#36
おそらく
一服盛っているかと問われて素直に認める馬鹿なんているはずがない。となれば、俺に出来る手段は一つしかない。
俺は手渡されたカップの中身を、書斎の窓を開け放って全て捨ててやった。
「じゃじゃーん! ほーら、ゆうせーっ、ブドウ取ってきたぞっ!」
「うん、ありがとう。あ、この美逢ちゃんが用意してくれた漢方薬、先に飲ませてもらったよ……」
中身が空になったカップを指し示す。全て飲んだと思わせるためだ。
取り越し苦労であるならばその方が良い。むしろ、杞憂に終わってくれることこそを俺は望んでいた。
俺から空になったカップを受け取って改めて腰を下ろした美逢ちゃんに、学校での様子を訊ねてみる。なるべく、とりとめのない話題を選びながら時間を稼ぐことにする。
女子校出身の美逢ちゃんは、あいかわらず男子とは馴染もうとせずに距離を取っているようだったが、同じクラスの女子たちとはそれなりに親しくなっているようだった。
俺と向かい合ってペタンと座り込んだ美逢ちゃんは、昨日までと同じツヤツヤした素材のフリルがたくさん付いたパジャマだった。
幸せそうに頬を緩ませてブドウを口に含む姿は、森の奥深くで羽根を休める妖精のように見えた。
美逢ちゃんは会話の合間に自分のカップに口を付けていたが、自分のものには薬など仕込んでいないに決まっている。
「ふあぁ……」
三十分ほど経った頃合いを見計らって、俺は目を擦りながらあくびをして見せた。
当然ながら演技だ。
我ながらわざとらしいとしか思えず、逆に怪しまれてしまわないか内心ひやひやしていたが、
「うん? ゆうせー、眠いのか? それじゃあ、そろそろ寝るとするか」
仮に睡眠薬が仕込まれていたとして、それが三十分程度で効果が出てくるものなのかまるで知識がなかったが、ひとまず美逢ちゃんに疑っている様子はなかった。
むしろ、眠そうにしている俺の姿を待ってましたとばかりに喜んでいるようにさえ感じた。
「よしっ、じゃあ消すぞ」
美逢ちゃんに背を向ける格好で布団に横になった俺に、やたら張り切ってそう宣言するなり明かりが消された。
あとはぐっすり眠りに落ちたふりをして、美逢ちゃんに何らかの動きがあるかを探るだけだ。美逢ちゃんが先に眠ってくれるのならば、俺の疑心が解消されて終わりだ。
言うまでもないが、まるで眠くなどない。
時間的にもまだ早いし、今朝だってぐっすり寝過ごしているのだ。睡眠は足りすぎている。
そんなどうでもいいことを考えているのは緊張を少しでも和らげるためだ。
俺は演技が得意だとはまるで思わない。それでも明かりが落とされ暗くなった部屋の中で、規則的な寝息を立てている演技を試みる。
なるべく関係ないことを考え、意識しないように心掛けていないと緊張感が滲み出して、狸寝入りがバレてしまいそうで恐ろしかった。
どれくらいそうしていただろうか、暗がりの中で寝たふりを続けていると背後から衣擦れの音が響き、やがて俺の肩をそっと触れてくる感触が伝わってきた。
「……ゆうせー?」
美逢ちゃんのか細い声が耳元で囁かれ、ごくわずかに肩を揺らされる。
まさか夜闇が怖くて一人でトイレに行けず、付いて来てもらうために起こそうとしているわけではないだろう。いくらなんでもそれはさすがにあり得ない。
なるべく全身の力を抜いて寝たふりを続けていると、
「……ふむ、眠ったか。さてと――」
俺の肩を揺する手を止め、美逢ちゃんが背後でごそごそと何かをしている物音が響いてきた。
薄く目を開けると、やがてパッと背後の壁が明るくなったことがわかった。
光源が右に左にとせわしなく動き、どうやら背後の本棚を物色していることが物音だけで伝わってくる。
直接見て確認することは出来ないが、おそらく事前に用意しておいた小型のハンディライト的なもので手元を照らしながら、何かを探しているのだ。
「やはり、ないか。まあ、もしこんなところにあったら二人が昨日までに見つけ出しているだろうしな……」
思案しているのだろう、ぼそぼそと美逢ちゃんの独り言が夜闇の中でやけにくっきりと響いて聞こえる。
すると背後の光源が消え、続いてカチャリと書斎のドアが開かれた。
ぺたぺたと足音が遠ざかっていき、どうやら美逢ちゃんは部屋を出ていったようだった。
念のためもうしばらく寝たふりを続け、意を決して寝返りをうつ演技をしながら身体の向きを変えると、やはり美逢ちゃんの姿はなかった。
書斎のドアはほんのわずかに開いたままになっている。
暗がりに目が慣れてきて本棚を注視してみるが、特に物色された形跡は残っていない。
何かを探していたのは確かなのだが、きっと美逢ちゃんが呟いていた通りなのだろう。
一昨日は華詩子さんが、そして昨日は梓さんが、俺に睡眠薬を盛って眠らせている隙に散々調べ回った後なのだろう。
にもかかわらず、華詩子さんも梓さんもいまだにこの家にいる。
それはつまり、目的のものがいまだに見つかっていない証拠だ。
親父が手に入れたらしい、三組織の抗争に発展しかねない重大な情報。
どんな形状なのかわからないその情報を、まだ誰も見つけ出せていないということだ。
そんな推理を組み立てつつ俺はふいに冷静になり、ずっと燻っていた疑問に辿り着いた。
――やはり情報を手に入れることが目的であり、許嫁だなんて俺に近付くための口実に過ぎないのではないか。
最初から薄々おかしいと思っていたのだ、この御時世に許嫁だなんて。
親父が誘拐事件を解決したことは事実だと魚住さんが言っていた。となるとヤクザの親分たちが恩義を感じていたのはあり得るのかもしれない。
しかしだからといって、その娘である彼女たちが、親が勝手に決めた許嫁を受け入れたりするだろうか。
俺は引く手数多なイケメンでもなければ、恋愛慣れするほどの経験もありはしない。
あるわけないじゃないか。彼女たちがやって来るまでは、他人に語って聞かせるような特別なことなんてない、至って平凡極まりない日常を送っていたのだ。
両親が亡くなって孤独の身の上ではあるが、強いて特別だと言うのであればそれだけだ。
紛れもない事実なのだが、そこまで考えて言いようのない憤りのようなものが首をもたげてきた。
しかし、それでは男が廃るのではないか。
薬まで盛られた挙げ句、いいように利用されているだけだ。女性慣れしていない俺の男心を都合良く弄ばれているだけじゃないか。
となれば、彼女たちの嘘をこの目で見抜こうとして何が悪いというのか。
俺は掛け布団を蹴り上げて上体を起こす。
それはわずかながらに決意の表れであり、覚悟を決める景気付けでもあった。
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