第8話 最低最悪な気分……だけど、復讐なんてするもんじゃない

「むぐっ?! ぐむむむむ……」

 私はそれを見た瞬間、投げ棄てるようにパイを置いて、急いで立ち上がった。

 そして、近くにあった噴水に口に入れたものを全部吐き出した。

「げふっ、ゴホッ、ゴホッゴホッ……」

「あらら、どうしたの? 嬉しすぎて喉を詰まらせちゃったのかしら?」

 ベニーはわざと分かっていないかのように装っていた。

 声で分かる。

 内心は絶対に手を叩いて喜んでいる。

 あぁ、気持ち悪い。

 私は頭の中でまた醜悪な断面図が浮かび上がり、また咳き込んでしまった。

「大丈夫?」

 姉がすぐそばまで寄って、私の背中を擦ってくれた。

「あなた、随分シナーノ王子と親しげね」

 ベニーが周囲から聞こえないように低い声で話しかけた。

 その口調に私の背筋が凍った。

「今後二度と彼に近づかないで。もし、また接触しようとしたら……芋虫だけじゃすまないから」

 吐くのも止めてしまうくらいおぞましい言葉をつらつらと囁いた後、「大丈夫? お水飲む?」と急に声を張り上げた。

「け、けっこうです……」

 私はどうにか立ち上がると、そのまま城の中に向かった。

「またアップルパイ持ってきてね!」

 ベニーが笑顔で手を振っていた。

 姉の変貌ぶりに私は身の毛がよだち、無視して駆け出した。

 途中、メイドとぶつかって食器を落としてしまった。

 激しく割れる音が耳の中に入ってくる。

「あ、あなた、どこを見て……ちょっと待ちなさい!」

 メイドが私を捕まえようとしたが、私は振り切って走った。

 もちろん馬車には乗らず、無我夢中で走った。

――二度と彼に近づかないで

 私の頭の中でベニーの言葉が脳裏を過ぎった。

 あの夜、誰かの視線を感じたのは間違いじゃなかった。

 あれはベニーだったんだ。

 私とシナーノ王子が親しげに踊っているのを見て嫉妬したのだろう。

 アップルパイが食べたいなんて嘘だったんだ。

 王子が来るのも嘘。

 私を連れ出すための餌――私はそれにまんまとハマってしまった。

 悔しい。

 なんて愚かだったんだ。

 悔しい。悔しい。悔しい……そう頭の中で唱えながら走っていると我が家に着いた。

 私はすぐにドアを開けて、斧を取り出した。

 狙いはもちろん林檎の木だ。

「うわぁああああ!!!」

 私は頭の中にベニーの顔を浮かべながら斧を振った。

 ドスッと突き刺さる。

「ふざけるな! ふざけるな! このっ! このっ! このっ!」

 私は何度も斧を振って、振って、振った。

 すると、私の叫び声に小鳥達がすぐに反応した。

「やめなよ! 林檎の木が可愛そうだよ!」

「うるさい! 黙って!」

 私はもうどこに怒りをぶつけたらいいから分からなかった。

 行き場のない感情が斧を通して、木へと向かっていく。

 すると、林檎の木から樹液が出てきた。

 いや、ただの樹液じゃなかった。

 血だ。

 血みたいに真っ赤な樹液が流れていた。

 私は斧を振るのを止めた。

「……泣いているの?」

 私がポツリと呟くと、林檎の木の葉が風で揺れた。

 そうだよ――と言っているみたいだった。

 私の手から斧が落ちる。

 ゆっくり木に近づき、抱きしめた。

「ごめんね……ごめんね……許して……許して……」

 私は樹液で衣服が濡れていても構わなかった。

 ドレスが赤色に染まっても、木の傷が癒える事はない。

 私は取り返しのつかない事をしてしまったんだ。

「どうしたんだ?!」

 小鳥が異常事態を伝えたのだろう、アップルちゃんがやってきた。

 私は涙で歪んだ目で彼を見た。

「アップルちゃん……林檎……林檎の木が……」

 熊は私の方に近づき、事態を把握すると「ひとまず木から離れて。家でゆっくり休みなさい」と私の肩に触れた。

「でも……この木は?」

「心配しなくていい。この木は強い。きっとまた元気になって実が成ると思うよ」

 アップルちゃんは優しくモフモフの手で私を優しく家に戻してくれた。

 

 私は椅子に座るのに精一杯だった。

 意識がフラフラしていて、油断したら倒れてしまいそうだった。

 私の状態を察しているのだろう、アップルちゃんは私に温かい紅茶を淹れてくれた。

「さぁ、これを飲んで心を落ち着かせなさい」

 私はか細い声で「いただきます」と言うと、フーフーして冷ましてから口に入れた。

「……美味しい」

 茶葉の香りも良いし、蜂蜜の甘さが口の中で広がる。

 冷めきってズタボロになった心が癒やされていく。

「アップルちゃん……ありがとう」

 自然と私の瞳から一筋の涙が流れた。

 熊は「いつもワシにパイをくれているほんのお礼さ」と照れた顔をして頬をかいた。

「さて、お茶会で何があったのかな? もちろん、答えられる範囲だけでいい」

 アップルちゃんにそう聞かれた私は一瞬あの悪夢みたいな出来事がフラッシュバックされた。

 出来れば思い出したくなかったが、このタイミングで話さないと一生悶々とした日々を過ごす事になると思い、ありのままに起きた事を話した。

「それは……辛い思いをしたね」

 アップルちゃんは悲しそうな顔をして私の頭を撫でた。

「私はこれからどうすればいいんですか……今、私の心の中は姉への憎しみでいっぱいです」

「そうなるのは当然だ。だけど、復讐はいけないよ」

「……どうしてですか?」

 私は熊の顔を見た。

 アップルちゃんはクリンとした目で真っ直ぐ私の方を見ていた。

「確かに君のお姉さんは酷い事をした。しかし、そうだからといって苦しませる必要はない。ああいう奴は後々酷い思いをするんだ」

「じゃあ、このまま一方的にやられろって事ですか?」

「そういう事を言っている訳じゃない。無視すればいいんだ。

 パイの中に虫を入れたのは恐らく君の苦しんでいる姿を楽しみたいというサディスティックな欲求があったからだろう。

 だからこそ、どれだけ彼女から手紙が来ても無視だ。破り捨てなさい。

 王子様からだったら、よく内容を読んでね。もしかしたら成りすましの可能性もあるから……」

 アップルちゃんの話に私は納得した。

 彼の言う通り、無視すればいいじゃない。 

 そしたらイジメられなくてすむ……そう思った時、またドアをノックする音が聞こえた。

「はい」

 私は駆け足でドアに向かい、少しだけ開けてみた。

 お茶会の時にいた雰囲気の違う女性が立っていた。


つづく。

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