第7話
〈ソレ〉は突然起こった。
俺のために(?)建ててもらった小屋の周囲だけでも、ただの人間でしかない俺の視力でわかる範囲だけでも、ただごとではないということがわかるくらいに、変化した。
あの緑の草原が、突如として青紫色に変わったのだ。着物とかだったらキレイなのかも知れないけれど、それが足元全面に広がっていて、もともとは緑色をしていたことを知っている俺からすれば、ただただグロテスクな色にしか思えない。草原というよりはどことなくヘドロのような感じがして、もちろんそこに立っている俺にはそれが草だとはわかっているけれど、それでもせいぜい頑張っても漬けた後の紫蘇くらいにしか見えない。
「ちょ、何コレ?!」
思わず小屋に駆け戻った俺に、シロガネの声だけが聞こえてきた。
「驚くことはない。何も害はない」
「じゃあ何なの、この不可思議現象?!」
パニック、とまでは言わないものの、見知らぬ世界でまた新たに奇妙な変化を目撃したとなると、それでも変わらず平静を保てるほどの強靭な心臓を俺は持っていない。しかもこの色が、何となく理由のわからない嫌悪感を誘うようなエグみを醸し出してもいる。簡潔に言えば、不快だ。
「時期が来たのだ」
「時期? 何の?」
「発情期だ」
「はつ……」
そうか、動物は人間みたいに年がら年中発情してるわけじゃないんだよな。ただ、犬だけでなく、その他の動物も含めて、その時期がいつなのかまでは俺は知らない。
「それで何で草の色が変わるわけ?」
発情するのは犬の勝手だけれど、それと草原がエグい色に変化することの関連がわからない。
小屋の中にいてもシロガネの声は聞こえるけれど、さすがに質問しておいて姿を見せないのも申し訳なく思って、害はないとのことでもあるし、ひとまず俺は再度扉を開けてやっぱり「うげぇ」と不快になりながら、それでも仕方なく外に出た。
振り向くと、さっきと同じ場所にシロガネがいる。素っ気ない顔をして、さも興味もなさそうだった。どことなくふてくされているように見えるのは気のせいだろうか?
「気付かぬか? この草の匂いに」
言われて、すん、と嗅(か)いでみた。別に何も変わらないし、何もわからない。かと言って、特別草っぽい匂いがしているわけでもない。これだけの広範囲がすべて草原なのに。
「人間の鼻ではわからぬか。ここは犬が生まれ変わるまでの間を魂で過ごす場所であるが故、繁殖行為は禁じられている。しかし本能はどうにも抑えられぬものらしくてな。故にその時期に合わせて、発情を抑える匂いを発する草原を敷いてあるのだ」
今の俺が魂の状態でここにいるということは聞いたけれど、他の犬たちもそうだったとは驚いた。ということはここは、地獄というよりは、人間的な発想で言えば、転生待ちの犬たちの魂の居場所、みたいなところになるのだろうか。
「うん?」
考えながら、シロガネの言葉に引っかかりを覚えた。確か「本能は抑えられないらしい」とか言ってたけれど、どうしてそんな、風の噂で聞いた、みたいなニュアンスで言うんだろう。
「あのさ、シロガネって……神様って、発情しないワケ?」
単純な興味だった。
ちらっと知っているだけのギリシャ神話なんかでは、神様は結婚もすれば出産もするし、何なら不倫だってしているくらいだ。日本の神様も、ここに祀(まつ)られている神様はどこぞの有名な神様の子で、みたいな看板が神社に掲げられてもいる。
だから普通に、神様だって〈そういうこと〉はするんだなぁとか思ってたんだけど。
「……せぬ」
はっきりとわかるほどに、不機嫌そうな声でシロガネは言った。初めて俺はこの犬神サマの威圧感を見た気がした。同時に、ものすごく脆い部分も垣間見えたようで、自分の考えなしの発言を少し後悔する。
でも、それはとても回避できるような失言ではなかったし、犬に関して無知なのは別に好きじゃないし飼ったこともないから知らなくても責められる言われはない。その上、犬神サマともなると、存在自体がまったく思考の外なのだから、知っているはずがない。
もちろん、シロガネは返答こそ不機嫌ではあったけれど、別に俺を責めるわけでもなければ、怒り狂うわけでもなく、ただ静かにそこに座っているだけだった。あくまで俺が勝手に圧力を感じて、申し訳なさから後悔して、自分に言い訳をしているだけだ。
「えっと……なんかわかんないけど、気分悪くさせたんならごめん」
一人で空回りしているのがいたたまれなくなって、それを鎮(しず)める言い逃れのように俺はシロガネに謝った。一応、俺の無神経な言葉に何かしら感じたからだとは思ったので。
「構わぬ。犬神は発情せぬ故、それがどのような状態なのか知らぬだけだ。紡が謝ることでもあるまい」
神様でも知らないことがあるのか、と俺はただ驚いた。
それじゃあ、シロガネは生まれた時から犬神サマだったのだろうか? そもそも、犬神サマはどこから、何から生まれたんだろう? 概念とかそういうやつ? いやまさかそんな、怪しい新興宗教じゃあるまいし。
でも今はとりあえず、そこまで訊くべきでないことくらいは俺にもわかる。うっかり負わせたかすり傷を許してもらえたからと言って、その傷を深掘りして抉(えぐ)ってもいいことにはならない。
「うん……」
いろいろと問いたい言葉を飲み込んで、とりあえずそれだけ言った。気まずい空気だけが流れる。相変わらず俺の鼻には、まったく何の匂いも感じられなかった。
どんな匂いなのかはわからないけれど、発情を抑える効果があるとなると、あまり好ましい匂いとは想像し難い。むしろ萎えるほどに酷い臭いなのかも知れないし、もしそうならシロガネの不機嫌の原因はそこにもひとつとしてあるのかも知れない。
自分には必要ないのに、他の犬の──魂のために、わざわざエグい色味の草原が撒き散らす不快な臭いを嗅がされる。犬の嗅覚は優れているらしいから、確かに気分のいいものではないだろう。あくまで俺の想像にしか過ぎない仮説だけれども。
俺が感じた不快さは、どちらかと言うと視覚的なもので、あとは多分シロガネが纏(まと)うオーラなのだと思う。不快さが感染したのか。
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