#25
後ろ手でドアを閉じた
「おまたせー。……えへへー、なんだか緊張しちゃうねー」
しばらくしてから戻ってきた梓さんは、書斎に入ってドアを閉じるなりしおらしい素振りでそんなことを呟く。
ずっとサバサバした調子だった梓さんが、不意に照れた様子で苦笑いを浮かべ指先で頬を掻く。
それなのに
「あ、これ、ホットミルク。作ってきたんだー。一緒に飲も?」
「ああ、ありがとう……」
マグカップを手渡そうと前傾姿勢になると、タンクトップの胸元からくっきりと谷間が顔を覗かせる。
つい先ほど、寝るときはしない派だと耳にしてしまったせいで、ゆるい隙間という隙間からチラリと覗く脇だったりお腹だったりがとにかく気になってしまう。
どこに視線を落ち着ければいいのか散々彷徨わせた挙げ句、どこを見ても刺激的すぎる梓さんから受け取ったホットミルクに視線を落として一気に飲み干す。
ほんわかとした甘さが口の中に広がりその瞬間だけはホッと息をつけたのだが、こんな温めた牛乳ごときで落ち着いて眠れるとは到底思えない。
「んー、眠くなるまでどーしよっかー? あ、耳かきでもしてあげよっか?」
俺から空になったマグカップを受け取って、名案を思い付いたみたいに胸の前で両手を合わせてみせる。
唖然としている俺に構う様子もなく、いそいそと膝を揃えて座り直し、張りのある健康的な剥き出しの太腿をポンポンと叩いてみせる。
「ほいっ、どーぞ。あ、綿棒ってあるー?」
「い、いやっ、待ってくれ、耳かきは、大丈夫だから……っ」
まるで物怖じしない態度を前に完全に気後れしてしまい、しきりにポンポン叩いて示してくるせいで、今度はすべすべで艶やかな梓さんの太腿から目が離せなくなる。
「そおー? まあ、いつでもしてあげるから言ってねー」
「あ、ああ、わかった……」
あんな肉感的な太腿に頭など乗せられるはずがない。
なにしろ触れると吸い付きそうなみずみずしい剥き出しの生肌なのだ。大袈裟ではなく頭が爆発してしまうだろう。
「んー、じゃあ、どうしよっかー? あっ、子守唄でも歌おっか? ハグ付きで――」
「よしもう寝ようっ!」
「そうー? それじゃ、ちょっと早いけど寝よっかー」
耳かきから逃れた先でハグされてしまうのでは堪ったものではない。両腕を広げておいでおいでしてくる梓さんから首ごと捻って視線を逸らして申告する。
昨日の
華詩子さんはまだ接し方に慎みがあったが、梓さんに至っては距離感もおかしければスキンシップも危ういのだ。
昨夜はそれでも眠りに落ちたのだが、今夜に限ってはどんなに布団が別々とはいえとてもではないが眠れる気がしない。
梓さんが明かりを落とし、布団に潜り込み背を向けて硬く目を瞑っていると、
「……悠誠ってさ、お父さんが亡くなってからはずっと一人だったんでしょ?」
「え、ああ、うん」
「あたしも、お父さん、病気でさ。けど、あたしの家は、いわゆるアレじゃん?」
「……うん」
いわゆるアレと明言を避けるということは、梓さんも実家がヤクザであることを気にしているのだろうか。
「だから、人間だけは大勢いたから寂しいってことはなかったんだ。あたしがたくさん作った料理もガツガツ掻き込む人たちばっかりだったしさー」
つい先日までの話をしているはずなのに、まるで遠い昔の思い出を語るように梓さんが口調に笑みを含ませる。
なるほど、だからご飯をがっつく姿を見るのが好きだったのか。
それなのに、不意に意味合いを持たせるみたいな間を置いて、背中を向けた隣の布団から衣擦れの音が響く。
暗がりの中、梓さんが身体の向きをこちらに変えたのだろうと察しを付ける。
「悠誠は、この家にずっと一人でさ、……寂しくなかった?」
梓さんの声が先ほどまでより近付いているのが、やわらかい呼気から伝わってくる。
次いで、俺の背中にそっと手が添えられた。
過敏になった神経を和らげるような、小さな子供を寝かしつけるような優しいぬくもりがじんわりと広がる。
「――あたしが、あたしだったら、悠誠を寂しくさせないよ?」
「…………」
その差し伸べられた優しさに、どう返答するのが正しいのかがわからない。
気疲れはやたらと多かったものの夕食時に感じた楽しさに加え、たったいま背中に添えられた手のひらから伝わってくるぬくもり。
きっと、たったそれだけのことで俺は張り詰めていた緊張が解かれ、安心してしまったのだろう。
心が安らいでしまったのだろう。
「おやすみ、悠誠」
梓さんの囁きが耳元で心地良く響いたと感じたときには、俺はすでにまどろみの中に沈んでいた。やがて、為す術もなく落下していくような眠りへと誘われた。
翌朝重いまぶたを持ち上げて目覚めると、隣に梓さんの姿はなかった。
華詩子さんに比べるとほんの少しだけ雑に畳まれた布団を眺め、醒めきらない頭にしぶとくこびり付くような頭痛を感じて顔をしかめる。
時計の針を確認し、今朝もまた寝過ごしていることに気が付き、もはや慌てることさえなく大きく溜息を吐いてしまう。
あれほど眠れる気がしないなんてガチガチに緊張していたはずなのに、蓋を開けてみれば二日も続けて寝過ごしてしまうとはよっぽど気が緩んでいるのだろうか。
それとも梓さんからの囁きでよほど安心してしまったのか。はたまた三人との生きた心地のしない生活のせいで、自分が思っている以上に疲れ果てていたのだろうか。
布団の中で身動ぎしながら、一向に治まらない頭痛が引いてくれるのを待つしかなかった。
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