第17話
嘘だろ──と言いたかったけれど、声にならなかった。ただ呆然と、青紫色の不気味な草原にしゃがみこんだまま、俺はシロガネを見上げた。シロガネは気まずそうな顔をしているが、目を逸らしたりはしない。つまり、確信犯だ。
「そんなの聞いてない!」
俺は激高した。初めて本気でシロガネに怒鳴った。心から怒りが湧いた。
「言うておらぬでの」
「何で黙ってたんだよ?!」
目が覚めて小屋から出て、振り返ればそこにシロガネがいる──それが当たり前になったと感じた時に、突然真実を告げられた。
「言い出せなんだのだ。儂とて好きでそうしたいわけではない」
何が真実かと言うと。
魂の状態でここにいる俺は、間もなく人間の世界にある身体に戻るらしい。つまり、本当に〈お別れ〉の時が来たということだ。それは、最初に聞いていたからわかっている。そのためにこの数日、いろいろ考えて悩んで身体を繋げた。心にも刻んだ。なのに。
俺が戻った時には、ここでのすべての記憶が消えている、というのだ。あんなに愛し合ったことも、こんなにも愛していることも、どこまでも愛されていることすら。すべて、忘れる。俺の中では、なかったことにされてしまうという。
これが怒り狂わずにいられようか?
しかも、シロガネは当然最初からそれを知っていた。それでも何故俺を愛してくれたのか、愛し合ってくれたのかというと、それはシロガネの記憶からは消えないからだ。この世界は犬神サマであるシロガネの領域だから、当然自分の世界だ。そこで実際に体験したことや考えたことは、逆になかったことにはできない。
「どうにか、できないのかよっ?!」
無理難題だと思いつつ、俺は感情のままに叫ぶ。
だってだって、俺はずっとシロガネのことを覚えておこうと思っていたのに。だからあんなに毎日抱き合って、愛し合って、言葉を交わし合っていたのに。
それを、全部全部忘れてしまうなんて、あり得ない。そんなら最初から言っておけよ! 忘れるなら最初から覚えなかったのに。好きにならないようにできたかも知れないのに。
しかし、返ってきたのは覇気のない、むしろ申し訳なさそうな声だった。
「できぬ。ここでの記憶を持ち帰られては、紡の今後の人生にも影響を及ぼすであろうし、この世界の存続にも関わる故」
「俺の人生なんか、シロガネが全部だよ! それを強制的に忘れさせられる身にもなれよ! シロガネを覚えておくことで、人生に与える影響なんかたいしたことじゃない。俺の人生にシロガネがいなかったことになる方が、よっぽど困る!」
ひどく自己中心的な言い分だと自分でもわかっている。それでも、俺は怒りをぶつけずにはいられない。
「困らぬように忘れるのだ。これまでにもここに迷い込んだ人間がおったという話はしたであろう? そやつらがこの世界のことを覚えておったら、儂らはどうなっておると思う? 犬は人間の世界で、どのような立場にやられると思う?」
「それは……」
そう言われると返す言葉もない。犬神サマであるシロガネは、当然犬たちを守らなければならないことくらい、俺にだってわかる。自分の勝手なわがままで、それを手放してはいけないことも。
「けど俺は別に、誰にもこの世界でのことを話すつもりはないし、シロガネや他の犬に迷惑を掛けるようなことは」
「わかっておる」
シロガネが、俺の言葉にかぶせるように言って黙らせた。
「紡はそのような愚かなことはせぬと、儂は信じておる。しかし、これは決まっておることなのだ。そもそも人間の魂がこちらの世界に迷い込んで来ること自体が間違っておるのだが、その原因は我々犬にある。ここに来た人間は皆、言葉を話す犬に怯えた。そのままの記憶で人間の世界に戻れば、その者は当然犬を恐れるようになるか、邪魔に思うであろう。故に記憶を消去して元の世界に返す。せめてもの礼儀であり、我々を守るものでもあるのだ」
そしてそのシステムはあの忌々しい玉座がコントロールしているから、シロガネの持つ〈器〉の力だけではどうしようもない、ということか……。
俺は絶望的な気持ちのまま、何も言えなかった。これ以上は何を言っても、シロガネに八つ当たりしているだけになってしまう。別に俺はシロガネを困らせたいわけじゃないんだ。
「儂とて紡と離れたいわけではない。しかしどうにもできぬのだ。儂がいくら犬神とは言え……いや、所詮は犬神でしかない儂に、人間の魂など扱えるものではないのだ。無力なのだよ、わかれ紡」
わかるよ、わかるけど。
神様にさえどうしようもないものが、ただの人間の俺に何ができるというのだろう。ここで駄々をこねてシロガネを困らせても、シロガネに辛い思い出を与えるだけなのに。それなら笑って別れてやりたいけれど。
「冥土の、ではなく、生還の土産に教えてやろう。儂が紡の魂を返すのに五日ほどかかると言うたが、あれは嘘だ」
「……嘘?」
きょとんと見返す俺に、シロガネは自虐的な笑みを返す。
「紡の魂を元の身体に返すためにかかる時間が五日ほどだったのではなく、儂が紡の──犬ではない、人間の魂を、ここに留め置いておけるのが、せいぜい五日ほどでしかないということだ。〈器〉の全力をもってしても、儂はその程度の力しか持たぬということよの。無力ですまぬな」
シロガネが謝る必要なんかないのに。
律儀に頭を下げる犬神サマに、俺は何も返す言葉を見つけられない。
「……だがもしも、ひとつだけここに残れる可能性があるならば、試そうと考えるか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます