第41.1話 六日目。昼。生物室(前編)

「ねえどうしよう……私……人、殺しちゃったかも……」


 りくはひまりの告白を聞いた。

 けれど、彼にはその言葉の意味するところが今一つ理解できず……




 今、生物室はなにかが変だった。


 暗い。一言で言えばそれ。

 さっきまで全開だったはずのカーテンが、なぜかそのすべてが閉められていて、電気もすべて消されているのだ。

 そんな中、飼育用水槽に備え付けられたLEDライトの青白い光だけが、この教室に薄気味悪い陰影をつけている。


 ブゥーン……ポコポコポコ……


 水槽から聞こえてくるモーターとバブルの音。漂う人工海水の匂い。


 生物室特有の現実味のない現実がここにはあった。




「と、とりあえず一旦落ち着きましょう」


 陸は言った。


 誰が誰をどうしたって? そんなバカなことあるわけがない。

 大体、殺したって言うんなら死体はどこ?

 朱音あかねの姿が見えないってことは、彼女は逃げてしまったということ。

 たぶん、ひまりは朱音にいている神霊にやられて、そう思い込まされているだけなのだ。


「センパイ、そんな心配しなくても大丈夫す。シュオンは逃げただけすから」


 陸は彼女を刺激しないよう、ゆっくりと彼女の元へと向かった。


 咲久の時と同じような失敗はしない。いざとなればひまりが行動を起こす前に取り押さえる覚悟もある。


「そんなはずないわ! だって私、この手で確かに……」


 ひまりは震えていた。

 血の気の引いたその顔は、実は彼女の方こそ殺されたんじゃないかと思えるほどに真っ青だ。


「センパイはシュオンに憑いてるやつにそう思い込まされてるだけす。そうやって相手をハメてわらうとか、いかにもシュオンのやりそうなことじゃないすか? ね? センパイ、だから気をしっかり持って!」


「でも……」


 ひまりは迷っていた。


 でもこの感じなら、あともう一押し。今、陸の手元にお守りはないけれど、それでも彼女ならきっと立ち直ってくれるはず。


(いかん! 待つのじゃ陸よ! その娘は――!)


 突然、奇稲田くしなだが警告を発した。


「なに言ってるんすか? 娘って、ここにいるのはひまセンパイだけすよ? またビンタされるんなら考えるけど、今はシュオンにやられちゃって混乱してるみたいだし、まずは正気に戻さないと――」


「陸!」


 奇稲田との会話を遮ったのはひまりだった。


「セ、センパイ!?」


 動揺した陸。なんとひまりが自分の胸に飛び込んできたのだ。


「ごめんね。ごめんね……私、どうしていいか分からなくなっちゃって」


「え? え??」


 陸は混乱した。


 今までは、自分にはアタリが強いこともあって意識する必要もなかったのけれど、実はひまり、かなりの美少女だ。


 しかもこうしてくっつかれてみると背もやや小柄。


 だからこういう形になると、彼女から香ってくるふわっと甘い匂いが鼻をくすぐって、なんとも言えないモヤモヤっとした気持ちに……


「セ、センパイ……あの、い、一旦……離れて……」


「なんでそんなこと言うの? 私、怖いの我慢して一人でずっと頑張ってたのよ?」


「そ、それは悪かったすけど……」


 これは非常によろしくない。陸は冷静ではいられなくなってきていた。


 自分にはすでに心に決めた咲久ひとがいる。なのに、なんなんだこの気持ちは!?


(なにをしておる! 早くその娘から離れよ! そやつは――)


「セ、センパイ……お願いすから離れて……オレ、もう……」


「……見ぃつけた」


 耐える陸の胸の中で、ひまりが笑った。


 ◇ ◇ ◇


「わっ!?」


 突然突き飛ばされた陸は、成す術もなく尻もちをついていた。


「どうもうまくいかないと思ったら、やっぱり」


 けれど陸のことなどそんなことは気にも留めないひまり。彼女は、手にしたなにかを眺めている。


「え? あれ?」


 ひまりの様子に気付いた陸は、ポケットを探った。


 ない。てことは、やっぱりひまりが持っているあれは、奇稲田の鏡・・・・・


 でもなんでセンパイが――?


「人が知らないと思って、ずいぶん好き勝手してくれてたのね。貴方のことだから、チートとかそういうつもりじゃなかったんでしょうけど、でも、ねえ?」


 ひまりは、陸に微笑みかけた。けど、その目だけはそうではなくて……




 パキッ―― 




「な、なにしてるんすかセンパイっ!?」


 奇稲田の鏡から聞こえてきた危険な音に、陸は慌てた。


「ふふ、まあ見てなさい」


 けれどひまりはそんな陸を制止すると、また鏡に集中する。




 ズズズ……




 それは鏡が変質してゆく音だった。

 かつてヒーヒー言いながら磨き込んだ鏡面が、見る見るうちに黒ずんでゆく。


 いや。異変はそれだけに留まらない。

 急激な変化に耐えられなくなった鏡が、パラパラと崩れ始めて……


「――分かったかしら? チートにはペナルティを。じゃないと、ゲームが成立しなくなるじゃない?」


 ひまりがそう言った時、奇稲田の御霊みたまを宿した御神鏡ごしんきょうは、床を汚すだけの塵と化していた。


「……アンタ、ひまセンパイじゃないな?」


「なにを言ってるのかしら陸? どこからどう見ても、私は貴方のひまセンパイその人じゃない」


「でもセンパイ、オレのこと名前で呼んでくれたことないんだよなあ」


 あれはひまりじゃない。そのことが分かってしまった陸は苦々しく笑った。


 今まで、ひまりが自分のことを呼んでくれたことなんて、一度だってなかったのだ。それはたぶん嫌われてるから。

 なのに、このタイミングで「陸」呼びしてきた上に、抱き着いてくる?

 この状況でそんな胡散臭いことを、あのひまりがするわけがない。


「あらそうなの。それは知らなかったわ。残念」


 けれどひまりは陸の指摘にも、ただ肩をすくめるだけだった。

 そして彼女、陸に向かって一歩を踏み出す。


「う……」


 気圧された陸は、後退あとずさった。


 ひまりが一歩詰めると、陸が一歩下がる。

 陸が一歩下がると、ひまりが一歩詰める。


 そうやって、陸は教室の端へと追い詰められて行く。


「ねえ、どうして逃げるの? 私、陸と仲良したいだけなのよ?」


「そのセリフ、本当に本物のひまセンパイが言ってるんなら大歓迎なんすけどね」


「ひまりは私。私がひまり。ふふふ……貴方、おかしなこと言うのね」


 そうして気が付けば、陸にはもう後がなくなっていた。

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