第10話 隠された感情を食べる亜紀③
『脱出ゲームみたいじゃないですか?』 と和香が言ったことで、この体験がすでに混沌としたままではなく、日が射していることがわかる。
「そうかもしれませんよ。彼女は迷いの森という脱出ゲームを作って提供しているのかもしれません。そこからどのように何を体験して、どうしたくて、どのように抗って、どこを目指すのか、森の中で一緒に道に迷い続けることだって亜紀さんは覚悟の上のようにさえ見える。本気でやってるように見えますよね。とある感情になったまま一緒に迷いの森で嘆いて終わるのか、やがて全体を見て問題点を発見するのか、なのです」
「おかげさまです。私の問題点である感情の抑圧には自分で向っていきます。あなたとは一緒に歩きません。手も借りません。森の中に居続けていることも選びません。私は何度目かのあの時、彼女を前にしてそう決めることが出来ました。きっぱりです。でも……それで亜紀さんはいいんでしょうか?」
「そうなんですよね。亜紀さんは、これらを無自覚にやっているので、ある意味本気でやっているんですが、その人が何らかの意思を自ら出した時には、いやその段階だとまだ試すように森の奥へとまた誘い出そうとするのですが、自分でどうにかこうにか森から出て行ったな、となると、そこから先は一切追わないんですよね。途端に興味を失ってしまう」
「ええ、私もそうでした。えっ? 嘘!っていうくらい、あんなに私に執着していたのに、もう、全く興味無いの? っていう不思議さを体験しました。なんだかガッカリするくらいなんです。私に興味ないじゃん、って。何度も言いますが、変な話なんです。ちょっと寂しいんですよ。もっと興味持っていて欲しかったのかなって、自分のことを振り返りました。変な意味じゃないですけど、私は亜紀さんのことが好きだったのかなって」
「それは、その迷いの森という世界でのみ脅威的である存在なんです。自分の感情を抑え込んでいる人を森にお誘いして、結果的には追い込んでいく。その中で圧をかけていって、その人の持っている怒りや焦りを増幅させていくことで、ついには嘆き叫ばせる。それだけで無くて、やがてその風景に慣れて、飽きて、という時がやって来て、ターゲットだったはずの人が実際にその森から自分の意思で一人で出て行くというところまで本気で圧をかけてくる。それは一瞬凄い形相にさえ見えたりして」
「はい。ええ、そんな感じでした。顔が、表情が怖かったです」
「思いませんか? まるで自分という存在を真剣に乗り越えて行け、っていうことをワザとしているかのように見えて来ませんか? 本気で挑んでいるからこそ、本人はターゲットのことを潰すことしか考えていない状態かもしれませんが……まぁ、それって怖いですよね」
「わっ、笑い事じゃありませんよ。NANAさん!」
「そっ、そうですね。すみません。ふふっ」
「それに私がキレようが彼女はいつだって平気なんですよ。それでどうしたいの? 何が不満なんですか? 教えてくださいって、涼しい顔をしてお話してくださいってさらに平然と聞いてくるような感じなんですから、もう意味がわからないってなっていました当時。恐怖です。最初に会った時から、スッとした細身の美人さんで静かな人っていう印象だったのでもうビックリです。あんな風に凄みを出してくる人だとは思いもしませんでした」
「きっと潰れても、乗り越えて行っても、どちらでもいいんですよ、亜紀さんは。永遠のような迷いの森の中でも一緒に居るつもりだし、森から出て行ったなら興味を失っていくし。ずっと自分のお子さんにも同じようなことをしてきているんですよね。多くのものを与えずに、むしろ奪っていくようなこともしたり。あるいは相手の期待と依存に応え続けて、与え続けて自分からいつか終わりを作り出すのかじっと見ている。甘やかし続けたり奪い続けたりしながら、相手にチャンスは提供するわけです」
「何の? 何のチャンスなんですか?」
「例えば自立、です。経済的とかそういうのじゃ無いですよ。それまでのその環境を自分のチカラで乗り越えて行くという、精神的な自立です」
「自立、ですか?」
「もう少し違う言い方をしましょう。おそらくは、母という存在が作ってきた環境、その世界からの旅立ちです」
「お母さんの?」
「はい」
(樹海の森は、例えばそれは、母の森だったのでしょう……)
和香さんとNANAは顔を見合わせながら、それぞれ亜紀さんの数々の言動の現場を思い出していた。
大地母神という存在、それはビナーとも呼ばれる。例えば、世界の創造を表わしているとされる古代思想のカバラでは神による天地創造の象徴を10個の円と22個の直線で繋がった状態を図式化している「生命の樹」というものがある。その中でビナーとも呼ばれるものが、地球の大きな母的存在のことである。ここでいうところの「母」とは、生み出しもするが滅していくこともするという両極の働きを持つ宇宙的、自然界的存在の母のことである。
今回の和香さんと亜紀さんの体験の中の樹海の母、迷いの森に居たこの母とは、血の繋がった実の母では無く、もっと根源的な「母」のことを指すだろう。
無自覚に和香さんは、亜紀さんの言動にその母を感じていた、ということになる。これは別の言い方をすると陰陽の「陰」の方の働きでもある。私たちの中に微かに残っている自然界の働きの部分だ。そして陰は女性性を表わすとされている。陰と陽、エネルギーバランスは違えども、それは男性にも女性にも、私たち全員のひとりずつにその両方が備わっているとされる。
母親からの精神的自立ということが出てくるとは思わなかったのだろう。和香さんは驚いた顔をしていた。脳内で少し前からの会話を反芻しているようだった。小さく頷きながらひとつずつの会話を思い出しながら確認していた。
「まだ、迷子にはなっていませんか?」
「かっ、かろうじて、大丈夫かと思われます! NANAさん、あの樹海の森のことがさらに明らかになっていくような気がします」
「はい。では、行きましょう」
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