第14話

「やーだ」

「わがままを言うな」

「だってー、シロガネが先にわがまま言ったんじゃん」

「先に言い出したのは紡の方ではないか」

 お互いに全裸なので、まったく威厳も貫禄もなかったけれど、二人きりの世界なのだから別に構わない。

「違う、シロガネが先」

「むぅ……もうどちらでも良い。儂が悪いならそれで良いから、とにかく手を離せ」

 俺が何に手を掛けているのかというと、当然ながらあの椅子──玉座だ。

 結局俺の思考は、そこにしか辿り着けなかった。とは言え、これをブチ壊そうと思っているわけではない。ちゃんと考えたからこそ、手を掛けてみたのだ。

 誰が何をわがままだと判断するのかの基準はそれぞれに違うので、本当にどっちが先にわがままを言いだしたのかは定かではない。俺としては、ちょっと自分の方かも、という自覚はあったけれど、シロガネを困らせてでも試したかったから、止められてもやめない。

「離しても時間は止まらない。なら、俺は試す」

「無理だ紡。貴様は本来は人間であり、今は魂の形をしてここにおるだけに過ぎぬ。〈器〉も持たず、犬ですらない紡が、座れるわけがないであろう」

「それはわかってるよ。逆に座れたら困るし。それってシロガネが消えるってことだろ? そんな危険を冒すつもりはないよ」

 つまり今、犬神サマの玉座に座ってやろうと思っている俺を、シロガネが必死に止めているのだ。

 かなり体力を消耗している上に、立ち上がるのもキツイくらいに足腰が疲れている。そうでなければとっくに椅子に飛び乗ってるのに。

 シロガネがものすごい力強さで俺の腕をグイグイ引くし、気持ちは焦っているのに身体がついてこなくて、俺は手を掛けたきりちっとも椅子に座れない。

「離せよシロガネ」

「離さぬ。儂が離さぬと言ったら離さぬ。どうなるかもわからぬ危険に、紡を晒すわけにはいくまい」

 それが純粋に優しさと愛情から来ているのだとはわかる。俺がどうなってしまうかもわからないし、シロガネ自身にも何が起こるか想像もつかない。まだあと二日残っているのだから、ここで危険なことを試す必要がないのも理解の上だ。

「俺は、コイツが、許せないの!」

 まったくもって、本当にただのわがままだった。相手が無機物でなければ殴っていただろうし、せめて靴くらい履いていれば蹴っていたかも知れない。

「シロガネをつなぐ鎖があるなら、切ればいい。シロガネに首輪を着けてもいいのは、俺だけだ」

「紡……」

 少し掴まれた腕の力が緩んだが、それでも俺とシロガネでは体格が違い過ぎるし、シロガネの行かせまいという意志も相当強いらしく、振りほどくことはできなかった。でも、それでもいい。何ならずっと掴んでいてくれればいい。そうすればもしも何か大変なことが起こったとしても、心中みたいな形で一緒に消えられるかも知れないから。どちらかが取り残されるのだけは嫌だから。

「わかった。紡、儂の話をよく聞け」

 ぐい、と更に腕を引かれて向き合う形になる。真剣な目をしたシロガネが、怒ったような困ったような哀しむような顔で俺をじっと見つめた。あまりの美しさに一瞬目が眩(くら)む。

 明るい緑がかった青色の澄んだ瞳に射抜かれては、単純に目が青いだけの俺なんかでは太刀打ちできない。黙ってシロガネの言葉を待つ。このままシロガネの中に吸い込まれればいいのに、なんて現実離れした淡い願望を抱きながら。

「まったく、紡はどうしようもないの」

 俺がおとなしくなったからか、シロガネが少し愚痴った。心底呆れ返ったはずなのに、それでも俺を手放さない。

「理性的かと思えば野蛮で、儂を攻め立てては自分も欲しがる。だいたい紡は優しすぎるのだ。人間などエゴの塊だと聞いておったし、これまでにここに迷い込んできたいくつかの人間もそうだった」

「他の奴と比べんな」

 言葉尻を捕らえるような文句だったけれど、やっぱりそこは気に食わない。

「またそのように強情な部分もある。儂が何度も言うておるだろう。紡を愛している。いや、紡だけしか愛しておらぬ。他の誰も愛することなどできぬ。それは信じられぬか?」

「そんなことない。シロガネのことは信じてる。俺も自信あるし。でも、思い出だけで生きてなんかいけないだろ? 次にいつ会えるのかもわからないんだろ? 俺が普通に死んでたら、ここには来なかったわけなんだし」

 子供じみた言い訳を並べながら、俺は怖いものを避けていた。シロガネの口から出てくる、何か決定的な言葉を止めようとしていた。それが何なのかもわからないのに、無意識に。

