第4話
「ところで人間、貴様は犬は嫌いなのか?」
心底素朴な疑問、という声だった。
犬を嫌いな人間がいないとでも思っているのかと一瞬イラッとしたけれど、あまりにも無防備な声だったので、バカにされているわけではないように思う。それなら正直に答えよう。
「まぁ、特別好きじゃないな」
「そうか。ならば姿を変えよう」
「……は?」
言っている意味を考えているうちに、目の前の大型犬は、その面影を大きく残しつつも、きちんと人間の形になっていた。そして、用意されていた仰々しい玉座に斜めに座っている。長い脚を組んで、柔らかそうな肘置きに片肘を起き、その手の甲に自分の顎を乗せていた。とても気怠げに。
「これでどうだ?」
それはまったく自慢げではなく、意味合いで言うなら「このような感じでいかがでしょうか?」みたいな純粋な問いかけだった。
人の形になったせいか、当然大型犬よりもさらにサイズアップしている。しかし、もともと持っていた印象的なまでに美しい白銀色の毛並みは、髪になって長く腰あたりまで緩いカーブを描きながら流れていて、あの明るい緑がかった青色の澄んだ瞳も健在だった。切れ長で涼し気な目元は俺をまっすぐに捉えていて、答えを待っているようだった。
「……キレイ……です、ね」
多分そういう感想を聞きたかったわけではないのだろうけど、思わず口を突いて出た言葉が、俺の素直な感情だった。白銀色の髪の一部がやや盛り上がっていて、どうやらそれが耳らしい。ケモミミ仕様はどうにもならないのか。まぁその程度なら許容範囲内だし、深い臙脂色の和装めいた衣服の中には、髪と同じような色とボリュームの尾があったりするのだろうと思う。
「それは褒め言葉で良いのか。ふむ、改めて変わった人間よの」
他にも何かに姿を変えれるのかな、なんてどうでもいいことを考えていたので、その言葉もあまり深く考えなかった。そんな俺をまた不思議そうに見て、犬神サマは少し咳払いをする。ああ、人間の姿になったら、ちゃんとその口から声を出すのか。そういえば、さっきまでと聞こえ方が変わっている。ちゃんと犬神サマの方向からだけ声が聞こえていた。
ということは、やっぱり本体なんだろうな。
「では人間よ、貴様がここに来る前のことを覚えているか?」
なるほど、ちゃんと手短に話を進めてくれるらしい。いきなり本題に入られたので、せめてスタートの合図くらいは欲しかったけど、要求したのはこちらなので文句は言えない。
「え? ああ、うん。電車に乗ろうと思ってホームに並んでたら、なんか後ろから押されたみたいな感じがして、多分電車とぶつかった気がする、って認識だけど」
「ふむ、なかなかに性根が座っておるの。その通りだ。しかし、人間が犬神の統(す)べる領域に来たのは、こちら側の責任だからなのだ」
「責任?」
犬とは言え神様が、自分の責任を認めているというのは、なんとも形容し難い気分になる。俺はあまり特別な気持ちで見てはいないけれど、まぁ犬からすれば敬いの対象でもあるのだろうし、あまり謝罪の安売りをするものでもないだろう。だから俺だけを呼んだのかも知れない。
「人間を後ろから押したのは、盲導犬として盲目の人間に使われている者だ」
ながらスマホの女子高生でもお気楽な酔っ払いでもなく、目の不自由な人を誘導する盲導犬が、あの場にいたのか。もちろん、その目の不自由な人と一緒に。気付かなかった。
「直接的に人間を押し出す形になったのは、その者を使っている人間がよろめいたせいなのだが、盲導犬とは人間を導くための道具とされている。健常ではない人間をサポートする役目を負いながら、他の人間を死の淵に追いやることは、もちろん故意ではないにせよ、その者の責任となる。故に人間は、元いた世界においてはおよそ、病床にでもおるのであろう。当然意識がない状態だ。魂がここにいるのだからな」
それはアレか、俺の魂が身体から出てしまったっていうやつか。三途の川の一歩手前、的な?
