第2話
思いがけない早さで二千年が経ったのか、さすがに退屈過ぎて俺が寝てしまっていたのか、それともファンタジー的な異世界に迷い込んでしまったのか、とにかく再び気が付いた時、俺は草原のようなところに横たわっていた。結局寝てしまっていたとすると、俺ものんきなものだ。
身体には若干の痛みはあったものの、既に冬服になっている生前(?)のまま、長袖の学生服を着ていたおかげか、わかる範囲では特に怪我などはしていないようで、もちろん頭も砕けたり弾けたりしていなくて、ちゃんと無事だった。だからこうやって現状確認ができているんだけど。
身体が痛いのは、それだけ長い時間同じ体勢でいたということなのだろう。落下中もそうだけれど、もしかしたらこの草原のような場所でも、長い時間が経過しているのかも知れない。とりあえず、主に背中が痛い。あと頭痛。ずっと頭が下だったから、血が上(のぼ)っているのだろうか。けれど現状から見ると、着地は背中からだったのかも知れない。不自然な体勢ではあるけれども。
そう考えた俺は、まぁ別にこのままここにいることに焦りを感じるわけでもないので、ひとまず頭痛が落ち着くまで寝そべっていることにした。
「あれ?」
仰向けに寝たまま空を見上げていた俺は、思わず声を上げてしまった。
──穴が、ない。
俺が落下してきたことは疑いようのない事実のはずなので、普通なら上を見上げれば、たとえ這い上がることは不可能だとしても、自分が落ちてきた穴が見えるものじゃないか? 歩いている途中に振り返れば、そこに足元から続く道が後ろにあるように。
けれど、どこを見渡してもそこに穴のようなものはなくて、ただ俺が見たこともないような澄み渡った青空が広がっているだけだった。
「うん?」
考えてみると、今気付いたこれも、なんだかおかしい。
俺が(多分だけど)事故に遭ったのは帰宅途中だったから、普通ならもう夕暮れ時のはず。もちろん、落下している間にどれだけの時間が経ったのかはわからないから、朝と夕方が食い違っていても、完全にダウトとは言えないけれど。
そもそも、月とか年単位で時間が過ぎている可能性もあるわけで、もしここが万一本当に地獄だとするなら、時間の概念すらもう役に立たないことになる。とは言え、地獄にしてはやけにキレイな空だけどなぁ。
「う〜ん」
そうなると、俺はここでいつまでこうしていればいいんだろう?
少し考えている間に、ひとまず頭痛は治まってきたので、首を左右に動かしてみる。それから固まった身体を、いったん四方八方に引き伸ばすようにしてから、足首を回したり膝を曲げ伸ばししたり、腹筋に力を込めたり大きく深い呼吸を繰り返したりして、普段朝起きる時にやっている軽いストレッチのようなことをして起き上がった。
自分でも思ったけれど、非現実的な状況下にありながらも、普段通りの行動をしてしまう自分に、呆れるべきか讃(たた)えるべきか悩むところだ。
まぁ、ここに寝転んでいたところで誰かからのお迎えがあるわけでもなさそうなので、何か暇潰しになるか、現状を把握できるものがないかを探すことにする。
「あああ、お迎えが遅れて申し訳ございません〜」
今にも一歩進もうとしていたところに、なんだか間の抜けたオッサンのような声が聞こえてきた。気付いて周囲を見渡してみたけれど、俺には何も見えない。
「何だ?」
「下です、下ですよぅ」
下?