「ならば今も自分が非常に危うく無茶なことをしようとした自覚もあるのだろう? 儂と心中でもするつもりか?」

「シロガネがいいなら、俺はそれでもいいと思ってる」

 これじゃあ売り言葉に買い言葉だ。案の定、シロガネに苦言を呈される。

「勢いだけでものを言うでないわ。小さなことならともかく、自分の命が懸かっておるのだぞ」

「……」

 シロガネは、自分の命のことは口にしなかった。もしかするとそれは、犬神サマは死ねないということなのではないかと感じさせられる。俺があの椅子に座るとどうなるかまではわからないけれど、ひとまず現在犬神サマの立場にあるシロガネには、被害は及ばないのかも知れない。何しろ、シロガネの玉座なのだから。

 もちろんこれは俺の勝手な想像だし、シロガネも意識していたかどうかはわからない。単純に、無茶苦茶をする俺をなだめただけかも知れないし、俺がバカだと言いたかっただけかも知れない。

 それでも、一度浮かんだ不安はなかなか消せず、どんどんと広がっていくばかりで。

「……じゃあ、どうしたらいいんだよ」

 欲しいお菓子を買ってもらえなかった子供みたいに、八つ当たりすらできない小さな声で呟く。

「まだ時間はあろう。何故わざわざ急いで離れる必要がある? 先のことを考えて不安になっておっても仕方がない。今を懸命に生きるのが人間ではないのか?」

 これもどこかの駄犬に聞いたのだろうか。もっともらしいことを言っているように聞こえるけれど、実際は問題を先延ばしにする言い訳でしかないのに。この駄犬の飼い主も大バカ野郎に違いない。大切なことを考えるのを先送りにしたばっかりに、取り返しがつかなくなることだってたくさんあるのに。

 でもそれをシロガネに言うのは憚(はばか)られた。悪意がないとわかっているからだ。純粋に俺を大切に思って言ってくれているのがわかるからだ。どこかの駄犬が大バカ野郎の飼い主から聞いただけの言葉を、人間の世界での常識のように捉えてしまうほどに何も知らない犬神サマ。不器用に愛してくれるシロガネ。

「……わかった。とりあえず、今日はやめとく」

 渋々、という顔をして言うと、シロガネはようやく安心したように俺の腕を離した。

 こんなふうに適当なことを言って安心させて、不意打ちで裏切るような行為をするのが人間なのに。今なら俺だって、あの玉座に飛び込めるのに。

 そんな心配などまったくしていないシロガネが、何だか却って可哀想に思えた。あまりにも純粋過ぎて。同族の、しかも神様に嵌(は)められたというのに。それよりもっと狡賢い人間がいないわけがないのに。先代に騙された経験があってもなお俺を疑わない。そして俺もまた、そんな純粋過ぎるシロガネを裏切れない。

「何だよ、もう……」

 悔しさだけが溢れてくる。結局俺にできることなんか何もないのだ。非力で無力な自分が情けなくて、俺は〈愛する痛み〉というものを初めて知った。

 そのまま二人して黙って見つめ合う。日が傾いていくのがわかるくらいに長い間、青紫色の草の上に座り込んで向き合ったまま、お互いに何も言わなかった。

 キスをしても、抱き合っても、このモヤモヤした感情は消えそうになかったから、それを一時的に誤魔化すための手段として使いたくもなかった。

 人間の世界と同じような色だけれど、当然まったく違う夕日が、最初に見た日はキレイな緑色の草原を染めていったけれど、今はグロいだけの青紫色の中に溶けていく。

 あ、と思った時にはもう遅かった。ここの日暮れは瞬間的だったのを思い出す。しかしもう真っ暗になっていて、俺は闇の中にぽつんと取り残された。シロガネの気配はまだ近くにあるけれど、もしかすると犬の姿に戻っているかも知れない。

「夜になっちゃったじゃん」

「そうだな」

 どことなくシロガネの返答はぶっきらぼうだった。夜が嫌いなのだろうか。そう言えばあまり目はよくないというようなことを言っていた気がする。

「戻れ紡。ベッドの上に衣服を置いておく」

 そのへんは、超常現象的な手段か何かで転送しておいてくれるんだろうか? だったら俺も送って欲しいんだけど。

「明日……またそこにいてくれよ」

「当然だ。儂はいつでも紡のそばにおると言ったであろう」

 闇に目が慣れてきたので、俺は自分の足で立ってすぐそこにある小屋に戻る。闇に慣れたはずなのに、シロガネの姿は人間の形でも犬の形でも見えなかった。確かに気配はそこにあるのに。眠らないシロガネは、一晩中何を考えて過ごすのだろう。

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