「もちろん、人間はそこまで深手を負っているわけではない。それに、人間世界での神のもとに行かずにこちらへ迷い込んだということは、儂が人間の魂を預かっているということになる。犬が引き起こした不慮の事故である故、儂が人間を元の世界に戻してやれる、ということだ」
やっぱり命とか魂とか、握られてたのか……なんて、さっき思い浮かんだ冗談半分の想像が本当だったことに少しビビった。
「じゃあ俺、生き返れるわけ?」
「それは人間次第だ」
「どういう意味?」
「儂の示す条件を飲めば良い」
ああ、やっぱり犬に下に見られてる、と思った。まぁ、犬神サマだからここでは偉いんだろうけどさ。別に人間が犬より格上だとか言うつもりでもないけどさ。とは言え、責任を認めておきながら、そんな取引のような提案をされると、動物好きな優しい男子高校生──ではない俺は、普通にイラッとする。
「何だよそれ。俺は別に何も悪いことしてないんだろ? 盲導犬の誘導ミスなんだろ? じゃあ無条件で俺が生き返るのが筋ってもんじゃねぇの?」
食って掛かるつもりはなかったけど、やや語気は荒くなる。そりゃ、ムカつくから。
「まぁ生き返るという保証はしてやる。人間の世界では一日と経たぬうちに返してやろう。しかしそれはここでは五日ほどになる。迷い込んできた不慣れな人間の魂を戻すということは、儂とてそう容易くできぬでの。故に人間はその間、儂を楽しませてみよ」
「楽しませる?」
「何でも良いぞ。儂は人間の世界のことはほとんど知らぬ。せいぜいこの世界に来た者たちに話を聞くくらいだ。大方が人間に飼われておった故、その生態の知識はある。しかし儂は犬神であるが故、人間に飼われたこともなければ、そちらの世界に行ったこともない。興味深いではないか。儂を楽しませるなど、人間本人であれば、造作もなかろう」
簡単に言ってくれるけどさぁ、俺は犬のこと、全然知らないんだよな。犬が何をしたら喜ぶかなんて、わかるわけがない。
「ちょっと聞きたいんだけどさ。犬って人間の言葉わかったりすんの?」
ふと思いついて、まったく関係のない話をこともあろうに犬神サマにぶつけてしまった。後悔はしてないけど、ちょっと自分でも驚いた。
そんな俺の突飛な質問にも、犬神サマは真面目に答えてくれる。確かに、人間には詳しくないのかも知れない。
「わかるはずがなかろう。同じ人間同士でも異なる言語を使うというのに、異種族である犬が理解できると思うのか?」
「いや、俺は全然思ってないけど。いるんだよ、犬が好きな人間の中には、犬は人語を解するって言い張って聞かない奴がさ。それも結構多くね。だから確認してみたかっただけ」
こちらこそ驚きだとばかりに、犬神サマは美しい目を大きく見開く。相当驚いたのかも知れない。
「──もちろん、犬にも目や耳はある故、機嫌の良し悪しくらいは察するだろう。人間の言葉の意味はわからずとも、何度も同じことを言われていれば、それに紐付けられた事柄を理解することも可能だ」
ああ、パブロフの犬ってやつだ、と俺は思った。ただ、さすがに犬神サマに言うには失礼な気がしたので、ひとまず黙っておくことにする。むしろ、それを証明した人類側、すごいじゃん。
「じゃあ、犬と人間が理解し合えることなんてないわけだ」
「決してないとは言わぬが、儂はまだその例を知らぬな」
なるほど、やっぱり犬は人語を解しないのだ。なんとなく俺の考えが正しいのが認められた気がして、特にどうということもないくだらないことなのに、妙に嬉しかった。
「ひとまずは儂の説明は手短に纏めた。何か訊きたいことはあるか?」
俺がここに来てしまったのは何かの手違いで、五日程度我慢すれば、元の世界では一日と経っていない状態で生き返れる、という認識でいいんだよな? あと、人間の世界にいる犬は人語を解しないってこともわかった。
「あ、もう一つ、いい?」
「言うてみよ」
「俺さっき、茶色いオッサンみたいな犬に案内されてたんだけど、あと途中で変なコスプレ女性風の犬も見たし、まぁそっちは別にどうでもいいんだけど、なんであいつらは俺と会話できんの?」
「それはあの者どもが人語を話しているのではなく、人間がこの世界だけで我々と意思疎通ができるように変化しておるからだ。儂らは普段通りであるだけで、突如現れた人間の魂がこの世界に適応したのだろう。魂は柔(やわ)いからな。言語など些末な問題に過ぎぬ」
あ、そうなんだ。じゃあ今の俺は、人間の言葉を使ってないことになるわけか? それはそれでやや複雑な心境にはなるけれど、まぁ英語を話せない日本人が海外に行った時、ひとまず身振り手振りで意思疎通を図ろうとすることから始めるのを、魂が柔軟だって理由だけで意思疎通が楽になるっていうのは、なかなか興味深く便利な話だった。
