#5
いったい何が起こったのかまるで理解が追い付かないまま、陽も暮れて薄暗くなり始めた路地をふらふらと覚束ない足取りで自宅へと曲がる。
リムジンから解放されたことで気が抜けてぼんやりしていたせいなのだろう、すぐ背後に人の気配を感じた時には、もうすでに遅かった。
不意に後ろから腕を掴まれ、驚きのあまり「――あっ」と声が出てしまうより早く、肘関節を捻じり上げられ口を塞がれた。
「うぅ……っ!?」
「声を出すな、大人しく従えば危害は加えない」
耳元で諭すようにささやかれた言葉は、口調に比べてまるで穏やかではなかった。
さっきの黒スーツの人だろうか。
たったいま組長たちとリムジンで走り去ったはずなのに、何か伝え忘れたことでもあるのか。
それにしても、先ほどと違いずいぶんと強引な拘束だった。
悲鳴を上げる肘関節の痛みに耐えながら、首を捻って腕を掴んでいる男の姿を横目で捉えると、予想していた黒スーツの男ではなかった。
申し訳程度のジャケットを羽織ってはいるものの、色も違えばスーツ姿でもない。
若干ラフな出で立ちではあったものの明らかに一般人ではない雰囲気を醸し出している。いわゆるヤクザの構成員の典型みたいな格好だった。
黒スーツの男ではないまったくの別人だったが、認識したくない共通点が目に付き嫌でも切迫感が高まってしまう。
「まっすぐ歩け。騒ぐなよ」
口を塞がれているため小さく頷いて見せると、そっと口元を解放された。しかし関節は極められたままゆっくりと背中を押される。
自宅の前を通り過ぎて反対の通りへ向かって歩かされると、白いワンボックスタイプの大きなワゴン車が停車している側で腕を引かれ立ち止まった。
「
スライドドアの窓に口元を近付けたジャケットの男が、少しだけ開いたウインドウに囁く。
あねさんと口にした響きには、血の繋がった姉弟を例える、姉を意味するものには聞こえない。
当然だろう、普通はねえさんと呼ぶのだから。
「乗せな」
女性ながらに深みのある重い返事が響き、ジャケットの男が丁寧に両手でスライドドアを開いて俺に乗り込むよう顎をしゃくって促してきた。
ほんの少し前にも同じような状況を経験していたせいで、緊張はしながらも素直に従ってステップに足をかけて乗り込んだ。
すると少し暗い車内の中程のシートに一人の女の子が脚を組んで座っていた。
少しサイズの大きいパーカーを纏い、ぴったりとした素材のショートパンツから健康的な素足がにょっきり伸びている。
目深に被ったキャップのせいで表情ははっきりとわからなかったが、間違いなく美少女であることは雰囲気で伝わってくる。
肩に掛かるくらいのショートカットは明るい栗色で、少しだけ毛先がくるりと癖付いて揺れており、そんな癖っ毛を気にしているのか毛先を指にくるくると巻き付けて弄んでいた。
「……あ、あの――」
「うん?」
思わず声をかけてしまった。
車内の暗さに目が慣れてきたからか、ぱっと明かりを灯すような高い声で快活そうな笑顔を返され、自分から声をかけたのに言葉に詰まってしまう。
「ほぉら、そがぁなとこで固まっとらんで奥に入りんさい」
脚を組んだまま俺を見つめ返してくる健康的な美少女に視線を奪われていると、車内のさらに奥のシートから、先ほどの深みのある落ち着いた声音が響いてきた。
そこには着物に身を包んだ鋭い視線の女性、年の頃ははっきりとはしないものの、お手本のような極道の妻という出で立ちと雰囲気を醸す女性が座っていた。
「うちの若いのが乱暴せんかった? いきなりごめんね、
きっちり髪をまとめ上げて凜とシートに腰掛ける女性は、独特なイントネーションの方言を使っていた。
おそらく広島弁だ。以前、広島が舞台の映画で聞いた記憶がある。
「自己紹介せんとね。ウチは
口元にだけ笑みを浮かべるその言葉に、訛りとは別の違和感を覚えてしまう。
なぜなら、以前にどこかで聞いたような話だったからだ。
いや、以前だなんて漠然とした話ではない。ほんの少し前にヤクザの組長から切り出された話と同じだった。
先ほどの見るからに構成員なジャケットの男、聞き間違えではない
疑いようも間違えようもなく、この女性はヤクザの、いわゆる極道の妻だった。
「……親父の、お世話に、ですか?」
少し前にも同じことを同じ緊迫感で口にした気がする。
「ちぃと、昔話をせんとわからんよね……」
その方言こそ、うっかり聞き逃すと理解出来そうになかったが、極妻さんは昔を懐かしむような穏やかな口調で語り始めた。
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