第20話 太陽を食べたがる8つの物語の大人達⑥

 日常の生活の中には無いと、マユ子さんは言った。実際の生活の中では、切望している大きな野望が果たされることが無いのだとも言う。


 しかし、NANAは日常の中でその縮小版をやっているか、やろうとしているマユ子さんの日常にヒントがあるだろうと考えていた。


「そう、そうですね。日常の生活の中での体験よりも、イメージとか誘導瞑想の中で見るものや出会うものの世界の中で特にそう感じます。大きい世界をもっともっと実感したいっていうか……瞑想の旅の中でも実感があるのだ、ということにも驚いています」


「それは例えば、マユ子さんが大きな宇宙へと自分を投げ出したいっていうことでもあるでしょう。この目の前にある社会という物質的な世界でというのでは無くて、意識の世界、精神の世界に広がっていきたいっていう欲求があるのだと思います」


「そう、ですね。広がりたいです。そう思ってはいます」



 私たちの一人一人の個人の意識というものが存在しているのは、広大な宇宙の中においては地球特有の体験だとも言われている。それは例えば、名前の付いた地球人としての人生ということがあるだろう。


 例えば個人では無い状態が地球に来る前にあったと仮定してみよう。測ることも出来ないような広大な宇宙に広がっている様々な成分とか、それがツブツブして宇宙空間を泳いでいるような状態をイメージして描いてみる。個人では無いのだから、あの人やこの人という対比も落差も、そのため生れる葛藤もそこには存在しない。


 逆にそれと同じようなことを自分の身体をひとつの宇宙として想像してみる。


 自分の身体の細胞のひと粒ひと粒のことを私たちは自覚したり実感したり等は出来ないということがわかる。そちら側にはどうしても立てないのだ。私は私であり、私という意識がある。細胞の側から見た私という存在を想像してはみるが、体感や実感というものは無いことがすぐにわかる。


 細胞のひと粒は、実際私のことをどう思っているのだろうか?


 私という全体像である状態は見えているのだろうか? 

 あるいは見えてなどいないのだろうか?

 ひと粒の細胞が認識出来るのは、例えば隣にいるひと粒の細胞ということであって、ひとつの大きな皮でくるまれた饅頭であるかのような個体である人間というひとつの存在としてのそのものを感知する、知るということは起きているのだろうか?


 私たちが通常生活の中の食事で食べて呑み込んだものは、消化されて栄養となって私の一部になっていく。それにともなって不要なものは分別されて排泄されることになる。繰り返しのそれによって私たちは作られていくし、この身体の生命を維持し続けていく。それが私という身体に起きていること。


 マユ子さんが欲して言っているように、食べて呑み込まれた存在は我を失っていったのだろうか?

 自分を食べた者の一部になっていくことに喜びや気持ち良さというものを感じている、そういう「食べられたもの達」がいるのだろうか?


 マユ子さんの話を聞き続け、全身から溢れ出ている表現を見ていると「食べられたい」「呑み込まれたい」と言いながら、その逆のことを欲しているようにも見えてくるところがある。その点にNANAは注目した。そこにこそマユ子さん独自の面白さがあると思ったのだ。


 極端に落差のある大きな存在に、自分が食べられ呑み込まれるのではなく、実は食べて丸呑みしてしまいたいのはマユ子さんの方なのではないだろうか、と過ぎった。マユ子さんの方が「食べて呑み込みたい」側であるという仮説だ。


 彼女の笑顔がそれを証明しているかのように、自身が食べられることへの欲求を嬉しそうに、夢を見ているかのようにNANAの前で語っている。ただ食べられるのでは無く、ただ食べるのでも無い。ただ呑み込まれるのでもなく、ただ呑み込むのでも無い。


 自分が食べられることによって……その相手を食べようとしている……

 自分が呑み込まれていきながら……その相手を呑み込もうとしている……


「呑み込まれなさい」

「私の一部になりなさい」

「呑み込んであげよう」

「境目の葛藤は通り過ぎるから……」

「ほら、もうあなたは私の一部なのだ」


 まるでこれまで話していたことの逆の言葉が彼女の声で聞こえて来るかのようだった。彼女のそれは無自覚な大きな野心のように、NANAには見えていた。


「なりようもないものになれるんですよ、きっと」


 想像している快楽に憧れているかのようなマユ子さんの笑顔がそこにはあった。



 物理的に子供を産み出すことを女性である「母」という存在を私たちは当り前としている。地上に生み出すということが可能な母という存在は、それが可能では無い父という存在よりも神秘的な存在でもあるとされる部分がある。

 父という存在がいなければ受精さえ行われることが無いわけではあるが、十月十日もの間を24時間共に生きながら自らの体内で育て続け、やがて目の前に実際の子供という存在を産みだしてしまうのが母なのである。その現場では圧倒的に「説明の出来ない神秘の力」を見せつけることにもなる。


 生命の樹などのエネルギーの法則からすると、それは陰と陽の働きのうちの陰の働きの「形成力」ということである。陽の働きの「解放力」は相反する働きとして存在している。

 宇宙的生産原理、女性性、宇宙的母の側からすると、この「解放力」の方はどうしたって手に入らないものなのだ。男性性を地上で発揮しやすいのは身体性が男性の状態の存在だとして、この陽の働きは地上に降りることを本質とはしておらず、より上昇していこうとする。地上でのより具体性に向う陰の働きとは違い、もともとの大いなる宇宙の方ヘと常に戻ろうとする無形化への働きなのだ。それはまるでモノの側から空気中へと逃げ出していくかのようにも見えるかもしれない。


 男女共に私たち人間は、陰陽の両方のエネルギーを身体の左右に配置して持っているとされている。だが現代では、いつだって女性の方が具体的、実際的なことへの欲求や対応力は総じて高いとされてきているのが、私たちの地球社会である。


 いつまでも自分が生み出した子供よりも母は大きな存在のまま、それは変わらない、という風景を見ることがある。母は勝ち続ける存在でもあるのだ。

 しかし、それは個人という存在では無く、この地球上に関与している宇宙的な「母親」という存在において言えることなのかもしれない。人間だけでは無い、動物もそこには存在している。地球を生み出し、地球の中に起きる事象すべてを生み出すのが宇宙的な母であり、それはビナーと呼ばれている。大きな大地母神なのである。


 無自覚に私たちはそれを知っている。それを地上サイズで模倣している。それこそが地球上の女性が持つ、ひとつの特徴なのかもしれないのだ。


 食べられることを追い求めるマユ子さんは、自分よりも遙かに大きな存在にそれを求めているという。それは自分自身よりも遙かに上位に位置するであろう外側に見る「陽」である大きな存在ということなのだろう。自らの内側に広がる宇宙として、では無いところがこの話のキーになる。外にその大きな「陽」の存在を見て、欲しているのだ。


 我が身が食べられようとするその瞬間に、何らかが目覚めるかのようにその対象を丸ごと呑み込もうとしている。

 そんな風景がNANAには見えていた。やがてコトは少しずつ明らかになっていくだろう。彼女が真相を追い求める限り。


 今の彼女は無自覚に他者にそれを求めているのだ。

 それこそが、敗因だとも気が付かないままに。




 キーワード 海王星





太陽を食べたがる8つの物語の大人達⑦へ 続く

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