「おっけ、わかった。じゃあ俺は何か面白い話でも考えてみるわ」
草原の緑色が、少し赤みがかってきたような気がして後ろを振り向くと、ごく普通の夕焼け空が広がっていた。建物が何もないので、地平線という表現が正しいのかはともかく、ずっと果てしなく続いて見える大地の先に、沈み行く夕日が見える。あれが太陽なのかどうかは知らないけれど、どうせ五日で立ち去ると知れば、そこまで興味を奪われるわけでもなかったので、ただ少し黙って観光地で景色を印象付ける気分で眺めた。
緑色だった草原が枯葉色のようになるほどに強い赤色は、やがて完全に沈むと突然闇の中に閉じ込められたように何もなくなった。
「……あれ? 犬神サマ?」
あまりにも突然暗くなったので、俺の視力はまだ暗闇に適応できず、思わず呼んでしまった。
「何か用か人間」
また、どこから発しているのかわからないところから声が聞こえる。
「用っていうかさ、犬はどうだか知らないけど、一応言っておくと、人間は暗闇の中ではほとんど何も見えねーの。つまり今、俺は非常に困っている!」
「なるほど」
感心したような調子のその言葉と同時に、何か蛍のような弱々しい光が俺の足元に飛んできた。本当に蛍なのかどうかはわからない。
「我々は嗅覚で互いを認識する故、あまり視覚に依存せぬ。よって人間のその不便さは理解しかねるが、その程度の灯(あか)りがあれば多少なりともマシにはなるものか?」
小さすぎると言ったなら、何か今度はえらく巨大なものがやってきても困るし、まぁ俺も別に暗所恐怖症というわけではない。ただ、見知らぬ場所で、しかもこんな原っぱのど真ん中で、急に暗闇に放り出されたら、さすがに冷静ではいられなかっただけだ。
「まぁ、だいぶ目が慣れてきたけどさ。でも犬神サマが見えないんだけど、また犬の姿に戻った?」
「うむ。その方が便利なのでな」
まぁ、本来が犬なのだから、そりゃあ元の姿の方がいいのはわかる。俺だって、どうやら今は魂の状態でここにいるらしいけど、火の玉みたいにふわふわした手も足もないような姿になってたら、半端なくパニクってただろうし。
「あのー、俺このままここに放置ってことないよね? せめて寝る場所くらいもらえると助かるんですけどー」
若干の嫌味成分も含めて、俺は主張してみた。犬神サマは穏やかな性質なのか、単純に人間が珍しくて本当に何も知らないだけなのか、どちらにしても俺にとっては幸いなことに、素直にそれは聞き入れてもらえた。
俺の真横に重々しい地響きがしたかと思うと、少し闇に慣れた目に見えたのは、王宮仕様のきらびやかなベッドだった。
うん、親切はわかった。で、犬神サマが人間を知らないのも、すごくすごくわかった。
「えーと、あとここに、壁と屋根があると嬉しいんですけど」
さっきよりは軽い音が何度かして、中にあんな豪華なベッドがあるとは思えないような物置のような外観の粗末な小屋ができていた。
まぁ、犬小屋じゃないだけマシか。犬神サマが飼われた経験がないお方で良かった。お金持ちの一軒家で自由に放し飼いされていて、寝る時も人間と同じベッドで、というような犬だったらいいけど、一般的なペットとして飼われている犬の発想なら、さすがにこうはならないだろう。
「他に何か希望はあるか?」
不思議と空腹感がないのは、本物の肉体ではないからだろうか? たとえ空腹を訴えたところで、ドッグフードとか野生動物の生肉を出されても困るので、あまり多くは求めないことにしよう。どうせ短い仮住まいなんだし。
「いや、十分だよ。ありがとう」
相手が犬でも神様でも、良くしてもらったのだから礼は言う。別にそこには変なプライドはない。むしろ、親切にされて当然だというような驕(おご)りは持ちたくないだけだ。
「犬神サマはどこで寝んの? 明日は俺、どうしたらいい?」
単純に疑問を口にしただけだったのだけれど、返ってきたのはちょっと驚きの言葉だった。
「儂に睡眠は不要だ。更に言えば、食う物もいらぬ。朝も夜も関係なければ、時間の流れも気にならぬでの。それが犬神というもの故」
つまり、不眠不休でも大丈夫、寝食を必要とせず、時間の概念もほぼない、と。
それは神様の特権なのだから、もっと得意そうに自慢すればいいのに、何故かその声はとても淋しそうだったので、促されて小屋の中に入ってベッドに転がったものの、俺はしばらくの間眠れずにいた。
そう言えば明日、結局どうしたらいいんだろう。
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