第27話 太陽を食べたがる、とは?
ところで太陽を食べたがる大人達とは、それは何処にでも居る私たち自身のことなのかもしれない。NANAは自分の奥底に数々の物語が存在していることを実感していた。どの人の話も本当は他人ごとなんかでは無い。今この瞬間の自分や今回の人生では体験していないと思えることであって、本当に体験していないのか、本当に知らないのかどうかなんていうことはまだわからないのではないだろうか。
例えば、忘れ去ってしまっていて、無いと思い込んでいる場合もあるだろう。今回の人生で無いというのなら、前世という人生でそれはあったのかもしれない。
さらには、読む本や聞く話になぜだかわからないままに心が揺さぶられることはないだろうか?
それはどこかで知っていることなのかもしれない。私たちのこの意識の奥に、私という自我がまだ思い出していない記憶の中に、無いと思い込んでいた経験があるかもしれない。それらの記憶は眠っているのだ。
(他人ごとじゃぁない……)
そう考えるなら、他人ごとどころでは無いのだ。どの体験もお話も私という存在にとって関係のあるお話である。さらに私という存在がひとつの宇宙であるのなら、私として体験していないだけであって、同じこの宇宙の中で生きているのだから、やっぱり関係があることだと考えられる。
もう知っている私のこととして、まだ見知らぬ私のこととして、そして私の存在する環境に起きる私以外のものとして、おそらくすべては関係している。
ここでいう「太陽」とは、社会の中で私たちが「なりたいもの」そして「ほしいもの」であり、さらには「正しく輝いているように見える羨ましいもの」でもあるだろう。
それは太陽を自分の外側に見ているということであり、今の自分の手元には無いものとして実感しているものであり、それは喪失感としての体験かもしれない。
いずれにせよ現在の自分自身には無いものであって、どこか他所にあるものであって、自分以外の誰かは手にしているように見えるもの、なのである。そういう体験の渦中にある、NANAの出会った大人達の物語なのだ。
自覚的な場合もあるかもしれないが、それは少ないかもしれない。多くの場合は、無自覚なまま「太陽」に手を伸ばし、欲しがっているように見える。
これはあの空に輝く、皆にとってのたったひとつの太陽系の太陽のことでは無い。
けれどあの太陽系の太陽という存在は、私たちに自分が唯一無二であり、人々の常に上にあり光を全方位に放射し、そういう存在が自分であるということをただ見せているのでは無いのではないだろうか。
あの太陽は「あなたもそうであれ」と言っているのかもしれない。同じ立場で同じ位置に住まうものとして、この宇宙に存在していいのだよと言うことを三百六十五日欠けること無く見せ続け、伝えてくれているのだろうとも思える。
見上げる空に見える太陽の日も、雲に遮られ見えない太陽の日も……である。
占星術やタロットという世界は、私たちがより満ちていく方向を示してくれている。地上生活の欠けていると感じている部分を補うためだけでは無く、欲しいものを手に入れていくためだけのものでも無く、本来の自分自身の姿を思い出していくための大きな書物であり、モノとしての占星術のホロスコープもタロットカードもその大きな世界への入口だったのだとNANAは受け取っている。一見するとそれは無いものだが、近寄っていくほどにその入口が現れる、というような。近寄ることが無ければ、その入口とは出会うことは無い。
私たちは、自分には無いと思ってしまうからこそ、他者にそれを見ては憧れたりするのだ。外側にのみ存在していて、自分の内側になど存在していない、存在しているわけが無い、という思い込みの世界に住んでしまっていることが少なくない。社会での評価や認知度ということを考えるなら、尚更のことである。
そこには諦める、いや諦められない、どうして、なぜ、自分にはそれが無いのか、才能か、縁か、努力かチャンスか、あの人には出来てなぜ自分には巡ってこないのだ、というようにぐるぐる考えて止まらないままの現実も、またいくら頑張っても変わらないという話もたくさん聞いてきた。
NANAが奈々恵だった頃に育った環境の町の中で、北陸の喫茶店で、多くの憧れと儚い日々と、そして自分はこの程度なのだ、という妥協もたくさん見てきていた。
どの場合も同じなのは、飛び出さないことだった。すでに持ってしまっているものを要らないと言いながらも決して手離そうとはしない。代りのものを掴んでから離すというイメージの中に住んでいることが多いようだったが、その代りのものは向こうから自分のことをお迎えになど来てくれはしない。だからこそ手がかり、足がかりを欲しがる。それがやって来ないのなら、待ち続ける。それが来ないのなら自分に新しい未来は来ない。
しかし何も無い岬の突端で風に吹かれながら背後に別れを告げて、より大きな世界へと飛び出して新しい環境へと着地していく人たちは、例えばタロット・パスワークという瞑想ワークでいうところの「0・愚者」「1・魔術師」の実践中という風景である。ここには次の新しさがあり、これまでに無かった未来が発生する。
タロット・パスワークという瞑想の旅で出会う自分自身の信念体系、世界観は、自分のことをより自覚出来るように自分の状態を教えてくれるものだと思われる。それはまるでエネルギーとしての鍼灸のようだ、という言い方をすることがある。
タロット・パスワークは、私たちの意識の上での身体の肝心な経絡、ツボを刺激して滞りを改善したり、活性化させていくということを起こしてくれる手法のひとつだ。それは自発的な改善や開発の意識があるほど実際にそうなっていくことになる。
結果的には地上生活のあらゆる場面において、それは活かされることになるのだから、意識の上でと言いながらも、生活の具体的なところへの影響は大きく存在している。
なぜなのだろうか?
何しろ私たちは、感じて、考えて、動く、生き物だからだろう。出所はいつだって自分である。出来事による自分の体験の何をどう感じたのか、ということが、その後の何を選ぶのかという選択や、どう動き出すのかという行動の因となっているのだ。
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