第3話

「ようこそ、というのは正しくないか?」

 突如として目の前に現れた、まるで宮殿の中か何かのようなフロアの先に、明らかに玉座と思われる豪奢な椅子があった。けれど、声の主はそこにはいない。一心不乱に歩いていたせいか、いつの間にこんな王宮のような場所に入り込んでしまっていたのかも気付かなかった。

 まるで閉じ込められた箱の中で反響する音を聞いているように、その声がどこから発せられているのかがわからなくて、俺は周囲を見渡した。

 歴史の資料集に載っている絵画にあるような、中世ヨーロッパ的な王室を感じさせる雰囲気。実際に自分が行ったことがあるレベルで例えるなら、せいぜい博物館や美術館くらいしか思い付かないので、どうにも曖昧にしか形がわからない。

 すると突然、その宮殿らしき建物が崩れた。

「うわ!」

 さすがに驚いて、俺は走って逃げることもできずに、その場にしゃがみこんで、両手で頭を抱えてなるべく丸くなった。そんなことで、こんな重厚なレベルの建物の下敷きになって身を守れるわけもないのに、とどこか冷静に感じながら、「まぁどうせ地獄だし」という、妙に達観した意識があったというのも否定はしない。

 とにかくしばらく目を瞑(つむ)って、自分の意識がいつ途切れるのかを待っていた。それが多分、俺が本当に死ぬ時なのかなぁ、なんて他人事のように思いながら。

 けれど、俺の意識は一時たりとも飛ばなかったし、身体に痛みが走るようなこともなかった。もちろん、かすり傷ひとつないこともわかった。

 両手はまだ頭を守ったまま、薄く目を開けて狭い視野の範囲を見渡す。建物の残骸どころか、床板一枚すら残っていない。色は、濃淡のある緑。さっきまで歩いていた草原だ。

「?」

 ようやく両手を下げて、立ち上がってみた。夢か幻かというように、さっき見たものはきれいさっぱり消えていた。いやもう、どこからが夢や幻なのかもわからない。むしろ自分の存在が夢じゃないだろうかとさえ思う。

 しかし。

 一つだけ変わらないものが、そこには残っていた。

 例の玉座のような豪奢な椅子。

 そして、さっきまではそこになかったものも。

 まるで雪山に住んでいる狼のような、白銀色で長毛種の大型の──これをターコイズブルーというのだろうか、明るい緑がかった青色の澄んだ瞳をした──美しい犬がいた。

 こんな俺が、犬に対して「美しい」なんていう表現を使うこと自体が不思議だけれど、それ以外に表現のしようのない威風堂々とした雰囲気を醸し出していて、自然と力が抜けた。

「なかなかに興味深い人間だな」

 もう取り囲む宮殿風の建物はないのに、その声は相変わらずどこから発せられているのかわからなくて、もちろん、目の前の大型犬が口をパクパクさせているわけでもなかった。

 でも状況的に見て、この犬が話しているのだとしか考えられない。

 それなら俺は、自分にできる方法で意思表示をするしかないだろう。

「アンタが犬神サマってやつ?」

 もし本当に神様の類なのであれば、それはたいそう非礼に当たるのかも知れないけれど、今のところは見た目が犬なわけなので、なんとなく人間的な本能からか、単に俺が犬好きでないからかは定かでないが、無意味にへりくだる気にはなれなかった。そして、それに対して声音を変えるでもなく、同じ調子の穏やかで落ち着いた、柔らかい声が返ってくる。

「そうだ。こちらから招いたわけではないのだから、やはり『ようこそ』とは違うのかも知れぬな。イレギュラーな人間よ」

 イレギュラー? それは俺がここにいることが、という意味でいいのだろうか?

「これまで何人かの人間が迷い込んで来たが、貴様は見た目が風変わりよの。その黄金色(こがねいろ)の髪は、わざわざ塗りつけた色ではなかろう? 目の色に至っては、その青色はあまりに自然過ぎる。コンタクトレンズ、とかいう擬似的なものではないだろう?」

 は、外見が、ということか。

 そういう意味では、日本国内において、そしてそこで自身を日本人だと称している以上、確かに多くの好奇や嫌悪や驚嘆の目に晒されて、もう慣れている。

 犬神サマの言う通り、この金髪は純粋に自毛だし、青い目も天然だ。ちなみに視力も普通にいい。

 うちは母さんは純血の日本人だけれど、父さんがハーフだ。つまり俺はクウォーターということになる。父さんはやや色白な、洋風の整った顔立ちをしていて、おかげでそれに似た俺もそこそこイケメン風には見られるけれど、チャラそうだと言われることも多い。見た目で判断されるのは心外だが、まぁそう言いたくなる気持ちもわからなくはないので、あまり気にしてもいない。血なのだから仕方がないし、俺は別に両親は好きだし、良い家庭だとも思っているから、他人がどう言おうと構わない。

