#9


 こんなに寝覚めの悪い日曜の朝は初めてだった。


 いきなり許嫁が三人も現れるという、にわかには信じがたい出来事のせいだ。


 夢の中で得体の知れない三体の化け物に追い詰められたところで目が覚めた。

 全身びっしょり汗をかいていて、ちっとも疲れは取れずまともに眠れた気分ではなかった。

 

 そんな悪夢にうなされてしまったのは、いきなり現れた三人の許嫁がこれから俺の家に押し掛けてくると聞かされていたからだろう。

 どうして目覚めてしまったのか、どんなに悪夢であろうとも夢であるならば夢のままであって欲しかった。

 それで何が解決するわけでもないのだが、昨日の出来事が丸ごと全部夢であってくれと願うことくらいしか出来ることがなかった。


 ただ、うちにやって来るとは聞いたものの具体的にいつやって来るのかがわからないため、ひとまず部屋の片付けをしながら事あるごとに時間を確認して過ごした。


 そして気が付けば、無駄な緊張感を抱えつつも普段通りの日曜を過ごして晩ご飯を終えていた。


 ……なんだ、誰もやって来ないじゃないか。


 食器を洗いながら、やはり昨日の出来事は丸ごと全部、夢か幻だったのではと大きな溜息を零した。

 なんてことはないタチの悪いイタズラだったのかもしれない。

 かなり手は込んでいたが最近は動画配信サイトで再生数を稼ぐために、一般人にドッキリをしかける配信者なんて輩がいるらしい。

 俺の気が付かないどこかの陰から笑いを堪えて撮影に及んでいたに違いない。


 やれやれすっかり騙されてしまった。

 しかし騙されはしたものの実害といえば、やって来るはずのない人を待ち構えて念入りに部屋を片付けた時間を取られてしまったくらいだ。良かった良かった。


 ――しかし、俺のそんな現実逃避じみた想像はあえなく打ち砕かれた。


 ブーッと、玄関から来客を告げるブザーが鳴り響いたのだ。

 さながら地獄から轟く亡者の呻きが如く地を這うような、低く重い響きだった


 洗いかけの食器を取り落としそうなほど驚き、気が抜けかけていた頭が一気に冴え渡った。

 だからといって取るべき対処など何もないまま玄関の引き戸をそろりと開ける。


 するとそこには、昨日初めて会った時とは違うが、やはりお嬢様然とした清楚なワンピース姿の白鳥しらとり華詩子かしこさんが立っていた。


悠誠ゆうせい様、お約束通りに参上いたしました。荷物をまとめるのに手間取ってしまい遅くなって申し訳ありません」


 約束というよりは一方的に押し掛けてきているのだが、深々と丁寧なお辞儀までされてしまいこちらが恐縮してしまう。


 その肩越しに表を見遣ると、昨日のリムジンとは違うが陽の落ちた中でもしっとりと濡れたように輝いて見える黒塗りの高級車が横付けされ、黒スーツの男がせっせとスーツケースを下ろしている真っ最中だった。

 

「あ、えっと、とりあえず上がって……」

「はい」

 にっこり微笑み、三和土できちんと靴を揃えて廊下をしずしずと歩く姿は正真正銘のお嬢様に見えた。

 そのすぐ後ろに黒スーツの男が続いているせいで不穏な雰囲気が付きまとっているが。


 ひとまず客間に案内すると、慣れた様子で黒スーツの男にスーツケースを置かせ、

「ご苦労様です。他に必要なものがあればわたくしから連絡します。もう良いですよ」

 笑顔でそれだけ伝えると黒スーツの男は「失礼します」と頭を下げて帰って行ってしまった。

 本当に帰っていったのだ、昨日初めて会ったばかりのお嬢様を残して。


「えっ、と、白鳥さん――」

「華詩子と呼んで下さい。許嫁なのですし、これから一緒に生活するのですから」


 どう接したものかと戸惑って声をかけると、ぽっと頬を朱に染めて返される。

 俺の勘違いでもなんでもなく、やはり一緒に生活する気でやって来ているみたいだ。


「えっと、じゃあ、華詩子さん」

「……ふふっ」

 照れながら言われたとおりに名を呼ぶと、華詩子さんは長い睫毛を震わせるように瞬きを数回繰り返し、やがてくすぐったそうに口元を押さえて微笑みを浮かべた。


「あっ、やっぱり、いきなり名前呼びは馴れ馴れしいよな……」

「いいえ、わたくしのことを名前で呼んでくださったのはお父様以外では悠誠様が初めてだったもので、つい。……ふふっ」

「そう、なのか?」

「はい。……どうしても家業が家業ですので、わたくしは常に人間関係において一定の距離を取られ続けて来ました。皆さん敬意――、ではないですね。わたくしの身の上を知った方は総じて畏怖を抱かれてしまい、それ以上わたくしに近付き慣れ親しもうとする人はいませんでした」

「でも、華詩子さんは華詩子さんじゃないか。家業で態度変えるのはおかしいだろ?」


 家業とわざわざ濁した言い方をしたが、要するに実家がヤクザなのだ。

 ヤクザの娘だと後から知ってしまった場合、距離を取って縁を切られてしまうなんてことがあるのか。

 わからなくはないが、それは誠実ではない気がする。


「………………悠誠様は、わたくしのことを家柄で決め付けたりしないのですか?」

「しない。もちろん家がヤクザって聞くと怖そうだとは思うけど、それだけだ。華詩子さん自身がヤクザってわけじゃないんだから」

「……はい、もちろん。あの、悠誠様。少しよろしいですか?」

「うん? えっ――」


 華詩子さんは控え目に一度視線を落とし思案顔で口元に指を添えながら、ずいっと俺に身体を寄せてくる。

 目の前に立ったかと思うと、躊躇いもなく俺の首筋辺りに顔を寄せる。


 なにをされるのかわけがわからず首筋に噛み付かれるのかと思った。

 もはや華詩子さんが実は吸血鬼だと言われたとしても、それほど疑問に思わないくらいの境地だ。


 しかし当たり前だが噛み付かれるようなこともなく、華詩子さんはなにやら小さくすんすんと呼吸しているだけだ。首筋にわずかにかかる息がくすぐったい。


「……悠誠様、本心みたいですね。安心しました」

 やがて満足したのか、華詩子さんは一歩下がって距離を取ると満足そうに微笑む。


「えっ、な、なにが……?」

「わたくし、嘘を吐いている人は匂いでわかるんです」

「……匂い? え、嘘の匂い?」

「ふふっ、冗談ですよ? とにかく家業とは切り離して、わたくし個人として接していただけると、……嬉しいです」

 どこからどこまでを本気で言ったのか、くつくつと冗談めかした笑みを零して顔を赤らめる。


 まさか匂いでわかるだなんてことはあり得ないだろうが、もちろん嘘なんて言ってはいない。

 昨日初めて会った時に先にヤクザの娘だと知ったアドバンテージはあるだろうが、仮にそうでなかったとしても華詩子さんの家業を理由に、華詩子さん本人に対する態度を変えるつもりなんてない。




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