第6話
何故その中谷を今思い出したかというと、もしかしたらあいつもきちんとその名前を呼んでくれるような親しい相手がいなかったのかな、という思いがよぎったからだ。ほとんど名前を呼ばれたことがないという犬神サマの、なんとなく陰のある表情を見てしまったから。
そりゃ中谷は、家に帰ればそこまで自分のために必死になってくれるような両親がいて、クラスではイジメられてはいたけれど、塾だとか何か、他のつながりもあったのではないかとは思う。名前を正しく呼んでくれる相手が、まったくいなかったわけでもないだろう。
けれど目の前にいるこの犬神サマは、多分家族もいなければ、立場上対等な関係になれるような友人がいるはずもないんじゃないか? 中谷と違って大勢の犬には慕われているようだけれど、誰にも名前を呼んでもらえない淋しさは、俺の想像より遥かに大きいのかも知れない。
「……なんて名前?」
同情とかではないけれど、純粋に知りたいと思ったから訊いた。すると犬神サマは少し困った顔をする。
「何故問う?」
知りたいから、では理由が薄っぺらい気がして、俺は少し言葉に詰まった。でもそれは本当だ。
「俺は自分から連絡するつもりのない奴の電話番号まで登録したいタイプじゃないんでね。アドレス帳に書いた名前の多さで自己満足なんかしない。だから呼ぶ気のない名前なら訊かねぇよ」
ちょっと恥ずかしくなったので、あらぬ方向を向いて犬神サマの返事を待つ。
「……それは、儂を固有の名で呼ぶ、ということか?」
「犬神サマ本人が嫌じゃなかったらの話だけどな。だって呼びにくいし」
言い訳のように付け加えてしまったけれど、実際本当に不便なのだ。「犬のくせに」と「神様だしなぁ」という気持ちが入り乱れて、とても話し辛い。もちろん、日本の神様みたいに〈ナントカカントカノミコト〉とかでも呼びにくくて困るけど。
「ふん、面白いことを言うの。まぁせっかく訊ねてくれたのだから答えるのは厭(いと)わぬ。〈シロガネ〉だ」
名は体を表すとはまさにこのことだと思った。神様は生まれた時からもう今のような白銀色の毛が生えていたのだろうか? だからそのまんまの名前なのかな?
「へぇ……キレイな名前じゃん」
思わず正直な感想を述べてしまってから、直後に恥ずかしくなる。俺もしかして、犬神サマのことキレイってばっかり言ってないか? けれど初めて見た時から艷やかな白銀色の毛並み及び髪が印象的だったから、口を閉ざしていられなかった。
「じゃあシロガネ……サマ?」
「呼びにくいのなら敬称は付けずとも構わぬ」
なかなかに寛容な返答だったので、不思議と少し嬉しくなった。
普通は例えばクラス替えなんかで新しく知り合った奴には、まず名前を訊くか、自分から名乗るところから交友関係が始まると思う。そこから部活の話をしたり、住んでる最寄り駅とか、きょうだいいんのーとかいう感じで、徐々に相手のことを知って仲良くなったりするものだ。そのうちあだ名を付けたり、下の名前で呼び合ったりして。
少なくとも俺の場合はそうやって人間関係を築いてきた。見た目がこんなだから、最初は距離を置かれがちなので、自分から歩み寄るしかない。でも、ひとまず日本語が通じる相手だとわかれば、そこはたかだが学生なので、俺の中身を知ってさえくれれば、イジメられるほどには嫌われたりしたことはない。まぁ、勝手に嫉妬する奴はいるけれど、それは俺にはどうしようもないので放置しておく。こっちが相手にしなければ、そのうち相手もおとなしくなるものだ。
もちろんずっとこの調子で生きていけるわけではないのだろう。もっと大人──例えば社会人にでもなれば、また違ったアプローチが必要になったり、いきなり名前を訊ねることが失礼に当たる場合なんかも出てくるのかも知れないけれど。その時はまたその時に学ぶものだ。人間だから。
