#3


 スーパーで買ってきた食材と頂いたブドウを台所の冷蔵庫に収めていると、古めかしいブザー式の呼び鈴がブーっと不粋な音を鳴り響かせた。


 うちの呼び鈴は建物に比例してとにかく古く、ピンポーンと軽やかに鳴るタイプより以前の代物だった。


 不粋ではあるが慣れてしまえば味があると思いつつ、魚住うおずみさんが伝え忘れた用事でも思い出して戻ってきたのだろうと玄関に向かい、欠片も警戒することなく引き戸を開けた。

 

 ――するとそこには、夕焼けを背にした黒スーツにサングラス姿でがたいのいい男が立っていた。


 えっ、と思って見上げた次の瞬間には鼻先まで一気に距離を詰められ、


水無川みながわ悠誠ゆうせいくんだね? 一緒に来てもらえるかな?」

 と、問い掛けているのに拒否は認めない語調でささやいてきた。


 がっしりと肩を掴まれて表に出され、引き摺られるようにして自宅から少し離れた通りまで連れられると、周りの住宅街にまったくそぐわない黒塗りの高級リムジンが停車していた。

 

組長おやじ、連れてきました」

 どこからが後部座席なのか一見するとわからないロングボディの窓がほんのわずかに開き、そこに口元を近付けた黒スーツの男がと口にした。


 ただそれは、血縁関係にある父親に向かって発する響きとは明らかに違って聞こえた。


「……乗せろ」

 スモークガラスの奥、暗い車内から唸るような低い声が響いた。獰猛な獣が威嚇しているようだと思った。

「中へ」

 黒スーツの男が恭しく後部座席のドアを開けて乗り込むように促してくる。


 とてもではないが断ることなんて出来そうにない。


 一瞬、振り返るなり一気に走って逃げ出そうかと脳裏を過った。

 しかし危険を察知する動物的な本能が、その考えをぐっと押し留めた。

 具体的な確証なんてないのだが、逃げ出した瞬間、いや振り返った瞬間に即取り押さえられてしまう予感がした。

 当然その後がろくなことにならない予感もひしひしと湧き上がってきた。


 促されるがまま、腰を屈めてそろそろと暗い車内に乗り込む。

 すると、そこに座していた人物と視線が絡まり、俺はあっさりとその姿に目を奪われた。


 先ほどガラス越しに響いてきた低い唸り声からは似ても似つかぬ、可憐な美少女が姿勢良く座っていた。


 ふんわりと薄いピンクのワンピースを身に纏い、きちんと膝を揃えてシートに座っている姿はどこか儚げな雰囲気を帯びていた。

 大きく開いた胸元から覗く鎖骨は見るからに華奢で、しなやかに流れる黒髪とのコントラストが透き通るような白い肌を際立たせている。

 膝の上で重ねられた指先はすんなりと伸び、綺麗に整えられた爪はきめ細やかな貝殻のようだ。

 全体的に憂いを感じさせる儚げな印象のせいで、このまま放っておいたら透けて見えなくなってしまいそうな不安を覚えるほどだった。


 俺と視線が絡んだ後、少し硬い表情でゆっくりと目を伏せて目礼してきた。

 決して派手ではないが、くっきりとした目鼻立ちは美しく際立ち、薄く目を伏せて目礼する所作から上品さが滲んでいる。

 首を傾げたことで一房零れ落ちた艶やかな黒髪を優雅に耳にかける仕草は、現代の大和撫子と称するのが一番しっくりくるように思えて見蕩れてしまった。


「……えっ、あ、あの――」

「はい」


 思わず声をかけてしまった。

 そうしないと、いま俺が見ているものが実在する人物なのか幻なのかが判然とせず気が気じゃなかった。

 目の前の女の子はそれくらい美しく儚げで、むしろ現実感がなかった。


「いきなりすまないね、悠誠くん」

 呆然としていた俺を叩き付けるように、横合いから届いた地響きみたいな声に驚いてしまう。


 肩を竦めながら声の主を仰ぎ見ると、箱形シートに深々と腰掛けた貫禄のある男性が柔和な笑顔を浮かべていた。絵に描いたような和装に白髪を撫で付け、年の頃は五十代後半くらいに見えた。

 

「自己紹介が必要だろうね。私は、白鳥しらとり重蔵じゅうぞう。君とは初対面ではあるが、その昔、君のお父さんに大変お世話になってね」

 口角を持ち上げた笑顔を寄越してくれるが、明らかに堅気の人間ではない雰囲気が全身から滲み出ていた。

 

 先ほどの黒スーツの男、黒塗りの高級リムジン、聞き間違えではないオヤジ呼び。


 疑いようもなく、この人はヤクザの、しかも組長と呼ばれる人だった。


「……親父の、お世話に、ですか?」

「ああ。片時も忘れたことはない」


 俺の親父は組織犯罪対策課の刑事だった。いわゆるマル暴担当だ。

 つまり、俺の目の前にいるヤクザの組長とは対極に位置する存在だ。

 そんな水と油のような決して混じり合うことなどない組長が、親父にお世話になったと微笑んでいるのだ。


 これはいわゆる拉致というやつなのだろうか。

 ぱっと頭に浮かんだのはそれだった。


 親父にお世話になったということは、警察のお世話になったということ、つまり何らかの罰を受けたのでありごく単純に仕返しにやって来たと考えるのが妥当だ。


 そこまで想像を巡らせてはみたものの、拉致にしては意外なほど人当たりが良いように思えた。

 実際の拉致がどんなものなのか知る由もないが、もっと縛り上げられたり乱雑に扱われるのではないだろうか。

 

「少し、昔話をさせてもらえるかな」


 そんな俺の心配を余所に白鳥重蔵と名乗った組長さんが語り始めた話は、にわかには信じがたい内容だった。




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