懸念。





 三人並んで歯磨きをして、三人で勉強会を開き、そして三人で昼食をとった後、まちは一人ライブの準備に出かけていった。まだまだ早い時間だけど、色々とやりたいことが多いらしい。そろそろライブにもこなれた感が出てきただろうに、満足することなく意欲的なまちに、なぎさが感動していた。

 登録者が増えて再生数も上がった。ということはつまり、収入が上がるということだ。そしてそれは、できることが増えるということでもある。

 新しくオリ曲を作るのもいい。もっと貯めて、今度はライブを主催するのもいい。配信用の機材をアップグレードするのもいい。まだまだ一年半程度、まだまだ駆け出しアイドルのまちには、やりたいことやるべきことはいくらでもある。そしてそれは、成長の余地そのものだ。

 うっきうきで上機嫌のなぎさを送り届けるべく、彼女の家に向かっていた。春の穏やかな昼下がり、静かな住宅街を二人で歩くのは、なんだか特別な気分だ。ましてやなぎさはお泊りの帰りで、俺の家で夜を明かしたっていうんだから、もう。

「さいっこーの休日だった……ゴールデンウィークの締めにはこれ以上ないね」

「俺もめっちゃ楽しかったわー。まちもはしゃいでたし、ありがとね」

「いやいや。なんかもう、夢見た以上のことが現実になってて、こっちこそありがとうだよ」

 夢見た以上、ってすごい表現だな。でも事実、ライブにたくさん通うことを目的に引っ越してきたら、まちこにここまで近づけたっていうのは飛躍が過ぎる。

 それでも目的は目的、今日のライブにも参加するつもりのなぎさは、数字が伸びたことでいらぬ皮算用をしているようだった。

「先週の対バンくらい来るんじゃない?」

「ないだろ。動画見るのとライブに行くんじゃ、ハードルが違いすぎるぞ」

「夢を見ろよー。まちこが一人で数百人を盛り上げる光景……想像するだけで鳥肌だよねぇ」

「その光景はもう見たけどな」

「そういうことじゃないじゃん。わかるよね、わかってて言ってるよね」

「はっは」

「なんか言えよ!」

 とはいえ確かに、その光景は「鳥肌モノ」だった。俺の知ってるまちが、俺の知らないまちこになって、数百人を黙らせた。そしてその静寂が、その後の曲を一層引き立てて、盛り上げた。

 思い出すだけでその時の興奮が蘇るようだ。あの瞬間俺はまちの「おにぃ」じゃなくなって、暗がりにうごめく影の一部でしかなかったはずだ。

 その影が大きくなればなるほど、きっとその光は輝きを増すんだろう。それを想像できてしまうほど、まちこというアイドルに可能性を感じてしまっている。

 なぎさがそれを切り開いた。

「なるほど、泣いた理由は『あたしが育てた』感か」

「はぁ? いきなり何、そうだけど何!?」

「今更ながらに気付いたんだけどさ」

「ん、どしたの。あたしの上げたテンション置いてけぼりにして」

「それはごめん。でも、今夜の……というか今後のライブで心配なことが」

「えっと、あたし関係で?」

「うん。ほら、コラボしたじゃん。数字伸びたじゃん」

「そだね。あ、もちろんそれだけじゃないよ? 泣いた理由」

「わかってるって」

 コラボ前の話し合いじゃ、不思議と思い浮かばなかった。

 まちこのチャンネルで伸びた数字は、そのほとんどがなぎさ由来のものだ。つまるところ本来はなぎさのファンであり、まちこに対しては「興味」程度のものしか抱いていない人がほとんどだろうと思う。

 もちろんなぎさと同じように、ぐっと心を掴まれて握りつぶされた人もいるかも知れない。

 とはいえ、ともあれ、なぎさのことを好きなたくさんの人達が、まちこを見つけた。『リアル』で活動する、その活動場所も活動時間も明らかにしているアイドルを見つけてしまった。

「……あ」

「まちこのライブに行けば、『なぎ。』に会える……んじゃね?」

「うわ……うわぁ、マジか、やば、やらかしたぁ」

 立ち止まり、しゃがみ込んで頭を抱えるなぎさ。よしよし、と中腰になって背中を擦る。

「でもさ、じゃあ、あたしは配信で推しを教えるべきじゃなかったってこと? これからもずっと?」

「……昨日のコラボが失敗だったんなら、そうなんじゃね?」

「そんなことない!」

「じゃあ、そういうことだろ」

「うん……そうだよね。縮こまってても、つまんないもんね」

 実際のところ、十五万人の登録者を持つ配信者がどれくらいの影響力を持っているかなんてわからない。配信をリアルタイムで追いかける人間すらその数十分の一程度で、わざわざライブハウスまでとなると正直数えるほどなんじゃないかと思っている。

