躍進の時。
「おにぃ! おにぃー!」
朝七時、着替えを済ませて朝食の準備を進めていたところ、血相を変えたまちがどたばたとリビングに駆け込んできた。行動的ではあるものの、元来穏やかな気性の持ち主であるまちは、家の中を走り回ったり早朝から大声を出すような子ではなかったはずだ。
咎めるように目を細めまちを見やれば、ぴたりと立ち止まって口元に手を添え黙り込む。
「おはよう」
「おはようございます」
何故に敬語。
立ち止まりはしたものの、身体がソワソワと落ち着かない様子が見て取れる。もちろん何かがあってそうしたんだろうし、話したい喋りたいがもう、全身から溢れているようだ。
「……で?」
「そうなの、すごいんだよ。おにぃ、おにぃ、見てこれおにぃ」
おにぃおにぃとうるさいやつだ。
手に持っていたスマホの画面をアクティブにして、俺の目の前に突きつける。
映っているのは動画配信サイトの、まちこのチャンネルページだ。ヘッダーにはまちこのポスターにもなっている、ライブ中の写真が添えられている。とてもかわいいのにとてもかっこいい、実に絵になる一枚だ。
さておき目を引くのはやはりチャンネル登録者数。どのチャンネルを見るにも、ここを気にしない人間はいないだろう。それは配信者としてのバロメーター、実力はともかくとして、人気がひと目にわかってしまうある種残酷な数字である。
昨日までは千三百人ほどだったそれは。
「……は?」
「ね? ね!? すごくない? すごいよね!」
まちが
昨日まで千三百人ほどだったそれは、現在五千を超えていた。
「コラボで?」
「以外にないよねぇ。でも、増えてもちょびっとくらいだと思ってた」
「同接も三千くらいだったろ? なんでそれ以上に増えてる?」
「なんかねぇ、いろいろ切り抜きとか上がってるみたい。なぎ。限界化、みたいな」
「それだけで……?」
とはいうものの、切り抜き動画、というものの重要性はよく聞く話だ。配信への、あるいは配信者への入口としては、「ショート動画」なんてものに並び立つほどに間口が広い。
どちらも趣旨は同じ。元の配信から面白い部分を抽出したもの、という構造上、そこから「気になる」が発生する。ショート動画なんかは新規動画であることもあるが、やはり「短時間で面白い」を強調したもので。
なぎさは、あるいは『なぎ。』は、実はこれまでこれといった
故に、「限界化」なんてものは実に見慣れないものだった。俺も、なぎさとまちのファーストコンタクトには驚いたもんだ。
「配信改めて見ると、なーちゃん思ったよりガチガチだったね」
「な。あんな『なぎ。』レアだから、『machico』って何者だ? って感じで、気になるかもな」
「なるほどなぁ。あとMVも伸びてるんだ。憑物で五万以上回ってるんだよ」
「すげぇ。なぎさハンパねぇな」
「まだ本人ぐっすりだよ。起きたらびっくりしちゃうねぇ」
くすくすと笑うまち。夜中に起きている俺達をよそにぐっすりだったってのに、よく言うもんだ。
……「好きな人いるの?」
思い出してしまう。あの言葉の意味を測りかねて、今も悶々として胸をかきむしりたくなる。何の気なしに、なんてことない表情で放たれた言葉は、脳裏に焼き付くに十分な
だってなぎさは、『なぎ。』は俺の推しだ。推しってことはつまり、好きってことだ。
もちろんその意味は恋愛的なものを含まない。「ガチ恋」なんて言葉もあるけれど、それだって実際に恋をしているなんて本人すら思っていないんじゃないかと思ってる。
でも、実際に会ってしまった。話してしまった。触れ合って、笑いあって。近くに感じてしまった。
画面越しに「好きな人いるの?」なんて聞かれたって、こんなに気にならなかったはずだ。例え視聴者が俺一人で、明らかに俺に向けた言葉であってもだ。
「ご飯、できそう?」
「ああ、そうだな、もうすぐ」
「じゃあ、起こしてくるねぇ」
「……急がんでもいいけど」
「そう? でもまぁ、一応聞くだけ聞いてこよ」
リビングを出ていくまちを見送り、ため息一つ。
俺の変化に気付いているやらいないやら。俺がまちの変化に目ざといように、まちだって俺の変化にはよく気付く。
とはいえ俺が一人の「異性」を意識するなんて初めてのことだ。初めて目にする変化に、気付かなくたって仕方ない。
コーンスープの仕上げに生クリームを泡立てないまま器に流し、乾燥パセリを浮かべる。
フレンチトーストと蒸し鶏のサラダをあわせてテーブルに運び終えた頃、まちは眠気眼のなぎさを伴って降りてきた。
「食べるってぇ」
「おはよぉー」
「おはよ。先顔洗ってきたら?」
「そうするぅ」
ああ、なんというか、拍子抜け。
ただひたすらに眠たげで、顔色一つ変えやしない。一人で意識してたのが馬鹿みたいだ。熱くなる頬を冷ますように顔を振り、食卓についたまちの対面に腰掛けた。
