第18話

「あんのかっ?!」

 ガバっと顔を上げて、シロガネの膝下にすがりつく。何でもやる。できそうにないことでも、なんとかしてやってやる。

「ならば紡には選べるか? このまま本当に人間の肉体が朽ち果てて死に、魂として儂の元に留まるか、すべてを忘れて人間の生活に戻るかのどちらかを」

「──!!」

 正直、即答できなかった。ここでがむしゃらに「死ぬ!」と即答すれば、あるいはシロガネは喜んだのだろうか? けれど、きっとそんな勢いだけの条件反射みたいな返答は、心が込もっていないと思う。嘘はつきたくない。だから俺は真剣に考えた。

 本来なら死んだ人間の魂は、当然犬神サマの管理下になど来ないはずなのだけれど、現時点で魂としてここにいる俺はイレギュラー扱いとなり、人間の世界の方の身体に長時間魂が戻らないと本当に死んでしまうため、そのまま俺の魂はここに取り残されることになるらしい。あくまで可能性だが、と念押しされたけれど。

 もしもそうなれば、これまでの記憶を失うこともなく、この先もずっと、もしかしたら永遠に近いくらいの長い時間をシロガネと一緒に過ごせることになる。なんて甘い誘惑だろう。そんなもの、拒めるはずがない。だって、俺はもうとっくに、こんなにもシロガネを必要としている。欲していて、片時も離れたくないとさえ思っている。

 けれどその一方で、冷静に考えている俺がいるのも確かで。

 俺が死ねば、それなりに悲しんでくれる人間はいる。友人も少ない方ではないし、何よりその盲導犬を連れていた人が気の毒だ。

 それでもうちの両親なら、謝罪に訪れた相手を罵るようなことは絶対にしないだろう。むしろ、「うちの子がぼんやりしていたから」などと言って「気にしないでくだい」と笑うのだ。母さんは、そういう人だ。そしてそんな母さんを、父さんが後ろから見守っているんだろう。相手が帰った後に、泣き崩れるのを見越して。いつでも慰めてやれるように。

 子供に先立たれる親ほど不幸なものはないと思う。それが故意だろうと不慮の事故だろうと。しかも俺はたった一人のかけがえのない息子だ。思春期には反抗期もあったし、もちろん今でもちょっとした口喧嘩くらいはするけれど、そんなものはコミュニケーションのひとつであって、全然たいしたことじゃない。俺は家族が大好きだ。

 半分は外国の血が混じってる癖に、妙なところで日本人気質なワーカホリック気味で、だいたいは仕事優先の父さん。

 読書好きで博識で穏やかだけれど、あんまり料理は得意じゃない普通のパート主婦の母さん。

 それが唯一無二で、かけがえのない俺の家族だ。

 祖母は離れて暮らしているけれど、自分を鏡で見るたびに思い出すくらいに近くに感じているし、幼い頃はかなりのおばあちゃんっ子でもあった。祖父の話を俺があまりしないのは、かなり昔に亡くなってしまったから、あまり覚えていないというだけだ。もちろん好きだったし、断片的な記憶はあるから、顔も思い出せる。祖父と表現するにはまだ若い姿だけれど。

 でも、俺が生き返ることを選んでしまうと、シロガネのことは完全に忘れてしまう。祖父の比ではない。ここで一緒に過ごした、シロガネと重ねた短くも濃密な時間が、すべてがなかったことにされてしまう。それなのに、シロガネの記憶の中では俺は消えていないという。そんな不平等があってたまるか。そんなの、辛過ぎるじゃないか。

 もしも俺が生き返ってしまえば、俺がいなくなった世界で、シロガネはまた果てしなく長い、長くて長くて長過ぎるほどの時間を一人で生きていかなければならないんだ。これは俺の思い上がりかも知れないけれど、一度知った愛着を、これ以上ないような快楽を、そう簡単に忘れられるはずがない。あんなにわかり合えたことが、愛し合えたことが、それがどんなに幸せなことなのかを知ってしまった以上、一人に戻る淋しさは俺の想像を遥かに上回るだろう。

 そんなシロガネのことをキレイさっぱり忘れて、何の罪悪感もなく生き返った俺は、それこそ本当に何事もなかったかのように今まで通りにそこそこ楽しく生きていく。

 未来があって、将来があって、恋愛だの友情だので盛り上がり、就職だの結婚だので賑わい、出会いや別れや変化に富んだ、ある意味それだけで十分に幸せな世界で。

 ──そんなのは、ダメだ。

 愛着には責任が伴う──今頃になって、ようやく本当に理解した。でももう遅い。俺の選択がシロガネの人生を決めるのと同義だとわかってしまった以上、どちらもハッキリと選び取ることができない。それでも選ばなければならないなんて、本当に人生は残酷だ。そして、俺はそれすら忘れることができるのだ。そういう選択肢はあるのだから。

「俺、死んでもいい」

 シロガネの目を見据えて、俺はハッキリと宣言した。もう、迷わない。どうせどちらも選べないのなら、どちらも捨ててしまえばいい。俺の命なんてそう高価なものじゃないだろう。

 父さん母さんばあちゃん、ごめん。勝手な言い分だけど、少し早い独り立ちをしたと思ってくれないかな。

「紡。貴様の優しさは命取りになる」

 文字通り、命を奪ってくれても構わない。俺はそんなに多くを求めてるわけじゃないんだ。ただ、好きな相手と一緒にいたいだけ。

「紡が儂を忘れても、儂は紡を忘れぬ。安心しろ」

「だからそれが安心できないんだよ。俺が生き返ればシロガネを忘れるのに、シロガネだけが俺を覚えてるなんて不公平だ! それに、辛いじゃねーか。酷いじゃねーかよ。犬神サマなら、本当は忘れることもできんだろ?!」

