第33話 減らすことこそが好き①


 これもまた食べる話である。


 ⑨食べない、食べたくない、出したくない人


 ここまでの食べる話には色々な人がいたが、次のお話の夕月さんは、食べるということを否定してきているという例のひとつだろう。


 夕月さんは、もう何年も前から実家を出て、一人で暮らしている。その生活の中で目立つのが、他者とは関わることが無いという日常の設計である。

 ことごとく夕月さんは社会のシステムに乗ろうとしない。考えがあってというよりは、そうしたくない、それはイヤだ、という感情由来からの選択と実行である。


 話を聞いていくと、そこに迷いというものが無いように思えた。


 まず社会に出て、初めて勤めた会社はほどなく倒産することになる。そこから別の会社に縁することにはなるが、長続きしない。その理由は人間関係と仕事の内容にあった。社員という形で勤めることはそこで終わる。


 多くの人たちと同じ現場で同じ行動をすることがどうしても出来ない、ということがあった。それも本人の自覚では無く、周囲からの注意や苦情から知らされることになるのだ。


 例えば、仕事に取りかかる姿勢として就業時間の前に余裕を持って準備をしない。ジャストの時間に滑り込むように仕事を始めるということが日課だった。その点を何人かに注意されることがあるが、必要性を感じない、何が正しいのか理解出来ないということで、勝手にこのまま続行という判断をして、それまでと変わらない働き方で通していたということがあった。


 また、時間内にこれだけのことをするようにと上司に言われたことが時間内に出来ない。出来そうにないとの報告もしないまま、上司がやって来た時にその状態が発覚する。終わるまで自分がやると言うが、問題はそこでは無いと言われて、それがまた理解出来ない。話し合いもうまくいかないし、とりあえずの謝罪も上手では無いため、おそらくはふてぶてしく見えるか、あるいは低姿勢に言葉のみで謝りすぎて行動がともなわないということをやってしまって、印象が最悪になっていく。けれど夕月さん本人は、謝っているし、遅くなっても言われた分は仕事してから帰るし、なにが悪いのか、おかしいのかよくわからないという状態なのだった。


 会社を辞めて、しばらくはニートをしていたそうだ。どうしていいのかわからないから、家の中にいた。家のこともしないまま、ただ居たという数年間を過ごしていたらしい。そこである時、町に出かけた際に他者からの話を聞く機会があって、それを機会としてもぞもぞと動き出して、やがて東京に出て一人暮らしをして、新しい職場とやがて縁することになる。何の根拠も無いままにいつかは東京に出ると思っていたという。


 おそらくは一般社会的には、とある特徴から病院では名前の付く状態とも思われた。しかし、夕月さんの面白いのは、社会的な認識を受け付けられずにいることだった。病院に行くことはないのである。

 どのようにわかり合えなくても、自分を貫いて生きているようだった。迷い、どうしていいのかわからないまま社会の中にいるのだと本人は言うのだが、数年がかりで結果的にはそのままの自分を生きることが出来る現場を手に入れて働いているように思われた。社員では無くアルバイトという形で仕事をすることを選んでいた。


 面白いのは、地方から出て来て、求人誌を開いて自分がこれかなと思ったところへ連絡し、すぐに面接へ行った。その一件目で合格してからずっと同じ場所で、もう何年も働き続けているのだというのだ。


 アルバイトという形がラクなのだそうだ。誰とも関わること無く与えられた仕事のみをして、時間になったら帰るというパターンの繰り返しをしていた。


 実際に他者と関わるというのは業務的なやり取りのみであって、個人的な関わりは持たないのだという。人間関係を作るということにおいては、どうしたらいいのかわからないのでという理由で、一切私生活には踏み込まないし踏み込まれないというやり方をしていた。


 そんな夕月さんは、自分に合った生活のパターンを東京での生活で手に入れることで、昔よりも随分と精神的に落ち着いて来たようである。


 当初から夕月さんは、何も無い状態を好んでいた。三〇代女性としては珍しいことである。部屋の中には何も無いところからほんのひとつずつ最小限の生活必需品が増えていった。


 しかし、冷蔵庫の中には何も入れない。買わない。そんなにお金が無いからというのも理由としてはあったようだが、他者からもらったものに対してもありがたいのでは無く、むしろ迷惑に感じてしまうことも多かったらしい。


「誰も何も、なにもよこさないでくれ」


 そう思っていたそうだ。無い方がいい、何も無い方が自分はいいのだ、と感じながら毎日を暮らしていたのだという。寒い中で凍えるような日もあり、充分とは言えない食事の日が続く。そういう中に居て、豊かになりたいと願うというのでは無く、淡々と過ごしているという自分だったと、夕月さんは言う。


 お金が入っても、実家に居た昔から何か高いモノを購入してしまって、支払い続けるということをやっていたのだとお金がお金が手元に残らないようにということであるが、当時はその自覚は無かったそうだ。


 食事もあまりしない。やせ細っているという印象では無かったらしいが、唯一好んでいるのがお酒だったらしい。


 よって排泄物は少ないように思われたが、本人的にはその頃はとても頑固な便秘だったのだと言う。トイレも我慢の限界まで我慢し続けることを選んでいて、一日のトイレの回数は驚くほど少なかった。


 他者と関わることが極端に少ないため、感情表現も乏しかった。喜怒哀楽が見えない。そして声も小さくて聞こえない。意見も意志も出さない。

 そういう人間だったのだと、夕月さんが過去を振り返りながら話していた。


「懐かしい……ですね。そんな時もありました」


 夕月さんは一人でアパートに住んでいるが、大きくは変わらない生活をしているそうだ。他者とは関わらず休日も独りでいる。最低限の洗濯や料理はするのだという。


「寂しいって、一応思うのは思うんですよ。でも……」


 実際に声を掛けることも、掛けられることも無く、職場では仕事をするのみ。私生活の話をすることは無いそうで、それはアルバイトという立場で居続けていることも理由のひとつに見えた。

 黙ったままの三〇代後半に向おうという古株のアルバイターには興味を持つというよりは、避けられる対象となる場合が少なくないだろう。

 働いている現場では若手が多く、他のアルバイトの人たちは学生なのだそうだ。さらには高学歴を目指す人たちやお金持ちの家の娘や息子たちだったりするらしい。


「私は、学歴も要らないと思いました。ただ、何かどこかにある、自分には何かはある、とは思って来ました」


「何か、どこかに……ですか?」


「はい。何の根拠もありませんが、東京には行くものだと思っていました。そんな感じのことがいくつもあります。でも、東京で何するかっていうと、何も無いんです。ただただアルバイトして、高い家賃を払って細々と生活してる……っていう感じです。それは今もそうです」


「それで、後悔は?」


「いやぁ、ありません。戻りたいとは思いません。今の東京での生活が続くといいなと思います。なんだかわかりませんけど、ラクなのかもしれないです」


「ラク、ですか?」


「避けてるっていうのもありますが、何も無いんですよ。仕事や人間関係にも責任とか約束とか、決まりとか……」


「そう、ですね、そうなりますね」


 NANAは夕月さんの目に力が入ったのを見た。直後に、言い始めた。


「何も変わらない、動きの無い世界……に惹かれるんです」


「ほぅ」


「何一つ、ムダなことに、余分なものに、手を出したくないんです」


 キッパリとした夕月さんを、NANAは初めて見た気がした。


(ほ、本気……なのですね)



 例えば、未来に向う人を食べたがっているのは、それは輝いて見える「太陽」なのだろう。

 しかし夕月さんは何を見ても「食べたくない」と言う。出したくも無い、と言うのだ。



 

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