧に、ついついその感触が名残惜しくなってしまって、手を離すのを忘れていた。慌てて手を離し、背を離し、お互い見つめ合って生まれる、奇妙な沈黙。

「あはは……ねー?」

 ごまかすように笑う菊原さんに応じてから、ついと視線を流してみれば。

「なぎさ?」

 思わず名を呼ぶ。

 呆然とこちらを見るなぎさは、自分が今何を見ているのかも理解していないような目で、それを揺らすようにわずかに膜が張っていた。

 呼ばれた拍子に、こぼれ落ちる一雫。我に返るようになぎさはそれを拭い、明るく笑った。

「あは、ごめん、ちょっと顔洗ってくるね」

 急ぎ足にキッチンを、リビングを出て消えていくその背を、菊原さんと二人見送って。

「……まずったか」

「その様子だと、気付いてた?」

「いや、まぁ、多少?」

「ちょっと追いかけ……」

「だいじょぶだいじょぶ。向こうはむしろ一人になりたい感じだろうし」

「……そうなん?」

「いざという時泣くようなヤツにはなりたくないタイプと見た」

「勘かよ」

「だとしたら、追いかけてきてくれたのがむしろ負い目に? 泣き落とししてしまったーって」

「……でも、なんか説得力あるな」

「だしょ? だから話すなら、お互い落ち着いてからにしよう。私も、遠野くんも、なぎさも」

「なんだかんだ、やっぱ仲良いんだな」

「まぁね! ……だったら最初から気をつけろよって話なんだけど」

「まぁ……付き合ってるわけでもないし」

「こういうのってきっかけ次第みたいなとこあるしねー」

「きっかけ、ねぇ」

「あ、ほら、来月」

「ああ、修学旅行」

「定番じゃーん。どうだい、覚悟決めてみないかい?」

「……覚悟ときたか」

「ま、どっちからいったって結果は同じ。早い者勝ちだよ!」

「それはちょっと話が違う気がする」

「どっちにしたって覚悟は必要じゃない?」

「そりゃそうか……そりゃそうだ」




「そりゃそうだ」







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