#18
極度の緊張と浮世離れしすぎた出来事の連続で、自分で思っていた以上に疲れていたのだろう。
耳元で響いていた気がする
翌朝目が覚めた時には、あの状況下でぐうすか眠りこけていた自分に驚いてしまう始末だった。
すでに隣の布団は綺麗に畳まれていて華詩子さんの姿はなかった。
いつになく眠りすぎたせいか、うっすらとこびり付くように側頭部が痛む。
普段から感じている頭痛とは少し違う感覚だった。しかし、いつまでもぼんやりしている場合ではない。寝過ごしたといって差し支えない時間なのだ。
パンッと両頬を張って気持ちを切り替える。よし、ひとまず顔を洗って朝食の準備に取り掛からないと。
「あン、おはよー
書斎を出て洗面所に向かう廊下の途中、茶の間の襖が開いて
「うおっ、……お、おはよう」
梓さんは昨日のパジャマ代わりに着ていたタンクトップとショートパンツ姿のまま、上からエプロンを身に着けていた。
もともと生地面積が心許ない格好だったせいで、ほんの一瞬だが裸エプロンのように錯覚してしまい辛うじて挨拶を返すのがやっとだった。
そんな淫らな発想に至ってしまう原因は、梓さんのエプロンの胸元から無防備な谷間が覗いているせいだ。
もちろん見なければいいだけの話だが、警戒心の欠片も感じさせない距離感が近すぎるせいで、どうしても柔らかそうな膨らみが視界に入り込んでしまうのだ。
つまりこれは不可抗力なのだ。俺の意図するところではない。
「すぐ朝ご飯出来るから先に顔洗ってきてねー」
「え、ご飯……?」
「うん、ご飯。うひひっ、悠誠ってば寝癖ひどいよー」
そんな俺の視線にまるで頓着することもなく、白い歯を覗かせて笑顔を返す梓さんが俺の頭に手を伸ばす。
不意に近付けられた顔にドキリとして硬直しながら、されるがままに頭を撫でられる。
「ここ。ほら、ここー。ぴょこってなってるから直してねー」
顔の目前まで近付かれ、化粧品なのだろうかほんのりと甘酸っぱさを感じさせる香りが鼻腔に届いた。ふわりと温かみを感じる、好きな匂いだった。
「あ、ありがとう……」
「ううん、どういたしましてー」
最後にぽんぽんと頭を撫でて、梓さんはくるりと身を翻して台所へと戻っていった。
スキップするような足取りの後ろ姿は、腰の後ろでエプロンをリボン結びにしているおかげでお尻が強調されて見えた。
無頓着すぎやしないだろうか。ありとあらゆる部分がじつに女性らしい梓さんの、扇情的なくせに無防備な振る舞いに当てられて邪念がむくむくと増してしまう。
俺は邪念を振り払うように頭を振ってパンパンッと頬を張り、足早に洗面所に向かって溺れるくらいの勢いでがしがし顔を洗った。
「あ、おはようございます悠誠様」
寝癖直しを兼ねて滝行の如く頭から水を被って顔を洗い、少し襖の開いていた茶の間を覗き込むと、膝立ちで座卓を磨いていた華詩子さんがはにかみながら挨拶してきた。
「ああ……、おはよう……」
それが普段着なのだろうか、昨夜の寝間着から白いブラウスに落ち着いた空色の膝下丈スカートに着替えていた。
何度か目にしたワンピース姿もそうだったが、華詩子さんはとにかく着こなしが清楚だった。留めるべきボタンはきちんと留め、着崩すということを一切しない。
梓さんとは対照的に極力肌を晒さないのも特徴だった。そのせいで、膝下丈スカートの中に隠しナイフが仕込まれているのだろうかと勘繰りたくなってしまう。
「昨夜はよくお休みでしたね。お目覚めはいかがですか?」
「うん。思ったよりぐっすり眠ってたみたいだ。なんか、ほったらかしてごめん……」
「お疲れのようでしたから、気になさらないでください」
あらぬ想像を膨らませて華詩子さんの下半身に不躾な視線を送っていた俺は、慌てて頭を掻きながら取り繕う。
「……まさか、お疲れになるようなこと、したんじゃないでしょうねー?」
「うわっ!?」
いつからそこにいたのだろうか、背後からいきなり梓さんに声をかけられて飛び上がりそうになってしまう。振り返ると露骨なほど訝しげな半眼で俺を見据えている。
「い、いやっ、なにもないっ! 本当にすぐ寝たから!」
梓さんの指摘したお疲れになるようなことが、どんな意味合いを含んでいるのかがわからないほど察しが悪いつもりはない。
両手を挙げて否定しながら、改めて昨夜の出来事を思い返すが本当にすぐに眠ってしまったのだ。夢さえ見ないほど熟睡していたのだから、俺主導で何かがあったなんてことは考えられない。
「ふーん……。ま、ひとまず信じるよ。ほら、朝ご飯出来上がったよー」
いまいち釈然としていない表情だったが、気を取り直した梓さんが高らかに声を上げて両手のお皿を掲げて見せた。綺麗に焼き目の付いたハムエッグが湯気を上げている。
「ごめんっ。うっかり寝過ごして朝ご飯作るの遅くなって。……これは梓さんが?」
昨夜、華詩子さんとの添い寝が始まる直前までは、四人分の朝食をどうするかぼんやり考えていたのだ。それなのに普段からは考えられないほど熟睡して寝過ごしてしまった。
親父が亡くなる前、今の一人暮らし生活が始まる前から、俺の朝の支度はほとんどルーティン化していた。
男の朝の支度なんて高が知れているのでルーティンと呼ぶのもおこがましいが、定期考査直前に夜更かしして勉強したりしない限り、普段は目覚まし時計も必要なく決まった時間になると目が覚めていた。
なので今朝、目覚めた時の自分に対する驚きは、隣に華詩子さんがいたにもかかわらず眠りこけたこと以外に、うっかり寝過ごしてしまったことも含めて二重の驚きだったのだ。
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