夜更けに意味深な会話をするものじゃない。




 なぎさには一番風呂に入ってもらった。続くまちが上がってくるのをリビングで待つ間、そのパジャマ姿にどぎまぎしてしまい、目線をどこへやったものかとキョロキョロと挙動不審な俺を、なぎさはおかしそうに笑う。

 少しもこもことしたシンプルな白いプルオーバーに、同色同素材のロングパンツ。いつものバッチリ決まったウルフショートとは違う、少しだけしっとりした髪。メイクは落とされ、素のなぎさはそれでも目鼻立ちがはっきりしている。

 なんとなく、無防備というか。これまでだって「警戒されてる」なんて感じたこともないけれど、それこそいつにもまして。

「まさか男の子の前でこんな格好する日が来るとは」

「わかっててそういうことを言うんじゃない」

「チラチラ見るからー。堂々と見りゃいいじゃん」

「……なんかこう、グッと来るよね」

「まちこの方がずっとすげーと思う」

「妹だろうが」

 語弊はあるだろうが、妹は妹であって「異性」ではない。異性のパジャマ姿なんて、それこそ学校の修学旅行ですら目にすることのないレアイベントだ。

 高校生ともなりゃ、そりゃあ付き合ってお互いの家に行き来したりあるいは旅行に行ったり、あるかも知れない。けれど俺には縁遠いものであって、やっぱりそれは「初めて」で「特別」なことなのだ。

「配信、ちょっと当たり障りなさすぎたかなぁ」

「あんなもんじゃね? チャット欄見るに、結構好評だったじゃん」

「まーねー。あんま爪痕残そうとか、したくないし」

「顔合わせだし、いらんだろ」

「ま、そっか。とりあえずまちこのMVにみんなを誘導できればそれでよし」

 テーブルに肘をついて、手のひらに顎を乗せて。気だるげな表情で語るなぎさだけど、口元が僅かに笑んでいる。

 MVにさえ誘導できれば、きっとまちこは「数字」をものにできる。そう確信している表情だ。俺だってそう思うし、そうあって欲しいと思う。

 それなりの金額を支払って、プロに動画を作ってもらったと言っていた。映像の素材はその人の指示に従って、休みの日にいろいろと撮って回ったんだっけ。

 苦労には、それに見合った報いがあって欲しいと思う。

「晩ごはんも美味しかったし、ほんと、勇気出してよかったー」

「二つ返事だったけどな」

「それでも、だよ。ね、また今度料理教えてよ」

「そりゃ構わんけど。とはいっても、レシピ通りに作ってるだけだぞ?」

「人に教わった方が覚えるじゃん。オムライス作りたい!」

「まぁ、今日はまちがお世話になったし。手取り足取り教えるよ」

「……ふひ」

 なぎさのおかげで、まちはきっと大きくなるだろう。そのお礼って意味なら、大抵のことはしてやれる。

 まぁそれがなくたって、推しのためなら料理を教えるくらいはなんてことない、ということは黙っておこう。なんならこっちのご褒美だ。

「でもあれよね、ほんとに『ふひ』って出るもんだね」

「俺もビビったわ。ネットミームみたいなもんと思ってたし」

「いやなんかもう、こらえるかこらえないか迷った結果よね」

「推しと絡むと思考力が落ちるんだな」

「そうだよ。きっと衛くんはあたしをそこまで推してないんだな」

「失礼な。……まぁ、なぎさがまちをってほどじゃないのは認めるけど」

「うそうそ、冗談じゃーん」

 明るく笑うなぎさに、苦笑いが漏れる。

 とはいえ事実、なぎさほどに俺は、推しを推せてはいないだろう。投げ銭をいくらか投げているくらいで、グッズの一つだって持っちゃいないんだ。

 出していないわけじゃない。例えば企業コラボのオリジナルキーボードとかマウスとか、イヤホンなんかも出してたっけ。それからデフォルメキャラになったなぎさのアクリルキーホルダーなんかもあった気がする。

 ゲームにしろ推しにしろ、どうしてかグッズにまで手が伸びない。持っているのが恥ずかしい、なんて価値観というわけでもなく、インテリアに合わないから、なんてシャレた理由でもない。

 自分でもよくわからないんだよなぁ。買えばいいのに、使えばいいのに、そもそもグッズのショップページにすら飛んだことがない。

「いやいやいや、そこまで悩まんでも」

「ああ、違う違う。なぎさのグッズとか、買ったことないなぁと思って」

「いらんならいらんでしょ。無理して買われてもなぁ」

「無理ってことはないんだよ?」

「口調変わってんじゃん。欲しい! ってならないなら、いらないってことよ」

「そうなるかぁ」

「それにさ、グッズ買うイコール愛が深いってわけでもないし」

「なぎさがまちこのグッズを買うのは?」

「愛が深いから」

「おぉい」

「あはは」

 笑うなぎさは、しかしそれを撤回したりはしなかった。

 要するにまぁ、愛の形なんてものは人それぞれに違うってことなんだろう。愛の形が違うなら、愛の注ぎ方だってもちろん違う。グッズを買うのも、投げ銭をするのも、あるいはただ見るだけってのも一つの愛の形だ。

 そこに優劣はない。……と、言いたいところだけれど。

「推しが活動するためには、必要なんだよなぁ」

「まー、それはそうだね。推しは推せる時に推せ、なんて言うくらいだし」

「もっとなぎさにお金を払うべきなんだろうか」

「うん、言い方をちょっと考えようか」

「お金は愛……?」

「混乱は殴って治すんだっけ」

「冗談冗談」

 拳を構えるなぎさにヘラヘラと謝れば、「もう」と小さく呆れ顔。

 パジャマ姿の推しと、手を伸ばせば触れる距離で楽しくおしゃべり。ここまでしてるのに、俺は一円だって払っちゃいない。信じられるか?

「おまたせぇ」

 風呂上がりのまちがリビングに戻ると、なぎさの意識は一気にそっちへ向かってしまう。会話は当然途切れて、俺は立ち上がってキッチンに入った。

 毎日出すわけじゃないけれど、まちが疲れた時とかに淹れてやる特別なホットミルク。おそらくなぎさも知っているであろうそれを三人分、作って出せば案の定。

 手を叩いて喜ぶなぎさと、安心したようなとろけた顔のまち。

 これもまた一つの愛の形、ってことなんだろうか。自分でもホットミルクをすすり、その柔らかな甘味に頬を緩ませてみる。




 夜半過ぎ。ふと目が覚めてリビングに降り、キッチンでグラスに注いだ水を飲んでいると、ドアが少しだけ静かに開いた。恐る恐る、といった具合に顔をのぞかせたのは、当たり前ながらになぎさだった。俺の顔を見て安心したのか、ほっと息をついて身体をリビングに滑り込ませるように入ってくる。

「寝れないの?」

「まちこの寝顔かわいすぎて」

「……そう」

「いや、冗談だって」

「わかるわ」

 でも三割くらいは本気であろうこともわかる。

「水?」

「お願い」

 新しいグラスを取り出し、手持ちのペットボトルから水を注ぎ、キッチンに入ってきたなぎさに手渡す。シンクの前に二人並んで、無言のままに水を飲む。

 静まり返ったリビングで、飲み込む音や衣擦れさえもよく響く。見慣れた部屋も、どこか異世界染みて地に足がつかないような。現実感を伴わない不思議な空気の中、ことりとグラスの音が響いた。一気に水を飲み終えたなぎさが、シンクにグラスを置いたようだ。