わけのわからないまま足元を見ると、何かモサモサの茶色い小型犬がいた。チワワではないのはわかるのだけれど、犬好きなわけでもない俺は、小さい犬はチワワくらいしか名前を知らないので、この犬の種類はわからない。
テディベアのような短い茶色の巻き毛で、耳が垂れている。真っ黒で丸い目は、本当にぬいぐるみみたいだ。一時よく見かけたような気がする。ペットにもブームがあると言うから、それなりに売れた犬種なんだろう。こいつはオッサンみたいだけど。
そう言えばこの犬は、例の不思議の国に迷い込んだ少女が見たウサギのように、服を着ているわけでもなければ、二足歩行でも二足走りでもない。普通に四つん這いで、見かけもちゃんと普通の犬だった。
まぁ、今時動画投稿サイトなんかを見ると、数秒間なら二足歩行ができる犬もいるし、寒くなったこの季節では特に、通学途中に見かける散歩中の犬が服を着せられているのもよく見かける。だから別に、二足歩行でも、衣服着用でも、さほど不思議なことでもない。雨の日の散歩には雨合羽を纏っていたり、ハロウィンコスプレや、サンタ衣装を着ている犬も、最近見たばかりだし。
そうか、そう言えばもうそんな季節なんだなぁ。それとも、「だった」と言うべきなんだろうか?
それはさておき、一点だけ気になるところが、もちろんある。
それは当然ながら、人語で話しかけられたことだ。
一見冷静に対処したように見えるかも知れないけれど、さすがに俺でもしゃべる犬は見たことはないから驚きもする。犬好きではなくても、どこを捜したって人語を話す犬がいるとは思えないし。まぁ、犬が人語を解すると言い張る飼い主は多いけれども、俺はその手の胡散臭い話は信じていない。勝手にやっててくれ、という程度だ。
「ふうぅ、間に合ってよかったですぅ〜」
やたらと語尾を伸ばして話すオッサンのような犬は、人懐っこい雰囲気で俺の足元をウロウロしている。俺は単純に言葉を失っているだけだ。
その間に、茶色い巻き毛のオッサン犬は、酔っぱらいが言い訳するようにわざとらしく、同情を引くように「お迎え」が遅れた理由を並べ立てていた。別にそんなことはどうでも良かったので、適当に聞き流していたけれど、結局要約すれば、このオッサン犬は案内役を担っているだけで、事情は何も知らないということらしい。
なんでも、俺がここに来たのはイレギュラーらしく、そのせいで事態の把握が遅れ、自分に任務が言い渡されたのがついさっきだったのだと、要は上司らしき者(やっぱり犬なんだろうな)に罪をなすりつけている──と俺は判断する。
「まぁいいから、じゃあ俺はこれからどうなんの?」
オッサン犬の窓際中間管理職みたいな言い訳に付き合うのに飽きた俺は、そろそろ急(せ)かしてこの場を離れようと決めた。こののんびりしただるーい感じの声を聞いていたら、犬が人語を話そうがどうしようが、もうどうでも良くなってきたのだ。
「あ、はい。そうですねぇ、では私についてきてもらえますぅ?」
言うなりてってこと俺を先導するように前を歩き出した。案内されている側なので仕方がないとは言え、犬の後をついていくというのもなんだか人間としてのプライドに刺さるものだ。せめてリードでもつけていれば、多少は緩和されたのかも知れないけれど。
小型犬のてってこに合わせるには、別に俺は普通に歩くだけで十分だった。まさか歩くスピードを犬に配慮させているとは思いたくないし、見る限りではこのオッサン犬はそれほど気が利くようには見えない。人間だったとしても、やっぱり中間管理職止まりだろう。ある意味、犬で良かったな、なんて言いたくなる。嫌味半分、本音半分。
「はい、ではここらへんで」
そんなアバウトな言葉で立ち止まった場所には、特にさっきまでと何ら変わったところはなく、俺が最初に横たわっていた草原の延長でしかなかった。
ここまで歩いてくる間にも、案内犬が必要なのがようやくわかったくらいに何もなく、方角も目印もあったものではなかった。まぁ、歩いている感覚と多少の地形の起伏はあったので、あの場所でそのまま単なる足踏みをしていたわけではないはずだとは思う。
するとオッサン犬は再び俺の足元に寄ってきて、まるでものすごく重大な発表をするように声をひそめて言った。
