恋愛フリーフォール
桜井直樹
第1話
気が付いたら、暗いトンネルのような穴の中を落下していた。
落下、というには少し速度が緩やかな気はするけれど、小学生の頃に夏休みの宿題だった読書感想文を書くために斜め読みした『不思議の国のアリス』の冒頭のシーンがふと思い出されて、あれはこんな感じだったのかな、なんてフィクションの感覚を当てはめてみたりする。
得体の知れない洋服を着たウサギなんかを追い掛けて(この時点で既に怪しいと思う)、躊躇せずに底の見えない穴に飛び込んだ主人公の少女が繰り広げる、なんだかトンデモな物語だったような気がするけれど、なにぶんきちんと読んだわけではないし、しかももう随分前の話だから、とっくに覚えてもいない。
当時から、読書をするなんていう高尚な趣味は持っていなかったから、読書感想文を書くための本を選ぶことさえ面倒だったけれど、幸いにして俺とは違って読書好き過ぎる母さんが、常にリビングの片隅に読みかけの文庫本を置いているのを思い出した。思った通りに定位置に収まっていた、書店のブックカバーに包まれた薄い文庫本を手に取ってみたら、その時に読んでいたのがたまたまそれだったらしい。
本の厚みもちょうどいい感じだったし、〈著者〉がカタカナで〈翻訳者〉という文字もあったことで、それが海外の本の翻訳版だということはわかったので、まぁなんかカッコつけるにはちょうどいいかな、程度にしか考えずにその場で少しだけ読んでみた。つまりは、自宅のリビングで立ち読み状態。
いくら本を読まないと言っても、さすがにそんな有名な作品ならタイトルだけは知っていたので、難しい本でないこともすぐにわかった。児童書ではなかったけれど、別に全部読むつもりは毛頭なかったので、言い回しがどうだろうと、難しい漢字が出てこようと、別にどうでも良かった。
とは言え、あの読書感想文は、あらすじと冒頭だけ読んで、あとはほとんどパラパラめくって読んだ気持ちになって書いただけだった。宿題だから、一応仕上げないといけないという、中途半端に真面目な気持ちだけで無理やり原稿用紙を埋めた、というだけ。
──だったにもかかわらず、生徒に無断で出された(というか、俺が知らなかっただけで、初めから出されることが前提の宿題だったらしい)コンクールで銀賞をもらってしまった。
思えばあの少女は向こう見ず過ぎるし、好奇心が旺盛なのはいいけれど、失敗を何度重ねても全然学習も成長もしない。
だいたい、勝手に姉妹のもとを離れて、服を着て二足歩行する(っていうか、走ってたんだっけ?)変なウサギを追い掛けて、どこにつながっているのかもわからない穴に飛び込むのだから、帰れなくなったらどうしようとか、急に自分の姿が見当たらなくなって姉妹は心配しないだろうかとか、そういうことは考えられなかったのか?
……とかなんとか、生意気にもそんなことをつらつらと書いて、まったく〈読書〉をした上での〈感想文〉の体(てい)を成してはいなかったはずなのに(実際に読んでいないのだから書けるはずもない)、そんな作文に上から二番目の賞を与えるとは、選考者のセンスを疑う。
まぁ大方、小学生なのに評論じみた自分の独自の視点からの意見を書いた、なんて、いいように誤解されて評価を得たのだろう。
金賞を受賞した作品は、後日配布された、自分の書いたものも掲載されている小冊子のトップにあったので、一応目を通したけれど、それこそまったくもって模範的な〈読書感想文〉だった。
──なんて思い出しながらも、俺はまだ落下中だ。
確かあの物語の中でも、主人公は深い穴の中を落ちていくけれど、周りにはいろいろと興味をそそるようなものがあったような気がする。本棚にオレンジママレードの空瓶があったり、妙な絵が飾ってあったりしたんだっけかな? このへんは一応まだ実際に読んでいた部分だったので、記憶が正しいかどうかはともかく、なんとなく思い出せた。
でも少女は、飼い猫のことを考えながら眠りかけてしまって(このへんだって、まったく危機感がなく、のんきなものだと思った)、ようやく着地したんだったっけ。結局たいした怪我もせず、相変わらずウサギを追い続けていったところくらいで本を置いたと思う。そこまで読めれば、大方主人公の性格がわかったから、原稿用紙を埋めるだけなら十分な情報だと思ったんだろう。
今思えば、作者に対して大変失礼な読者であったことは謝っておきたい気持ちになる。はい、生意気で無知なガキですみません。今では大変な名作だと知ってます。まだちゃんと読んだことはないけど。