 とはいえ、そうまでして執着する人間を警戒するのも当然。加えて、推しであるまちこのライブっていうシチュエーションがなおもなぎさを苛む。つまり、推しに迷惑をかけたくない、という思いだ。

「とりあえず今日のところは俺も行こうか?」

「……おねがい」

そっち・・・は大丈夫なんだよな?」

「むしろいい機会だと思うことにする。それで離れるようなら、それでいいや」

 とはいえ推しのライブに行かない、なんてのは考えられない。考えたくはない。何しろなぎさは、それをするために努力し、引っ越しまでしてしまったんだから。

 そして仮になぎの視聴者がライブハウスに現れたとして、俺と二人で遊んでいるのを見たらどう思うだろうか? SNSでバラされないだろうか? バレた時の視聴者達の反応は?

 それを含めて、なぎさはひとまず前向きに捉えることにしたようだ。

 つまり――視聴者をふるいにかける、ということである。

「ごめんよまちこぉ……利用するみたいになっちゃったよぉ」

「ちょっと涙声じゃねぇか」

「だって、だってぇ」

 そりゃ心苦しいだろう。本来なら「行くべきじゃない」なんてことも考えてるはずだ。

 いろいろなことを天秤にかけて、それでも行くと決めた。杞憂で済むならそれが一番、けれど万が一もありえなくはない。

「まぁ、少なくとも身の安全くらいは頑張って守るよ」

「ありがとぉ。おにぃ、頼りになるぅ」

「おにぃじゃねぇよ」

 さておき妹にはこのことを知らせておこう。ラインを開きメッセージを送れば、ほんの数秒で既読になり、ほんの数十秒で返事がある。

「ほら、まちなんてこの調子だぞ」

 画面を見せれば、渋面のなぎさも思わず吹き出した。

 シンプルな一言だ。

『私に夢中になるから大丈夫!』

 我が妹ながらなんというか、本当に頼もしい限りだ。

 たった一言で人を元気づける。安心させて、勇気づけて、笑顔にしてしまう。俺にはできないことだ。

 立ち上がって歩き出すなぎさの背を追いながら、それに触れた手のひらをぼんやりと眺めてみる。その温もり、感触、あるいはその小さきを。

 支えられるくらいの、押せるくらいの、強さがあればなぁなんて思ってみるのだ。

「衛くん」

 そんな俺を呼ぶ声。振り返ったなぎさが、満面の笑みを浮かべて立っていた。

「あたし、衛くんのこと好きだよ」

「……え」

 拍子抜けしたのに。意識してなかったのに。それ以上の衝撃でもってぶつけてくるんだから敵わない。言葉を失う俺を笑い、いたずらっぽく歯を見せるなぎさは続けて、

「まちこの次くらいにね!」

 なんて、冗談めかして踊るように歩き始めた。ため息一つに苦笑いを添えて、それに続く。

 まちこの次って、相当だぞ。ああまで推してる、ああまで「好き」が見えるくらいのその次なら、それこそ舞い上がるくらいに嬉しいじゃんか。

 もっと他にいるだろ? 菊原さんとか、地元の友達だって、あるいは家族も。

 からかうようなリップサービス。今振り向いたら、それこそその「好き」だって萎んでしまいそうなくらい、締まりのない顔をしてるんだろうなぁ。自覚しながらも抑えきれないにやけ面は、けれどなぎさの家に着くまで見られることはなかった。

 残念のような、ほっとしたような。

 なぎさの家に上がることはなく、俺は荷物を渡してその場を去った。

 ゴールデンウィークももう終わり間際。五月に入って陽気は少しずつ熱を帯び始め、歩けばほんの少し汗ばむほどで。

「あっつ……」

 なんて、無意味に呟いてしまう。

 ライブまでは時間がある。チケットのことは、当日券がたいてい売られてるから大丈夫ってことで、俺はひとまず家に帰ることにした。

 と、そこで再びまちからメッセージが届いた。曰く、「今日はかばちゃんの送迎だから、ライブ来るなら先に帰ってて」だそうで。樺ちゃんこと樺沢さんは、まちこの……というよりは彼女の所属する事務所のマネージャーで、大変お世話になってる人だ。

 妙な売り方をするまちを見捨てることなく、彼女の意を最大限汲み取って種々のサポートをしてくれている。たまにライブを見に来て、その際は車で家まで送り届けてくれることになっていて――

「……じゃあ、やるか」

 俺はそのお礼にと、毎度作ったお菓子を贈っているんだけど。

 今更ながら迷惑に思われちゃいないだろうか。手作りお菓子ってのはなかなかに「ヘビー」な贈り物だって言うし、それこそ特別仲良しってわけでもない相手だ。

 これまで食べさせた人には好評ではあるけれど。

 確認すべきか散々迷った挙げ句、俺はひとまず作って、まぁ嫌なら断るだろうと楽観することに決めたのだった。




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