第19話

 妙に身体がだるかった。まるで一週間ほど寝込んだのかとでもいうような気怠さ。あと、額と腰に鈍い痛みがある。

 あーそうか、俺、電車とぶつかったんだっけ? 生きてるのか?

 えーと、俺の名前は遠野紡。十七歳で、地元の公立高校の二年生、帰宅部。うん、ちゃんと自分のこともわかってる。オッケーオッケー。多分間違いじゃないと思うし。

 ゆっくりと重い瞼を持ち上げると、そこはやっぱり病院と思われる白い天井が見えて、自宅のベッドからとは違う様子が広がっている。とにかく全体的に、白い。

「……紡?」

 俺が目を覚ましたことに気付いたのか、真上から覗き込んできた母さんと目が合った。

「……母さん」

 目覚めてすぐに声を出したせいか、泣いた後のようにかすれていた。

「紡! お父さん、お父さん、紡が!」

「どうした!? 何か……」

 すぐそばにいたのであろう父さんの声も聞こえて、同じように覗き込まれて目が合う。今日が何曜日の何時なのかはわからないけれど、あのワーカホリックな父さんが病院にいるということは、休日なのか深夜なのか、俺が本当に生死の境を彷徨っていたのか……?

 そう言えば右手が温かい。もしかして母さんがずっと握っていたんだろうか? 悪かったなぁ……まぁ生きてて何よりだ。

 ぼんやりと考えている間に父さんがナースコールのボタンを押し、女性看護師と眼鏡をかけた男性医師が来た。

 看護師さんは俺の血圧や体温を測っている。その間に医師から質問を受ける。

 自分の名前、両親の名前、目覚めるまでに覚えているところまでの状況、その他いくつかの質問に、俺はどうやら完璧に回答できたらしい。

「うん、大丈夫そうだね。無事で何よりだよ」

 眼鏡の若い男性医師は、急に気さくな感じになって言った。本当に大丈夫そうだと確信できたからだろうか。

 どうやら俺が意識不明だった間にさまざまな検査が行われていたらしい。けれど幸いにしてその中のどの検査にも何も引っかからず、脳内の血管が切れて出血してるとか、頭蓋骨が割れてるとかもなかった。病名を付けるなら脳震盪程度らしかったんだけれど、どうしても俺の意識が戻らず、両親だけでなく医師たちも気を揉んでいたらしい。

 俺は額にできたタンコブがじんじん痛くて気になったくらいで、あとは腰が痛いのは横たわっているベッドがやたら固いせいだと思った。よく長期入院してるお年寄りが、寝過ぎて腰が痛いと言うのを聞くけれど、仮にも入院を想定してあるならもっとベッドを快適にするべきだと思うなぁ。

 俺が電車とぶつかる羽目になったのは、盲導犬を連れた人が近くにいたらしく、普段は穏やかでそう簡単には取り乱さないように躾(しつ)けられているはずの盲導犬が、子供にイタズラでもされたのか、急にあらぬ方向に動いたせいで、その人が俺を突き飛ばす形になってしまったのだと言う。当人はとても心配してくれていて、たいそう気の毒だったそうだ。だから母さんは、明日にでも俺が無事だったと連絡を入れるつもりだと言っていた。

 そりゃそうだよなぁ、と他人事のように思う。自分は目が見えなくて不安なのに、急に自分の命綱のようなものである盲導犬が普段しない動きをして体勢を崩して、何かが起こったみたいだけどよくわからなくて、よく聞いてみれば自分のせいで見知らぬ誰かが電車とぶつかったなんて言われたら、その不安や重圧は目が見える俺なんかでは想像もつかないくらい大きなものだろう。別に俺も死んでないから恨み言を言うつもりもないし、その人にはまた安らかな日々を過ごして欲しいと思う。俺のせいで、外出するのが怖くなったりしたら申し訳ないし。

 それに俺の方は、検査結果がオールクリアだったし、ひとまず意識さえ戻れば大丈夫だろうということだった。けれど、どうやらもう時間も遅いらしく、念の為ということで様子見がてら、一晩だけ入院することになった。

 一週間近く意識がなかったような気分でいたけれど、実際には一日と経っていなかったらしい。学校帰りに駅のホームで事故に遭って、そして今は深夜になるところ。

 ひとまず両親は帰宅し、明日の朝迎えに来てくれるという。

「じゃあ紡、明日は早いからゆっくり──どうしたの?」

「え?」

 母さんが驚いた顔で見ている。

「何かあったの? どこか痛い?」

「いや、何で?」

「何でって、こっちがよ。あなたどうして泣いているの?」

「は?」

 思わず目元に手を当てる。濡れている。それも少しじゃない。言われてやっと気付いたくせに、もう視界が歪むくらいに涙が溢れていた。

「あれ? あれ? 何だろ?」

「やぁねぇ、安心して気が緩んだのかしら。そんなのもう、お母さんも泣いちゃうじゃない」

 部屋から出ようとしていた母さんがくるりと戻ってきて、「本当に良かった」と俺を抱き締めた。扉を押さえながら父さんも見ていた。

 だけどごめん。母さん、俺、そういうので泣いてるんじゃないと思う。何だかわけのわからない虚無感があって、何かとてつもなく大切なものを忘れてきてしまった気がして、ものすごく苦しいんだ。頭は全然大丈夫なのに、胸の奥が締め付けられるように痛い。頭だけじゃなくて、全身くまなく検査したって言われたけど、俺、何もなかったんだよね? だったらどうして、こんなに息苦しくて胸が痛いんだろう……。

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