それでまぁ、こんなにもいろいろ考えていたりしていてもなお、俺はまだまだ落下中。
今自分が落ちている薄暗い穴(のようなもの?)は、底のない井戸のようでもあり、深い落とし穴のようでもあり、時空の歪みか何かのようでもあった。
まぁ、どれも実際に経験したことはないので、あくまで想像に過ぎないのだけれど。
ってか、時空の歪みって何だよって話だ。俺は中二病か。
あとはそうだ、どこで見たか聞いたか読んだかは覚えていないけれど、地獄の中には二千年間穴の中を落ち続けるという刑もあるらしい。いや、それ自体が刑というのではなくて、地獄に至るまでの前地獄(?)みたいなやつだとか。
もし今の俺がそうなんだとしたら、自分が気付く前にもう既に何百年分かでも過ぎていたらラッキーなのにな、と思った矢先、まずもって自分が地獄に落とされる心当たりがなかったと思い直した。
だいたい、つい先週にクラスメイトが自殺したばかりなのに、そう間を置かずして俺が死んだとなると、なんだか呪われたクラスみたいじゃないか。
俺自身が今現在の状況に至った経緯は知らないけれど、それでも自分自身の感覚で言えば「ついさっき」と思われる時までの記憶はある。
学校帰り、いつもの電車に乗るために、駅のホームで待っていた。目の前で電車を逃してしまったので、先頭に並ぶハメになった。自分の降りる駅では、乗車した側の扉が開くので、できれば最後に乗りたかったのにな、と思っていたんだけれど。
そして快速電車が通過するというアナウンスが聞こえる。
──危険ですから白線の内側までお下がりください。
毎日聞くから、特別意識はしていないけれど、もちろん白線を越えるようなことはしていない。そんなに混雑する駅でもないし、時間帯もそう遅くはない。スマホはきちんとポケットの中で、俺はただ何とはなしに、電車が来る方向を見ていた。
大混雑するようなことはない小さな駅だけれど、一応電車待ちの列ができる時間帯もあるし、まったく人がいないわけではないホームを通過するせいか、快速電車は止まらないながらも、多少の減速はしているふうな様子で走ってくる。電車が通過する時特有の、あのなんだかよくわからない方向から来る風を受けて、一般的な男子高校生にしてはやや長すぎるとも言える俺の髪があらゆる方向に散らばる。
すると、背中に軽い衝撃を感じた。自然と身体が一歩前に押し出される。
同時に、額の辺りに重い衝撃を感じて、すごい勢いで後ろに跳ね飛ばされた。
思うに、多分通過する電車の側面にでも当たったんだろう。マグロにはなっていないはずだし、そうだと願いたい。
俺が背中に感じた衝撃が、歩きスマホで周囲が見えていない女子高生だったのか、早い時間からカップ酒片手に酔っ払っているおめでたい暇人だったのか、人波の中を急ぎ足で駆け抜ける普通のサラリーマンだったのか、それは知らない。とりあえず、俺を恨んで故意に突き落とすような誰かの心当たりはないので、そこまでは想像しなかった。
ただ、その次に気が付いたら、ここだった。
ゆっくりと、落下していた。自由落下では考えられない緩やかな速度ではあるけれど、それでも確実に下に向かって落ちていることはわかる。しかも、きちんと頭を下にして。
となると、もしも着地点があった場合、そこに頭から突っ込むことになるわけで、結構悲惨なことになる可能性が高い。生命(いのち)の保証はなそうだ。
ええっと、俺の名前は、遠野紡(とおのつむぐ)。十七歳で、地元の公立高校の二年生、部活はやってない。
うん、ちゃんと自分の名前もわかるし、この記憶にも間違いはないと思う。
何故か落下している自分を客観的に分析する冷静さもあったし、このまま二千年間落ち続けるのは嫌だなとは思いつつも、着地点があった場合はどうすれば最低限の負傷で済むだろうかと考える余裕さえ持っていた。
まぁ、あの物語の破天荒な主人公の少女よりは大人だと言えるので、それなりに先のことを考えたりくらいはする。
別に走馬灯のように勝手に過去が回想されることもないし、得体の知れないものが壁にあったり、見えたり見えなかったりする不快な何かがこちらに来たり、視線や気配を感じて恐怖することもなかった。
ただただ緩やかに、落下を続けていた。
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