 俺のこの明らかに日本人離れした髪と目の色は、フランス人である祖母の隔世遺伝のようだった。顔立ちは性別や年齢の違いのせいか、まったく似てもいないけれど、日本人がいくら「自毛で天然の目の色です」と言っても信じてもらえないコレは、完全に祖母と同じである。それでもそこに血縁を感じられるのだから、俺は祖母も好きだし、自分の外見を恥じることもない。

 ちなみに祖母は日本語がペラペラなので、俺は英語もフランス語も、周囲が思っているほどできない。外見で誤解されて一番不便で不快なのは、その一方的な思い込みをされることくらいだ。しかも祖母は日本に来た頃はかなり田舎の方にいたらしいので、妙な訛りがあったりして、日本語であるにも関わらず、俺でも意味のわからないことを言うこともある。そういう時の通訳は父さんになるんだけど。

 あと、強いて言うなら女性からの隔世遺伝であるせいだと俺は思うことにしているが、見た目は完全に日本人には見えないのに、身長が高くないことが不満だったりする。一七一センチあるんだけど、確かに見た目にはそぐわないと自分で鏡を見ながらよく思う。

 日本人が外国人に抱いているイメージは、俺の外見や細身の体型からすると、身長ももう少し高いはずだろう。それでも高二でここまでようやく伸びた方なのだ。この先の伸びしろはもうあまり見込めないと諦めてはいるけれど、他人に身長を訊かれたら絶対に「一七一センチあります」と言うようにしている。「一七〇くらい」ではなく、明らかに一センチは高いと主張したい年頃なのだ。

「俺以外にも、人間が来ることあるんだ? イレギュラーじゃない奴が」

 ちょっとした嫌味のつもりで言ったのだが、犬神サマはまったく気に掛けずに「ほんのわずかだ」と言うだけだった。ちょっと適当にあしらわれたようで腹が立つ。

「まぁいいけど、他人だし。で? 俺を呼んだのってアンタだよね?」

 犬神サマと言われると「神様」感があるけれど、なんだかんだで結局は犬だ。確かに今まで俺が見たことのあるどんな犬よりも美しくて高貴な雰囲気があるのは認めるし、あのオッサン犬が恭(うやうや)しく語ろうとしていたように、とてもすごくて偉い立場にいるんだろう。ここでは。そう、ここでは、だ。

 俺は人間だし、ここに来た人間がほんのわずかであるというなら、やっぱり俺がここにいること自体もイレギュラーなはず。犬の世界に迷い込んだ、運の悪い人間というだけだ。

「そうだ。まずは人間がここに来てしまった経緯(いきさつ)から説明するつもりだが、不要なら控える。どうする?」

 そんなもん、聞くに決まってるじゃねぇかよ。不要なわけねぇわ。駄犬が。

 ……とか言いたいところだが、一応ここがどこだかわからないし、万一俺の生死の権限なんかをこの犬神サマが持っているとかいう話だとヤバいと思ったので、なんとか口に出さずに抑えた。我慢、マジ、大事。

「ふむ。随分冷静な人間よの。これまでに来た者は大抵が『犬がしゃべった!』などと驚いて、ろくに話を聞きもしなかったが」

 まぁ、普通はそうなのかもな。俺が冷静過ぎるんだろうか? 特にそんな意識はないけれど、まぁ穴を落下しながら読書感想文の話を思い出すくらいだから、実はあの本の主人公の少女程度には素っ頓狂な気質なのかも知れない。

 でも一応自分の今後がどうなるかという心配はしているし、今俺がいる世界じゃないところにいるはずの両親のことを考えると、申し訳ない気持ちにもなる。そもそも、俺は好きで穴に飛び込んだわけではないので、やっぱりここに至った経緯は聞いておかなければならない。

「聞くよ。なるべく手短(てみじか)に頼みたいけど」

 さっきのオッサン犬を思い出したので、一応付け加えておく。まさか犬神サマともあろうお方が、冗長でくだらない愚痴をグダグダ言い出すことはないと思うけれど。

「手短になるよう、尽力しよう。しかし端折(はしょ)り過ぎて話が通じぬのも困る。ある程度は付き合え」

 尊大な口調ではあったけれど、不思議と威圧感や不快感を与えないのが不思議だった。眼の前の白銀色の大型犬は、相変わらず静かに佇んでいるだけだし、声の発生源もわからないから、もしかして本体はどこか遠くにいたりするのだろうか? でもそれなら俺がここに来る必要はなく、どこにいても勝手に空からでも話し掛けてくれればいいのに。

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