「あのですねぇ、ここから先は貴方様お一人でしか行けない場所になっております。いやもう、私なんか下っ端も下っ端なんで、恐れ多くてもう〜」
「いいから本題の方を続けてくれる?」
これ以上おしゃべり好きらしいオッサン犬に付き合う気はなかったので、俺は脱線しそうな話の腰をスッパリと折り、要件のみを手早く話すように促した。オッサン犬は明らかにがっくりしている。
もしかすると、普段からこんな扱いを受けているのかも知れない。犬社会も大変なんだな。まぁ別に同情はしないけど。
「え〜、ではもう一度。ここから先は、貴方様お一人でしか行けない場所になっております。なにしろ、犬神様のもとに続く道でございますのでねぇ」
「犬神様?」
「ええ!? ご存知ありませんか? まぁ私も実際にお目にかかったことはほとんどないのですが、それはそれはもう……」
「あ、いいから本題」
また話が脱線しそうだったので、オッサン犬に疑問をぶつけるのはやめにした。
要はこの先にいるらしい、犬神サマって奴(犬?)に会えばいいのだろう。神様なら何でも知っているのだろうし、ここでオッサン犬のおしゃべりに付き合うよりはよっぽど実のある話が聞けるに違いない。
「はあぁ……そうですね、それではこの先には非常に困難な誘惑が数多く待っております。どうかお心をしっかりとお持ちになって、貴方様が無事に犬神様のもとに到着できますようお祈り申し上げておりますぅ」
そう言ってここまでの案内役を任せられたオッサン犬は、なんだか少し哀れみを含んだような目で俺を見てから、名残惜しそうに尾を向けて去って行った。
え? ここから先ってそんなに怖いところなの? やっぱり地獄だから? ってか俺一人でしか行けないって何?
続々と疑問は湧いてきたけれど、オッサン犬はこんなにだだっ広くて何もない、進んでいるのか立ち止まっているのかもわからないような場所から、忽然と姿を消していた。
わけがわからない。
まぁ、オッサン犬を引き止めていたところで、やっぱり話が俺の思う方向に進む保証もないし、どちらかというと話が停滞してしまう可能性の方が高いと断言できそうだ。わずかながら同行した旅路(?)で理解したから、それはいいんだけど。
とは言え、そんなビビらせるような言葉で見送られると、さすがに不安は残る。
まぁ、こんな何もない場所で立ち止まっていたところでどうなるわけでもないし、一応〈案内〉されたわけなので、俺が一歩踏み出せば、それはどこかに続く道になるのだろう。
さっきまでずっと変わらないと思っていた草原のような場所に立ち尽くしていた俺が、また落下させられるのだけは避けたいと思いつつ、そっと足を踏み出すと、途端に周囲の景色が色付いた。緑の濃淡と空の色くらいしかなかった視界に、突然飛び込んでくる、赤、黄、青、ピンク、オレンジ、茶、グレー、白……他にもいろいろと混ざったような、言葉では表現しがたいけれど、普段見ている風景に近い、現実味のある色に溢れている。
「ここは……?」
足元に落とし穴がないことを確認してから、俺はゆっくりと歩きだす。ちょっと挙動不審気味に、周囲をキョロキョロと見回していると、途端に何かモフモフしたものが集まってきた。どこから出没したのかは定かでないのは、さっきのオッサン犬と同じだ。
気が付くと、たくさんの女の人が俺を取り囲んでいた。そんな経験なんてしたことのない俺だったけど、まぁこういうのがいわゆる風俗店の呼び込みってやつなのかな? みたいな感じはした。
一人一人をよく見てみると、まだ十代になったばかりくらいの、幼女と呼ぶべきか少女と呼ぶべきかで迷うような子供っぽいのから、まぁ四十代のわりにはイケてる方なんじゃないのって感じの美魔女系まで、幅広い年齢層を集めたようだ。スタイルも、外国の女優のようなグラマラス体型から、程良く細身で弾むような肌の感触が見えそうなモデルタイプ、ぽっちゃり系や貧乳さんなど、まぁ結構なコレクションですこと。
ただ、俺がイマイチどうにも喜ばしく思えないのは、現実味がないというのもあるけれど、頭部にはいろいろな形や色をした耳が、尻の方からも同様に、長短あり太い細いあり、っていう尾が生えているからだ。
要はこれ、犬なんだろ?
