学成りがたし。





「うーん」

 わかりやすい唸り声を上げているのは菊原さん。テーブルには問題集とノートを広げ、シャーペン片手にそれを解いていたが、どうにも手が止まってしまっているようだ。

 まちはスラスラと解いている。予習復習は欠かさない、なんてことはスケジュール的にできないが、それでも授業を真面目に聞いて、わからないところだけ復習すればそれで十分だ。優等生の彼女には、高校一年最初の中間テストなんてのは、それこそ勉強せずともいい成績を取れると確信できる程度のものでしかない。

 なぎさは、時折詰まりながらも順調に進めている。特段優等生というわけでもないけれど、そもそものところ彼女は編入試験を受けたばかりで、それなりに積み重ねがあったらしい。

「うーん」

 わかりやすい唸り声を上げているのは、そして、俺である。

 テーブルには製菓技法のテキストを広げ、今まで感覚でやっていた行動に対し、きちんと意味を考えようと四苦八苦している。

 学校の勉強をサボるな、と言われたばかりではあるけれど、今のところそれで困ったことはなく、やれることをやっていこうとなったわけだ。

 例えばどこかのお店で修行なりなんなりすることになったとして、専門用語的なものがまるでわからないでは話にならない。言われたことを迷わずできる知識を、まずはつけなくちゃならない。

 高校卒業後の進路に専門学校っていう選択肢も大いにある。いや、むしろそれが本命か。

 それにしたって、知識はつけなきゃならないわけで。

 場所は学校の図書室。時刻は午後四時、放課後である。

 直也と裕二は途中までついてきたものの、勉強会だとわかると「用事あったわ」と帰っていった。せっかく女子と同席だっていうのに、どうせやらなきゃいけない勉強ならここでしていきゃいいものを。

 俺みたく、よそ事をしたっていい。要するに勉強をしてる彼女らの邪魔をしなければいいのだ。

「まちこ、まちこ」

「なぁに?」

「どしたの、衛くん」

「えぇー? どうしたのかなぁ?」

 にやにやとはぐらかすまちを横目に、俺はひたすらにテキストを読み漁る。

 不服そうななぎさは、けれどそれ以上追求しようとはしなかった。

 別に秘密にしたいわけじゃないし、何ならなぎさにはいずれこちらから話そうと思っているくらいだ。仮に夢が叶ったとして、人気配信者とのコネ・・はきっと大きな力になるはず。そんな汚い打算を正直にぶつけるのは少しばかり気が引けるけど――夢のためには、犠牲もつきものだと、思うんだ。

 ともあれ勉強会。各々が好き勝手に自習するだけなら集まる意味はなく、それぞれが必要な教科に取り組みながら教え合うことこそその意義である。

 とはいえ高校二年でクラスは文系と理系にわかれ、同じクラスの三人は共に文系。となれば苦手科目は理系に偏っていて、教え合うにしてもやっぱり単純な学力で教える側教わる側が偏ってくる。

「なぎさぁ」

「はいはい、てかあたしだって別にできるわけじゃないからね?」

「私よりできんじゃん。隣りに座ったのが運の尽きってやつ」

 向かいに座る二人が何度目かになるやり取りで身体を寄せる。

 黙々とただ自らの課題に取り組む俺達兄妹が、こうなってくるとなんとも味気なく思えてくる。

「まち。ここ教えてくれ」

「……私は卵濃いめのプリンの方が好きだね」

「そうか……すまん」

「うん。ちなみに、知ってるよね?」

「すまん」

 ちょうど開いていたページに、サンプルとして載っていたプリンのレシピ。卵と牛乳、砂糖の比率で味と硬さが大きく変わる。まちの好みは先の通りだが、当然、俺は子供の頃から知っている。

 なんとなく寂しくなって絡みに行っただけ……当然、まちは知っている。

「……作るか」

「お菓子用卵ってまだあった?」

「定期購入だからな。スイーツ作りに卵切らすのはありえん」

「なんだかんだ、一番お金使ってるよねぇ」

 まちの為、まちが喜ぶからと作っていたけれど、まぁ、なんだかんだで料理もスイーツ作りも、好きでやっている側面もある。両親からの生活費はもちろん、そこから溢れた俺への小遣い分からも使っているくらいだ。

 長年続けてきた習慣が、今はこうして「夢」に変わった。「好き」を仕事にすると続かない、失敗する、なんてのはよく聞く言葉だけれど、結局そうしている人なんて山程いるわけで。

 それを分ける境界線っていうものがあるんだろうか。あるとしたら、それは?

「勉強、きつくないか?」

「そこまでがっちりやってないから。それにアイドルっていつまでも続けらんないし」

「まぁ、そりゃそうか」

「何にしても、勉強する習慣はあった方がいいよ」

「……そりゃそうだ」

「おにぃ語録だ」

「なーちゃん正解ー」

「嘘だろ。覚えてねぇよ」

「言ったんだよぉ。中学入ったくらいで」

「悟りすぎだろ、俺」

 嫌な中学生もいたもんだ。

 とはいえ、言っていることはまさしく正論。今こうしてテキストを前に何の苦もないことだって、そういう習慣があったからだ。

 自分のやりたいことが既に定まっているにしても、そうでないにしても、その習慣は継続した方がいい。それは嫌なことも必要ならばとやれるようになる訓練でもあるし、そして何よりも「自分に合った学習法」を探る機会でもある。