「できる。しかし、それはせぬ。儂の大事な思い出として、持ち続けることに異論は挟ませぬ。それがたとえ紡からの願いであっても、譲るわけにはいかぬでの」

「この、頑固者!」

「それは紡も同じではないか。死ぬ、などと軽々しく言いおって」

 軽々しくなんてないのは、シロガネもわかっているはずだ。五日間で何がわかると言われそうだけれど、わかる相手に出会えばわかる。自分の半身なのではないかと思えるような相手に出会えば、絶対にわかるんだ。

「そうだよ! だから俺はちゃんと言ってるじゃんか! 嫌だって、離れたくない忘れたくないって、言ってるじゃんか! なのに何でシロガネは仕方ないって全部受け入れて、一人で背負おうとするんだよ。そりゃ俺なんかじゃ頼りないだろうけどさ。自分だけ辛い思いをしてればいいなんて考えるのは傲慢なんだよ! 辛いとか苦しいとか、ちゃんと言ってくれよ。気遣いと愛情は別物なんだ。本当に好きな相手には、弱いところも情けないところも、全部見せるんだよ!」

「……」

 驚いたように大きく目を見開き、まるで初めて知ったとでもいうように、シロガネは大きな溜め息を吐(つ)いた。

「──情けないものよの」

 その目がスッと細くなる。ギリギリ開いている、というくらいまで。

「儂とて紡と離れとうはない。離れられるはずがなかろう? 儂に愛情を教えてくれて、そして本当に愛してくれた人間から、自ら離れるなど誰がするものか。それでもそこに抗えぬ力が存在する以上、諦めるしかできぬ。儂にはどうすれば良いのかわからぬのだ。辛い、苦しい、などという感情は、これまでに持ったことなどない。しかし今儂が感じておるのがそのような言葉で表せるのであれば、きっと儂は非常に辛くて苦しいのであろう」

「……バカシロガネ」

 あまりに無防備に泣きそうな微笑みを浮かべるものだから、俺は自分が泣かないために、暴言を吐くしかできなかった。

「ふ、そうに違いない。儂は何も知らぬ飾りの犬神での。犬のことさえ知っておれば良いし、魂を浄化して新しい命として生まれさせることができれば良いだけの存在。この玉座に座ってさえおれば、愛情も苦痛も不要なのだ。本来は、そうであったのだ。紡。貴様に飼い慣らされるまでは」

「そりゃあ悪かったよ」

 悪態をつくことで、なんとか平静を保とうとする。俺は本当に不格好だ。

「責めておるのではない。むしろ感謝しておる。多くの者どもから人間の世界や、世話をする人間の話を聞いておったが、紡のような者に飼われておった幸せな者はおらなんだ。儂は人間の世界で飼われたことなどないのに、儂自身が支配しておるはずのこの世界で、誰より幸せに飼われたのだ」

「……褒めてるのか?」

「貶(けな)しておるように聞こえるのか?」

 シロガネは不思議そうに、真剣そのものという表情で訊いてくる。ああもう、だから離れたくないんだよ。こんな危なっかしい犬神サマを置いて、そしてキレイさっぱり忘れて、俺だけが元の世界に戻るなんて。酷い飼い主じゃねーか。

 何か、ここに残していけるものがないか、俺は学生服についているあらゆるポケットを探ったけれど、当然一番最初に確認した通り、何も入っているはずがない。

 俺はそもそも外見からして既に目立つから、わざわざ更にピアスなんかをつけたり、アクセサリーをジャラジャラさせるような悪趣味はない。けれど今は、ピアスのひとつくらいは身につけておけばよかったと心底思った。それなら多分、あの落下の最中に外れることなくまだ耳に残っていただろうし、それをシロガネに預けておくこともできたのに。

 俺がどうしたってシロガネを忘れてしまうということは、たとえここでシロガネの髪なんかをもらったとしても、戻った時に持っているとは思えない。仮に持っていたとしても、「何だコレ?」とか言って捨てるに違いない。いくら愛した相手の髪でも、忘れてしまえばただの他人の気持ち悪い異物なのだから。

「……忘れないから」

「紡」

「絶対に俺は忘れないから。戻った時には忘れていたとしても、死ぬまでには絶対にシロガネを思い出す。シロガネと過ごした時間を思い出して、シロガネを愛してことを思い出して、シロガネを愛したまま死ぬ」

「……」

 無理だ、と言いたいのだろうけれど、シロガネはあえてそれを言わないでいてくれた。

「そうであれば、それほどに嬉しいことはあるまいよ」

「お前を喜ばせてやるから、どうしても俺を忘れないって言うんなら、そこまでちゃんと覚えてて。俺は絶対にシロガネを忘れてないって、信じて覚えてて」

「わかった。儂は紡を信じておる故、その魂が消えるまで、思い出してもらえることを待とう」

「うん。約束する。絶対に」

 覚悟を決めた俺たちは、そのまま抱き合ってキスをした。舌を絡め合って、長く強く抱き締め合った。

 心の中でシロガネを呼び続ける。絶対忘れない。愛してる愛してる愛してる。絶対忘れない。特別に記憶力がいいわけじゃないけれど、その分頭の中にはたくさん記憶できる余白があるはずだ。俺は自分の脳内だけでなく、身体中のどこにでも記憶できるなら、すべてで覚えておくつもりで呪文のように叫び続けた。シロガネ、愛してる。絶対忘れない。

「シロガネ、愛してる」

「儂も愛している、紡。永遠に」

 こんな言葉を忘れたら、俺は本当にバカだ。一生を棒に振ったも同然の愚行に違いない。生まれてすぐからつい先日の学校帰りまでのすべての記憶を失っても、俺は絶対にシロガネを忘れないでいるんだからな。

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