じゃあ、神様の中ではどうなんだろう。この世界が犬神サマ──シロガネの制する領域、ということは、他に神様はいないということになる。年に一度くらいは集会なんかがあって、そこにいろいろな世界や種族の神様が集まったりするんだろうか? 日本中の神様が十月に出雲に集まるという、あの諸説あるらしいわりにはなんとなくもっともらしい俗説のように。
「じゃあ俺のことも名前で呼んでよ。遠野紡って、名乗らなくてもわかってるんだっけ? とにかく〈人間〉って一括(ひとくく)りにされるのって、なんか嫌なんだよな。まぁ、実際人間だから間違ってないんだけどさ」
中谷の件があったせいか、どの人間も同じだと思われたくないという気持ちが、以前より強くなったということもある。
もともとこんな外見のおかげで距離を置かれやすく、子供の頃はよく〈ガイジン〉とか言われたりもしたけど、俺はクウォーターとは言え国籍は日本だし、日本で生まれ育った生粋の日本人だ。いまだに俺は祖母の故郷であるフランスにさえ行ったことはないのだから、ある意味〈人間〉と全部丸ごと雑多に捉えてくれた方が〈外人〉呼ばわりされるよりはいい気もするけれど。
祖母も両親と一緒に考えてくれたという、生まれた時から金髪で青い目をした赤ん坊につけてくれた、「紡」という漢字で和風で古風でもある名前を、俺は案外気に入っている。
俺が犬神サマを固有名詞で呼んでもいいのなら、俺だって下の名前で呼んで欲しい。
単純にそれくらいの気持ちだったのだけれど、犬神サマ──シロガネはとても重々しい声で返答した。
「名を呼ぶということがどういうことなのか、わかっておるのか?」
一瞬、ぽかんとなった。そして、俺はちょっと笑ってしまう。
「え? 何だよそれ。もしかしてよくある漫画とかみたいに、何かの契約になっちゃう、とかそーゆーやつ? 主従関係的な?」
バカにしているつもりはなかったけれど、相手が神様とはいえ、やっぱり犬なので、そんなことを考えていたりするのかな、なんて思ったんだ。犬は見た相手を、自分より上か下か決めて態度を変えると聞くし。
「人間世界の文化についても多少は聞き及んではおるが、そのようなことが実際に起こりうるものなのか? まぁ良い、わからないのなら教えてやる。名を呼ぶということは、愛着を持つということだ」
「愛着?」
「幼い子供が欲しがっていたぬいぐるみや人形を買い与えられたり、動物を自分のペットとする時に、人間は名を付けるだろう? 中には機械などの無機物にまで名を与える者もおるとか。それはそのものに愛着を持つからだ」
「はぁ」
確かに、俺も昔はミニカーに名前を付けていたクチだ。もちろん、かなり小さな子供の頃の話だけど、カラフルなスポーツカーを戦隊モノのヒーローに重ねて「◯◯レッド、発進!」とかなんか恥ずかしいことをやっていたのを、実はまだ覚えている。今から思えば結構な黒歴史じゃね? 幼児だったとはいえ、他人には知られたくない思い出だ。
「それが?」
言っていることはわかったけれど、それに何か不都合があるのかと思ったので訊いた。
「人間が儂を固有の名で呼び、儂も人間を固有の名で呼ぶと、そこに愛着が生まれる。愛着には必ず責任が伴うものだ。痛みも重みも含めてな」
そんな重い恋愛観みたいな……と思って、俺は少し気が抜けた。
確かにペットを飼うからには、その動物が天寿をまっとうするのを看取る覚悟がなければいけないとは思う。愛着に責任が伴うというのは、そういうことだろうか?
でも別に、普通に友人を名前で呼ぶだけの気軽さっていうのもあるじゃないか。まぁ犬にそんな概念はないのかも知れないけれど。
そもそも名前がないと不便だし、親しさの度合いによって呼び方やあだ名なんかは変わるにしても、ちょっと名前を呼ぶくらいでそこまで重く考える必要もないと思う。
「まぁ、別にいんじゃね? どうせ俺、生還するんだし、それまで仲良くやれたらなって思っただけだからさ」
「……そうか。ならば好きにすれば良い……紡」
その言葉にどんな含みがあったのか、この時の俺にはまだわからなかった。
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