第20話(最終話)

 たった一泊しただけなのに、自宅に戻るのは何だか久々な気がして、車から降りた俺は思わずしげしげと我が家の外観を眺めていた。懐かしささえ感じてしまうのが不思議だ。

 俺が幼い頃に、両親が念願叶えて手に入れたマイホーム。もう当時の新しさはないけれど、何度か外壁の塗替えや修繕をしているせいか、まだ古いという雰囲気でもない。そんな戸建ての二階建ての家。少し前には内装も少し手を入れたから、ウォシュレットも食洗機も浴室乾燥機も床暖房もある。それなりに今風だ。

「ほら、シロも心配してたのよ」

「シロ?」

 確か俺は一人っ子だったはず。一夜にして家族が増えるわけがないし、心配してくれるような相手に「シロ」と呼ばれている奴の心当たりもない。ああ、我が家が「城」ってことか、と勝手に解釈して納得しておく。ちょっと発音が違う気がしたけど、両親にとっては本当に大切な城のようなものなのだろうし。

「シロー。紡が帰って来たわよー」

 母さんの声に素早く反応して、門扉を開けた内側から何かが走ってくる。舌を出してハァハァと息を切って走ってきたのは──一匹の美しい犬だった。長毛種の大型犬で、一見柔らかそうな毛並みはグレーと言うか、まるでシルバーのような艷(つや)やかな光沢がある。種類は何なのか俺にはわからないが。

「ほらシロ、お兄ちゃんだぞ」

 父さんも犬に声を掛けている。一人っ子の俺を「お兄ちゃん」と言う父さん。

 ──うん? あれ? いやそうだっけ? なんで? そもそもうちって犬なんか飼ってたっけ?

 いやぁ、何だか記憶が曖昧だ。頭がまだ現実についていけていないのかも知れない。後でゆっくり整理しよう。

 とりあえず母さんに続いて門扉を抜けると、その犬はまっしぐらに俺に飛びついてきた。

「うわ!」

 押し倒されそうな勢いと、想像以上の重みに、思わず片足を引いて自分の身体を犬ごと支える。

 飼っていた覚えのない犬は、親しげに俺の顔をペロペロと舐めまくり、犬特有の迷惑な歓迎を受けた。これだけ懐いてるんなら、きっと長く飼ってるんだろう。

 俺は別に犬が好きなわけでもないのに、いやそれ以前に犬を飼っていた記憶はないのに、両親はまるで仔犬の頃から俺と犬のじゃれ合いを見てきたかのように微笑ましく眺めている。そのまま母さんは少ない荷物を持って家に入り、父さんは車を駐車スペースに移動させに行く。

「……お前、シロっていうの?」

 誰がつけた名前なのかは知らないが、名前に反してこいつ、全然白くない。むしろこの色は白銀色だ。だったら名前だって「シロ」どころじゃなくて……あれ?

「シロ……ガネ?」

 口にした途端、急速に溢れてくるものがあった。愛しい気持ち、懐かしい気持ち、絶望的な悲しみ、腹の底から疼くような興奮。

 急に激しい頭痛がして、まるで走馬灯か何かのように、知らないはずの映像が脳内で早送り再生される。

 暗いトンネル、緩やかに落ちる自分、読書感想文、不思議の国のアリス、緑色の大草原、雲ひとつない青い空、王宮のような屋敷、鮮やかな夕暮れ、豪華絢爛なベッド、窓のない小屋、青紫色の地面、自殺したクラスメイト……。

 目の前の犬をじっと見る。犬はじっと俺を見返す。

 豪奢な玉座、艷(つや)やかで美しい白銀色の流れる髪をした大きな男、明るい緑がかった青色の澄んだ瞳、逞しい身体つきに包まれた時の安心感のある温もり、俺の名前を呼ぶ少し低めの優しく甘い声──。

