第15話

 深夜に目を覚ますことはなく、ベッドから身体を起こしただけで朝が来たとわかった。窓もなく、鳥の鳴き声がするわけでもないのに。

 恐る恐る扉を開けて、逆側を振り返ると、そこにシロガネはいた。いつもと同じように、同じ姿勢で窮屈そうに斜めに座っていた。あの忌々しい玉座に。

「シロガネ?」

「……ああ」

 いつもは向こうから呼びかけてくれるのに、まるで俺が小屋から出たことにも気付いていなかったようだ。少し目を見開いて生返事をする。

 わざわざ「おはよう」は不要かな、と思って、俺はシロガネに歩み寄って、その足元にしゃがんだ。少し空気が重い。昨日の別れ際が悪かったのかな。

「今日は……その、大丈夫?」

 いきなり冗談っぽく和装の裾を広げて確認なんてできそうにない雰囲気だったので、とりあえず訊いてみる。

「いや……ああ、まぁ」

 何だかはっきりしない返事だ。どちらとも判断がつかないし、シロガネ自身がなんだかぼんやりとしている。体調でも悪いのだろうか? いやでも、犬神サマが?

 俺がもっと鈍感でバカだったらよかったんだけど、さすがにこの空気を読めないほどではない。だから余計に冗談を装う勇気が出ない。

「どうかした?」

 わからないなら訊くしかない。人間は、匂いで相手の感情なんて読み取れないから。

「先ほどな」

 ふとシロガネを見上げると、瞼が赤かった。眠らない犬神サマが、睡眠不足で目が充血するはずがないだろう。それなら?

「儂は生まれて初めて涙を流した」

「──?!」

 多分、犬の姿で涙を流すのは難しいと思う。できないことではないのかも知れないけれど、そんなことは犬好きでない俺にはわからない。でも仮にそうだとすると、俺が起きてくるのを人間の姿になって待ちながら、ということになる。

「涙の流し方など儂は知らぬ。しかし、ここにおって紡のことを考えておるうちに、何やら目から塩辛い液体が流れてきた。それが涙と呼ばれるものだとは儂も知っておる。しかし、何故儂が涙を流したのかがわからぬのだ」

「そんな……」

 ただ驚いて、あまり意味のない言葉が出た。

「紡は、こうなることはよくあるのか?」

 そんなキレイな恋愛感情なんか、十七年間生きてきて、一度も持ったことはないと断言できる。誰かのことを思い浮かべるだけで涙が流れるなんて、女子が好きそうなキラキラの少女漫画の中の登場人物くらいだと思っていた。まさかそんな、シロガネが。

「シロガネ……」

 あるともないとも、答えられない。こんな純粋な疑問に答えられるほど、俺はキレイな生き物じゃない。

 人間なんて、裏表があって、さっきまで愛し合っていた相手すら平然と裏切ることさえできて、嘘つきで、自分本位で、他人を踏みにじってでも上に行きたがるような、野蛮で汚れた底辺の存在だ。他人の命を軽々しく扱う、レベルの低い知能しかない。いや、そんなものはもう、知能とは呼べないかも知れない。中谷のイジメをなかったことにしたがるような大人に教育を受けているのだから、あいつが文字通り身体を張って矯正してくれていなければ、俺はまだ無関心で無関係を装った加害者だっただろう。

 シロガネが流した美しい涙とは違う意味の涙が流れそうになる。でも、それはきっと誤解されてしまうから、俺はぐっと堪(こら)えた。それを見せてしまうと、シロガネを穢(けが)してしまうことになりそうで。

「俺は……幸せ者だ」

「? そうか。それは良い」

 赤い目をしたまま、優しくシロガネは微笑んだ。

 嫌いになれたらどんなに楽だろう。何の心残りもなく、この場所を立ち去れたら。何もなかったかのように、人間の世界に戻って平然と生きていけたなら。

 でも無理だ。こんなに深くて愛おしい気持ちを、他の誰かに抱ける自信なんてない。きっと最初で最後だと思う。もしもこのままシロガネと離れてしまったら、もう二度と誰も愛せないかも知れない。妥協して付き合ったとしても、本気で愛せるとは思えない。それなら生涯独身でいい。恋人すらいなくていい。シロガネのことだけを心に想いながら、最期は一人で息絶えるのも悪くないとさえ思える。

 それくらいに、俺は幸せ者だ。これ以上を望んでは、それこそ地獄行きになってもおかしくないほどのバチが当たりそうなほどに。

「もし、シロガネが」

 言いかけて、躊躇する。タラレバの話をしても仕方ないのに、と。

「どうした?」

 中途半端に言葉を切った俺に、シロガネは不思議そうな顔をして続きを促す。ああ、俺はバカだ。

「初めてセックスした相手が俺じゃなかったら、そいつを好きになってたのかな、って」

 途端に、柔和だったシロガネの表情が怒りに変わった。それはもう、怖いくらいの豹変ぶりだ。

「──それは本気で言うておるのか?」

 これでも精一杯自分を抑えている、ということがわかるほど、声にも怒りが満ちていた。威風堂々とした威圧的な見た目に反して、いつも穏やかで柔らかく純粋なシロガネが、本気で怒っている。

「……ごめん。思ってない」

「ならば良い」

 すんなりと、マッチの火を吹き消すかのように簡単に、シロガネはいつもの穏やかさを取り戻す。なんて素直で、厚い信頼を寄せてくれてるんだ。俺じゃなかったら死んでるかも知れないぞ? それくらい無防備で、疑いを知らないシロガネ。それは、相手が俺だからだと自惚(うぬぼ)れてもいいのだろうか?