「ありがと」

「うん。大丈夫?」

「へーき。なんか、夢みたいで」

「……わかる。パジャマ姿の推しと並んでキッチンに立つ日が来るとか、人生わからんなぁ」

「ほんとそう。横見ると、まちこがすぅすぅ寝息立ててんの。信じられないくらい無邪気な顔で寝るんだね」

「だなぁ。俺もまちの寝顔見るの好きだわ」

「なんかもう、胸いっぱいで。ちょっと落ち着こうと思って、降りてきた」

「タイミングよかったな」

「お互いね。勝手にいろいろするわけにもいかないし」

 スポンジと洗剤を取ろうとするなぎさの手を止め、「明日でいい」と笑いながら。

 こちらを見るなぎさの髪が揺れると、ふと香りが舞った。覚えのある、馴染みのある香りだ。シャンプーやなんかも持ってきたと思っていたら、そうじゃなかったらしい。

「客間、行く?」

「ううん、しばらくしたら戻るよ」

「そうそう起きないから、神経質になりすぎなくていいよ」

「ありがと。まちこ、きれいなのわかるなぁ」

「よく寝てよく食べてよく動いて?」

「そうそう。意外とできないよね」

「だなぁ」

 それもまた努力の一つ。おいしい食べ物、楽しい娯楽、簡単に手に入るこの時代に、三つを成立させるのは案外と難しい。

 あるいはアイドル活動そのものを楽しんでいるが故の、無邪気な前進。時々まちは、兄の目から見ても輝いている。

「まちこ、家の中にいるとずーっと安心してるのわかる」

「まぁ、家の中ってそういうもんだろ」

「そうだね」

 フフ、なんて静かに笑うなぎさに首を傾げる。

 いつもとは少し違う表情。笑顔。理由がわからないまでも、やっぱり可愛くて、きれいで、見とれてしまう。

 少しばかり見つめ合って、ついと逸らして。二人の間に、沈黙が横たわる。

 ふわふわと地に足がつかない、現実感を伴わない、異世界染みた不思議な夢の中。静けさの中に衣擦れさえもよく響いて、息遣いさえもすぐ傍に感じる。

 なんとなく、タイミングを逸したような。もう部屋に戻ってもいいのに、そうでないなら椅子にでも座ればいいのに。それでもどうにもできなくて、ただ並んで棒立ちのまま、リビングをそろってぼんやりと眺めている。

 俺にとっては見慣れた。なぎさにとってはほとんど初めての。沈黙が少しずつ気まずくなっていって、そわそわチラチラと隣の様子をうかがってしまう。

 なぎさはそんな俺に苦笑い。考えてみれば、まちを前にするなぎさも最初はこんな感じだったっけ。

「衛くんってさ」

「……あ、うん」

 唐突に声をかけられるから、少しどもってしまった。笑ってごまかそうにも、うまく笑うこともできなくて。

 気にした様子もなくなぎさは続けた。

「好きな人、いるの?」

「……はえ?」

 思わぬ、というかなんというか。一瞬聞かれたことの意味さえわからず、数秒頭の中でこねくり回してようやく理解して、聞かれた理由を考えて――

 わからない、何も――というところに着地した。

「いない、かな?」

 だから、素直なところを口にするに留まった。

 恋愛のことなんて考えたこともない、なんて言ったら嘘になる。けれど意識的に誰それが好きだなんだと動いたことはないし、それより俺の生活の中心はまちだった。

 恋愛ならきっと、まちの方が先だろう。そう思っていた。

「そっか。あたしも、いないよ」

「……そっか」

「うん。じゃあもう、寝るね」

「おやすみ」

「おやすみ」

 なんだったんだろう。いや、というよりはずっと、もしかして。

 唐突にあんな質問されて、意識するなって方が無理だろ? もやもやと胸に頬にと昇ってくる熱を、俺はグラスに注いだ水で飲み下す。

 キッチンとリビングの灯りを消し、階段を登り自室に戻る。

 ベッドに潜り込んで布団をかぶっても、ぐるぐると今しがたの質問が頭を巡る。

 ああ、夜中のテンションってやつだ。浮き立つ夢の中で、眠気眼のままに思わぬことを口にした。なぎさのやつめ、まちと一緒に寝たからと舞い上がりやがって。明日になったら忘れてるに決まってる。

 そう思い込んで眠ろうとしたけれど、結局最後に確認した時計の短針は、三をきっちりと指していた。




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