 何だ、これは。

「お前、シロガネじゃ……」

 そんなはずはない、と思いながらも、鮮明に思い出した記憶は夢ではないと断言できる。だって俺は忘れないと誓った。両親を悲しませることになっても、一緒にいたいと思った相手がいたこと。

 シロガネ。

 日常的に使う言葉ではないはずなのに、自分の声で発音すると、何だか妙にしっくりきた。これは、最愛の人の、名前だ。

『思い出した……か。儂の力も知れたものよの。まぁ犬神の玉座を捨てたのだから、仕方あるまい。むしろ紡の執念の恐ろしさか。ありがたきことではあるが』

 頭の中に直接響くような声には、確かに覚えがあった。いや、覚えどころかもう、これはシロガネでしかない。他にあり得ない。間違えるはずがないし、間違え方すらわからないくらいだ。どうして今まで忘れていたんだろう。どうして忘れていられたんだろう。俺のバカ。絶対忘れないって約束したじゃんか。

「シロガネ!」

 思わず叫んで犬を抱き締めたけれど、幸いにしてまだ母さんは家の中で、父さんも駐車場の方にいるようだ。

『まったく……名を呼ばれるとは思わなんだの。そうなればもう、犬神の玉座による忘却の効果も解けよう。名を呼ぶなど、本来ならあり得ぬはず。紡はあらゆるところで想定外で困る』

「うるせぇよ! っつーか何、犬神サマ辞めたのかよ?! ただの犬になった?!」

 それじゃあ、せっかく一緒にいられるとしても……と、思わず疼きかけた下半身が萎える。身体は正直だ。

『犬神の〈器〉を持つ者が座っておれば良いだけの玉座故、それさえあれば儂でなくても犬神は務まる。しかし、紡の相手は儂しか務まらぬであろう?』

 そうだけど、そうだけど!

「だからって犬神サマ辞めるとか、何考えてんだよ!」

『それなりの者を据えてきたから安心しろ。紡が心配することでもなかろう』

「いや別に、俺はそっちの心配をしてるわけじゃねぇよ」

 悪いけど、犬の世界のことなんか本当にどうでもいい。シロガネが犬神サマじゃなくなって、犬の魂の世界が混乱しようと衰退しようと、はっきり言って知ったこっちゃない。世の中から犬が消えても困らない。シロガネさえ残れば、それ以外は全部どうなろうと構わない。

 俺が一番心配しているのは、現状のシロガネのことだ。

『まぁ良いから落ち着け。自分の真の肉体に戻っても、落ち着かぬ奴め』

 それは俺の本来の性格なんだっての。魂がそうなら、身体に戻っても変わるわけないじゃないか。

『犬神の玉座を一時的に他の者に預けただけだ。儂が長寿なのは知っておろう? どうせこの世では、紡の方が先に死ぬ。普通の犬であれば人間より遥かに早くに死ぬが、儂は〈器〉でまだ玉座と繋がりがある故、この世で命が尽きることはまずない。つまり儂が紡の最期を看取ることができるのだ。それからまた、あちらへ戻れば済むことよ』

 不慮の事故や病気がなければ、一般的な人間の寿命まではまだ相当の時間が俺にはあるはずだ。少なくともあと五十年は生きると思うけど、その間、シロガネが犬の姿で俺のそばにいるってことか? それは、嬉しい。素直に嬉しいけれど、正直複雑でもある。

『安心しろ。儂はいつでも人間の姿になれる』

 俺の心中を見透かしたようにシロガネが言う。ニヤリとした笑みさえ見えそうだった。犬なのに。

「え? でもあの椅子……玉座がないと、姿を変えられないんじゃ……?」

『何を言う。儂は〈器〉持ちだ。玉座などなくとも、姿を変える程度のことならいつでもできるわ』

「じゃああの玉座は?」

『犬神の仕事は魂の循環である故、それを管理しておる。玉座はその能力の補佐に過ぎぬ。あとは紡のようなイレギュラーの魂が迷い込んだ時の記憶の消去など、〈器〉だけでは処理できぬ部分を受け持っておるだけだ』