 ノートを整理する。テキストを読み込む。回数をこなす。色々試して、どの方法が一番知識として身につくか。身についたか。

 俺の場合、サラッとでいいから何度でもテキストを読む。ちょうど今のように。

「というか、なんで俺の言ったことわざわざメモってんだよお前」

「え、いいなぁって思って?」

「一般論ばっかじゃねぇか」

「でもすっごく……考え方が、ふけ……大人っぽいし」

「おい今何言おうとした」

 クスクスと笑う女性陣に、俺はふてくされてテキストに目を落とす。

 もちろん彼女らも会話の中でも勉強を止めたわけでもない。教えながら教わりながら、あるいは一人で、会話を交えながら和気あいあいと。

 学校の図書室は思いの外ルールに緩く、多少会話が盛り上がったところで注意すらされることはない。もちろん声は抑えているし、ガチャガチャと騒いだりはしないけれど。他にも似たようなグループがいくつかと、一人で真面目にやっている人が何人か。

 夢を追う、なんて表現をよく見かける。けれど夢がいざ定まってくると、なんとはなしに、追われているような感覚を覚える。選択肢から道を一つ選び取ったに過ぎず、それもまだ決定したとは言い切れない。それなのにどこか、後戻りできないかのような焦燥感。

 もちろんそこまで逼迫したものじゃない。なんとなく胸の奥にくすぶるもの。あるいはそれは、地に足のつかない高揚感のようでもあって。

 いずれにせよ、歩き始めた実感は確かにある。図書室で本を読み、勉強をするこの人達のうち、同じような感覚の人がいるだろうか。

 例えばまちやなぎさは、もう既に働いて収入を得ている。やるべきことをやり、その為に様々なことを学んでいると知っている。

 横目でちらりと隣をうかがってみた。涼しい顔でノートにシャーペンを走らせるまちは、日々の疲れを感じさせない顔色で、やっぱり可愛い。言うなればそれさえ、彼女の「仕事の一貫」で。

 思えばまちも、そうして夢に追われながら、アイドルを続けているんだろうか。

 なぎさは? 正面にちらりと視線を送ってみれば。

 はたと目が合い、そして逸らされた。

 問題集に向かいまた真剣な顔で勉強に取り組む彼女に、内心首を傾げながらテキストに目を戻す。

「……はぁ」

 小さく聞こえたそのため息を、聞かぬふりをしながら。その意味に、ほんの少しの期待・・を抱きながら。



 俺達の、そしてまちにとっては高校生活初めての中間テストは、何の問題もなく終わった。

 手応えとしてはいつも通り、大方の教科は九十点台に乗っかってるんじゃないだろうか。まちも似たようなものだ。なぎさも菊原さんも問題なく、そして野郎共も赤点だけは回避したはずと言っていて、安堵感が見て取れた。

 さておきテストの重圧から開放された学校は、いかにも浮ついた空気が目に見えるようだった。打ち上げをしようなんてグループが多くあって、俺達もまたその中の一つだ。

 まちの友達も呼んで、焼肉屋で網を囲む。大盛り上がりの俺達は、場に酔うように浮ついて。

 終わる頃にはすっかり日も落ち、星の浮かぶ中で解散となった。

 男性陣が三つに分かれて女性陣を家まで送る、ということで、俺はまちを伴ってなぎさを送り届けることになった。家の方向云々ではなくて、仲が良いからということらしい。

「楽しかったぁ。やっぱテスト終わりの打ち上げはアガるよねー」

「解放感すごいもんねぇ」

「まちこはそんな緊張しないでしょー? すごいなぁ、アイドルまでやって」

「なーちゃんだってこまめに配信してるじゃん。おかげで私も忙しくなるんだってぇ」

「じゃあ、もっと絡んでもいいかもだねー」

「いいと思う!」

 前を歩く二人は楽しそうに笑いながら、今後のことについて話している。

 まちのファンの多くには、なぎさと仲が良いことが伝わった。そしてなぎさの視聴者には、彼女がまちこのファンであることが十分に伝わった。確かに、絡んでいく土壌は整ったように思う。

 二人の前途は順風満帆、これからもっと成長していくんだろうという確信がある。それは彼女らの表情にも表れていて、最初の挙動不審はどこへやら、なぎさの自然な笑顔が目を引く。

 夜闇に浮かぶその笑顔が、ふとこちらに向いた。引かれたまま、惹かれたまま、目が離せない。

 一歩、二歩と後ろに下がり、なぎさは俺の隣に並んだ。まちは一度だけ振り返り、そのまま一人で歩く。

「ね、パティシエなるの?」

「……なんで?」

「答えてるみたいなもんじゃん。ウケる」

「いや……まぁ、そうなんだけど」

「急に勉強し始めたら、想像くらいするっしょ」

「ああ、そりゃ、そっか」

「そりゃそうだよ」

 にこにこと何が楽しいのか、後ろ手を組んで軽やかに歩く。軽やかに踊る髪が風に流れると、街灯に照らされたピアスが小さくきらめいた。

「楽しみだね。あたし、衛くんの……お菓子、好きだよ」

「うん。ありがと。もっと、上手くなるよ」

「いつかお店とか出しちゃうのかなぁ」

「まぁ、色々と勉強して修行して、いずれかなぁ。それまでに挫折しなければ」

「だいじょーぶ。衛くんは、だいじょーぶ」

「……そっか」

 楽しそうな笑顔から一変、その笑顔は急に温もりを宿す。穏やかで優しく、包み込むような。細められた目、覗く瞳が俺をとらえた。


「応援、してる。ね?」


 なんとなく、なぎさから感じていたもの。それが少し、はっきりしたような。

 それは多分、俺がなぎさに抱いているものが、少しだけはっきりしたからだ。




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