「それで、紡にはわからぬか? 儂が涙を流した理由が」

 わかる、と思う。けれどそれが本当に正しいかどうかはわからない。自信が持てない。なのにそうだと言ってしまえば、シロガネはまったく疑うことなく納得するんだろう。

 シロガネが、それほど本気で俺のことを愛してるからだよ、なんて言ってしまったら。

「……そういうことも、あるんじゃないかな」

 結局、そうやって逃げるしかできない。シロガネはあまり納得していないようで、人間の身体の不便な現象に戸惑っているようだった。

「そうか。わかった」

 わかってないよ、シロガネ。でもごめん、俺にはそれをうまく説明できないから。逃げてごめん。

「……紡?」

 申し訳なさのあまり、シロガネを見ていられなくて俯いた俺を、覗き込んでくる。やめて、見ないでくれ。俺はとても醜いから。

「何故、泣いておるのだ?」

「え……?」

 驚いて顔を上げると、確かに涙が頬を伝った。視線の先にいるシロガネと目が合う。滲んで見えにくい。

「涙は、感染(うつ)るのか?」

 もちろん冗談で言っているわけではないのだろう。とても心配そうな声で、優しく俺の頭に手を置いた。そのぬくもりに、俺の涙腺があっさりと決壊する。

「ふぇ……」

 ぼろぼろと音が出るんじゃないかというくらいに大粒の涙がどんどん溢れて、目の前にいるはずのシロガネの姿さえ見えなくなる。白銀色のもやのようにそこにいるのに。

「うっ……っ……」

 さすがに大声をあげて泣き喚くわけにもいかず、俺は声を押し殺して嗚咽した。啜り上げながら泣くので、時々大きく肩が上下する。

 頭の上に置かれた温かい手は、まるで壊れ物を扱うかのように優しく、丁寧に撫でてくれた。それが余計に嬉しくて哀しくて、涙が止まらない。俺だって涙の止め方なんかわからない。だって、こんなになるまで泣いたことなんてないんだから。

「愛しいの、紡」

 そんなこと、言わないでくれ。俺は何も言えないのに、片手で撫でるだけで俺を壊すなんて、反則だ。

 もう恥も外聞もない。顔を覆っていた両手を離し、シロガネに飛びついて抱きしめた。そのまま、その広い胸に埋もれてまだ俺は泣き続ける。シロガネも同じように俺を両腕で抱いて、強すぎず弱すぎないような力加減で包んでくれた。

 ダメだ。好きで好きでたまらなくて、愛おしさのあまりに号泣するとか、あり得ない。このままシロガネから引き離されてしまったら、生きていけないんじゃないかと思うくらいに、溺れている。でも、時間は過ぎていく。こうやって、俺が無駄に泣いている間にも、刻々と時間は流れているのだ。

 泣きっぱなしで一日を過ごすなんてまっぴらだ。一秒でも惜しいのに、でもこの広い胸から離れられない。涙も止まらない。どうしたらいいんだよ。

「……て」

「うん?」

 しゃくりあげながらだと、なかなか言葉にできない。そこを何とか伝えようとする。

「……抱いて」

 結局、俺にできるのはそれくらいだった。少しでも多く、シロガネを身体に刻みつけたい。生涯覚えていられるくらいに、俺のすべてをシロガネで満たしたい。

「良いのか?」

「ん……やめないで、ずっと」

 いちいち確認してくれる律儀さは、最初に俺がそう教えたからだ。この世界では犬神サマであるシロガネが一番偉いのだから、誰に罰せられるわけでもないのに。

 片腕で俺を抱いたまま、もう一方の手で器用に和装を解く。ああ、和装は脱ぎやすくていいな。余裕もないくせに、そんなことはしっかりと考えた。

 さっきの曖昧な返事の結果は、見ればすぐにわかった。シロガネだって、やっぱり勃ってたんだ。でもその前に、涙の方が気になってしまったんだろう。

 俺の方はもうとっくに準備万端だったから、何をどうされても快感でしかなく、泣き声とも喘ぎ声ともつかない叫びが漏れる。

 三日目ともなるとシロガネもすっかり上達していて、俺が自分でも知らなかったような部分に快感を芽生えさせたりさえする。そう、そうやって、俺の身体のいたるところに印を付けてくれ。この俺が永遠にシロガネのものだっていう証を刻んでおいてくれ。白銀色に染めてくれ。

「ああっ、シロガネ、もっと、もっとぉ」

「紡、まだ良いのか? もっとしても良いのか?」

「んっ、もっと、して」

 俺の求めに応じて更に激しくなる。それでもまだ足りないとばかりに俺は腰を振ってねだる。自分で擦って快感を高め、何度果てても膨らむ激情を味わった。それでもまだ足りない。もっともっとと身体が求め、心が叫ぶ。

 不眠不休は通常モードで、食事も不要なシロガネは、体力も無尽蔵なのか、衰えを知らないようだった。俺は結構身体がキツかったりもしたけれど、それでもやめたいとは思わない。むしろシロガネがやめないで済む身体で喜ばしいくらいだ。俺の身体なんか壊れたっていい。叫びすぎて喉が乾いたけれど、そんな時はシロガネの唾液をすすり、精液を飲んだ。

 まぁ、さすがに俺の体液は絞り尽くされてしまったようで、出るものも出なくなったけれど、身体はどこを触れられても快感で、勃起もする。失神しないのが不思議なくらいに、俺たちはただひたすらに貪り合い続けた。それしかもう、方法が思い浮かばなかったんだ。

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