 そうなのか。玉座に〈器〉を持った誰かがいなければならないのは、そうでなければ補完できないからだったんだ。どちらか片方だけでは、本物の犬神サマにはなれないってことか。

『故に紡、この世でもあちらでの続きができるぞ?』

 犬の表情は変わらないはずなのに、なんとなく目の前の「シロ」と呼ばれている犬が不敵に微笑んだ気がする。口唇の端を上げてニヤリと笑うシロガネの様子が、くっきりと頭の中に思い浮かぶ。

「……っ!!」

 俺が恥ずかしがるとわかっていて言う。なんとも性格の悪い犬を飼ったものだ。

「そ、そういや、何でうちの親はお前を受け入れてるんだ?」

 気にしていない風を装って訊いてみる。それはそれで気になったし。

『多少の記憶の操作など、〈器〉持ちの儂にとっては造作もないわ』

 さすが神様……なのか? でもいくら神様の類とはいえ、やっていいことと悪いことがあるのでは、とは思うんだけど。たかが凡人の家庭に犬が一匹紛れ込んだくらいで、世界を揺るがすような変化が起きるわけでもないということなんだろうか。

 神様ルール的にはどうかと思ったけれど、俺にとっては何の不都合もないのだから、まぁ気にしたところで仕方がない話だと考えることにする。もしもルール違反だったとしても、そこまでしてシロガネが俺のそばにいようとしてくれたんだから。俺の記憶がないままなのを想定して、それでも俺が死ぬまで本当に寄り添っていてくれるつもりだったのだから。それでシロガネが罰を受けるのなら、俺も一緒に受けてやる。犬神サマ以外のすべての神様が敵になっても、俺はシロガネを離さない。一度は離してしまったけれど、二度目はもう絶対にないと決める。だから永遠に、離さない。

 強く決意したところで、ふと気付く。

「なぁ、俺が死ぬまで一緒にいてくれるのはいいけど、俺が死んだらお前はどうなるんだ?」

『あちらへ戻ると言うたであろうが。もちろんその時は、紡の魂も連れてな』

「え?!」

 そんなこと、できるの?! だってもう、俺は人間の世界に戻ってしまっているし、魂もこの身体の中だ。死んだらまた身体から魂は抜け出すのかも知れないけれど、人間の世界で死んだら人間の神様のところに行くから、あの世界にはもう行けないんじゃなかったっけ?

「連れて、行けるのか?」

『紡が長生きすれば良い。その間に、儂が妙案を考え出せば良いではないか』

 ああ、やっぱり現状では無理ってことか。そうだよな。でなきゃ、わざわざ記憶のない俺の家の飼い犬になんかなるわけがない。

 じゃあもし俺が、明日にでも交通事故で死亡、とかになっちゃったら、本当に今度こそ二度とシロガネには会えないということになる。

 うーん、これからはかなり危機管理意識を高く持って生きていかなければ。しっかりと体調管理や運動もして、生活習慣病とかにならないように食事にも気を付けよう。

 ちょっと真面目に考えていたら、シロガネの含み笑いのような声が言った。

『紡は非常に運が強いようである故、そう簡単には死ぬまいよ。せいぜい長生きして、儂を楽しませるが良い』

 目の前の犬が、なんだか生意気に見える。まぁ一応シロガネだしな。誰が見ても普通の──普通より結構キレイな犬だと思うくらいで、まさか犬神サマとは想像もしないだろうし、当然人間に見えるわけもない。なのに俺の目には、底意地の悪そうな笑みを浮かべている人間の姿のシロガネが映った。

 ポンポン、とその犬の頭を叩いてやる。

「ああ、楽しくやっていこうぜ。俺が死ぬまで二度と離さないから、よろしくな」

『ふん、どうせ貴様が死んでからも変わらぬがな』

 あくまでシロガネは、俺の存命中に神様ルールを崩壊させるような名案を考え出すつもりらしい。ならいいや。俺はシロガネを信じる。そうすれば安心して死ねる。死ぬことが不幸ではないと言えるから。まだまだ愛する人との絆は消えないから。

『儂が飽きるまでは面倒を見てやる。せいぜい飽きられぬように振る舞うが良い』

「へえぇ? 飼い犬風情で威張ってんなよ」

『ほう、言うな。それでは後ほど紡の部屋で、どちらが飼われておる立場なのかを教えてやろう。儂の世界では儂が飼われておったが、こちらではそうはさせぬぞ』

 含みのある言い方をされて、俺の体内の血液がブワッと上下に分かれる。脳が沸騰して、股間が膨らむ。何を想像したのかはまぁ、察してくれ。

「ちょっとー、紡ー」

 母さんが玄関から俺を呼ぶ。

「今、電話出れるかしら? 昨日の目の不自由な人に連絡したんだけど、どうしても本人に謝りたいっておっしゃるの」

「おっけー、今行く」

 じゃ、とシロガネ犬の頭を軽く撫でてから自宅に入る。

 謝罪なんて本当にいいのに。むしろこっちが感謝したいくらいだけど、それを言ってしまうとやっぱり頭の再検査を勧められそうだし、相手にも気の毒だから黙っている。あまりにも恐縮しているから、冗談でも言うのは申し訳ないなぁ。俺の方こそ、本当に一言だけでも感謝を伝えたいのに。

 二兎を追う者は一兎をも得ず、なんて言うけれど。一匹の犬に恋に落ちたら、ものすごくたくさんのものを得た俺は、どんなに幸せ者なんだろうな。

 俺の代わりにシロガネは、多分多くのものを失ったのかも知れない。〈器〉にどのくらいの力があるのかは知らないし、俺が長い寿命まで生きて死ぬ頃まで、犬神サマに戻れる権利が残されているのかどうかもわからない。あのシロガネの言葉が全部嘘だとは言わないけれど、俺が死んだ後のシロガネがどうなるかまでは、確信が持てないから。

 だからその分、溢れ返って困るくらいの埋め合わせをしてやりたい。ああそうだ、今度海に連れて行ってやろう。シロガネに見せてやりたい。本物の海を。そして俺が就職して結構稼げるようになったら、海外旅行をして本当にシロガネの瞳と同じ色をした、もっともっと美しい海を見せてやろう。

 犬神サマという立場まで捨てて俺を選んでくれたシロガネがそばにいる限り、俺は結構無敵になれる気がした。

 そこでふと、今盲目の女性と話しながら思い浮かんだことを、電話を切ってから改めて考え直す。

 シロガネは、先代の犬神サマに騙されて玉座に座らされたと聞いた。もしかするとそれって、その先代も今のシロガネと同じことをしたんじゃないだろうか? 相手が人間かどうかはさておき、犬神サマの領域に迷い込んだ犬ではない何かの魂に惹かれて、玉座を離れるには別の〈器〉が必要だったから、シロガネを据えた……?

 もしそうだとしたら、俺は先代の犬神サマを責められないな。それがどんな犬だったのかはわからないけれど、シロガネでなかったなら、とっくに忘れて普通に生きていると思うから。

 俺はまだ、シロガネに恋をしている。恋に落ちるというよりは、まだまだ落ちている真っ最中という感じだ。底は見えないけれど、不安なんてあるわけがない。だってシロガネが一緒だから。むしろ底なんてなくてもいい。シロガネとならどこまでだって落ちていけるし、二千年どころか永遠に落下し続けても、俺にとっては地獄にならないだろう。

 それでももしいつか、底という着地点に着くのだとしたら。

 落ちた先がふかふかのベッドの上なら、本当に最高なんだけどな。


                                〈了〉

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恋愛フリーフォール 桜井直樹 @naoki_sakurai_w

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