にこにこにやにやとごきげんな様子を隠そうともしないまちは、なぎさが戻るのを焦がれるようにリビングのドアを凝視している。
そんなまちに毒気を抜かれ苦笑い。なぎさはパジャマ姿のまま、すぐに戻ってきた。
「いいにおーい」
「今日のフレンチトーストは張り切ってひと晩寝かせたやつだ」
「聞いたことあるー」
まちの隣に座り、にこにこの彼女ににこにこを返すなぎさは、まだ事態に気付いてはいないようだ。
ともあれまずは朝食を。三人そろって手を合わせ、「いただきます」と唱和すればにぎやかな食事が始まる。
食事中にスマホを触るな。というのは我が家に染み付いたルール、というより暗黙の了解で、見るにしたってあらかじめ再生しておいた動画くらいだ。
「じゅわふわぁ。バターの香りがすご、やばうまー」
「卵料理に定評のあるおにぃ」
「まちが好きだからだろうが」
「まちこが好き?」
「そっちじゃなくて。いやそっちもあるけど」
「おにぃ、照れるよぉ」
「はっ倒すぞ」
どちらも「ながら」にはなるというのに、スマホがダメで会話はオーケーっていうのはどうにもよくわからないが、まぁそんな理屈を気にしてそうなったわけでもない。
兄妹が必ず揃う場面であり、俺は妹が自分が作った料理を食べるのが好きだし、妹は俺の作った料理が好きだ。だからそれに集中していて、別段マナーだなんだと言った記憶も言われた記憶もない。
「でもおにぃ、ちゃんと好きだよって言ってくれるから好き」
「いいなぁ。高校生になっても好きって言い合える兄妹とか、レアすぎ。尊すぎ」
「言わなわからんしなぁ」
「おにぃは言わなくてもわかるけど」
「まちもな」
「言わなくてもわかるけど言い合ってるんだ。なおさらいい!」
お前は結局何でもいいんじゃねぇか。
とはいえそうだよな。俺はたぶん、好きなものを素直に好きだと言える性格だ。まち然り、そういう環境に育ったからだ。
親愛と恋愛はもちろん違うもので、なんとはなしに今ならそれが頭でなく心で理解できる。実感できる。なぎさの言葉を意識すると、素直にそれを口に出せるとは思えないからだ。
緊張はしたけど、「推しなんだ」とは言えた。気恥ずかしさもなかった。
ああ、なんというか、俺もまた思春期の子供なんだと今更ながらに理解して。その事実だけが妙に気恥ずかしくて、フレンチトーストを大きく頬張ってみる。
……俺ってなんというか、食ってごまかすこと多い気がするな。気のせいか。
「なーちゃんは彼氏とかいないの?」
「いないねー。いたこともないや」
「そーなんだ。かわいいのに」
「それ言うならまちこだって」
「いたことなぁい」
モテるモテないで言えば、間違いなくモテる二人だが、その実恋愛経験は互いにゼロ。珍しいことではあると思うけど、ただ単にそれ以外に夢中になれることがあったというだけだ。なぎさの場合は、以前はひねくれてたってこともあるだろうか。
まちはアイドル、なぎさは配信。なぎさの私生活はよく知らないけど、まちに関して言えば、率直に言って恋愛なんてしている暇はないレベルだ。レッスンにライブに配信に、もちろん事務所のバックアップがあるとはいえインディーズ、自分でやることがあまりにも多い。
最初は心配もしたけど、まちがそれを楽しんでいることがわかってからはもうほとんど手出しも口出しもしない。食事や衛生面、家でできる範囲で彼女を支えている――そしてそれが、俺が夢中になれることだった。
変わる予感はもうほとんど確信だ。たぶんこの夢中だって変わっていく。外に向かった意識が、果たしてどこに向かうのか……なんとはなしに、なぎさを目で追ってしまう。
「私も彼氏できてバレたら炎上するのかなぁ」
「どうだろ。怒る人もいるかもね」
「私もそろそろ考えないとなぁ」
「え、どういう……もしかして」
「ちがうちがう。今までは規模が小さすぎて炎上とか……だったけど、なんと」
ごくり。もったいぶるまちに、なぎさが前のめりになって続きを待つ。
「チャンネル登録者数が五千人を超えました!」
「……ぇ」
小さなつぶやき一つ、意外なリアクション。もっと大声出してテンション上げて、抱きつくレベルに喜んでくれると思ってたんだけど。
まちも同様なんだろう、きょとんとした顔でなぎさを覗き込み、その目の前で手を振っている。
そして次の瞬間。
「うぅ、ふっう……」
「なーちゃん!?」
泣き出したのである。
あまりの事態に動揺する遠野兄妹は、なぎさが泣き止むまでの数分間、食事の手を止めあたふたと言葉をかけたり背中を擦ったりしたのだけれど……
喜びが溢れたと話すなぎさに安堵し、「推し」ってすげぇなぁと改めて思うのであった。
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