いわゆる擬人化ってやつなのかな?
見た目は人間の女性に、フサフサの耳と尾があって、あとは肌色がかなり多めに露出している。一見すると、セクシーな酒池(酒はないけど。未成年だし)肉林のようなハーレム状態と言えるかも知れない。
人間で言えば、本来ならは最低限は下着で隠されているべき部分にだけ犬らしい体毛があって、なんとなくアニマル水着着用のコスプレ女性というようにも見えなくもなかった。
でも、もうハロウィンは過ぎたぞ。寒くないか? でもここはそんな低い気温でもなかった。もちろん、高いわけでもない。
「……非常に困難な誘惑って、コレか……?」
ある意味、困難な地獄ではある。俺は一刻も早く、犬神サマとやらに会いに行かなければならないのだ。
偏見かも知れないが、多分一部のオタク男子とかだったら、「ケモミミ美少女キター!」とか言って喜ぶところなのかも知れないけれど。悪いけど俺は、ケモミミにも美少女にも露出度の高いコスプレにも、萌えないしときめかない。幼女も少女も熟女も美魔女も、どれも俺の興味の範疇外だ。だってどうしたってこいつら犬だぞ? あいにく俺にはそんな性癖はない。
まぁ、ちょっとフサフサ系の耳や尻尾の部分には、確かに多少触ってみたいという好奇心も芽生えたけれど、基本的に犬の体毛が硬いということを俺は知っている。犬を飼ったことはないし、特に動物好きなわけでもないけれど、犬を撫でたことくらいはある。
最初は、小学生の頃の友人の家で飼っていたのを触った。第一印象としては「硬い」で、感想は自分の手が「臭い」だった。
だから今ではもう、ぬいぐるみやフリースのブランケットの方がよっぽどモフモフで気持ちがいいことはわかっている。
なにかしらの天命を受けているかのように、アニマル水着コスプレ女性──の姿をしている犬たちは、俺にウインクしたり擦り寄ってきたり、「あっはん」とか「うっふん」とか言っているようだったが、まるっきり俺の心は揺さぶられなかった。
特別に犬が嫌いなわけじゃないけれど、あえて言うなら好きな方でもない。それなら猫派なのかと訊かれてもそうではないし、要するに俺は単純に、動物が好きではないということだ。
ウサギでもハムスターでも文鳥でもフェレットでもフクロウでも、みんな同じ。
人間と動物を差別するようで悪いけど、それに人間が地球を統べる頂点だと考えているわけでもないけれど、ペットはあくまでペットで、好きな奴が責任を持って飼えばいいと思っている。
動物だけでなく、子供やお年寄りなどに対してもあまり心優しいとは言えない俺は、そういう部分で評価されるのだとしたら、多分地獄に堕とされても文句は言えないのかも知れない。
それにしても「お心をしっかり」どころじゃないわ。むしろ普段より思考がしっかりしてしまうくらいだ。
ひとまずどうやってここを切り抜けるべきかを考えて、俺は周囲をすべてスルーすることに決め込み、ただ真正面だけを向いてまっすぐに歩いた。
多分、仮に俺がどこかで曲がれば、道も曲がるような気はした。どこを歩こうとも、その先には必ず犬神サマとやらがいるのだろう。
俺だってそんなにはバカじゃない。多分、遊ばれているのか、試されているのだとは、すぐに察しがついた。だからこそ、俺はまっすぐに、ただひたすらに前だけを見て歩き続けた。半ば──いや、半分以上は意地だ。
気付くともう、アニマル集団はいない。どこで消えたのかもわからなかったけれど、視界の景色は色があり、変化があり、俺が進んでいるということを示してくれていた。
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