第9話 隠された感情を食べる亜紀②

「樹海の森みたいな……」


 ある時、一人の女性、和香さんがそう言っていたのだ。亜紀さんに連れられて行った出口の無い「迷いの森」のことである。連れられて行ったとは言うが、それは実際の森ではなく、二人の会話の中で起きていたことである。最初はあったはずの目的やテーマというものがいつの間にか忘れ去られてしまって、なぜここに居て何の話しを何のために話しているのかがわからなくなってしまうという、混沌状態のことである。


 亜紀さんは多くの人を混沌状態にしてきた実績があるようだった。どこか無自覚だというのに、どこか悠々としているようにも見えるのだ。人間関係は近寄るほどに不安定になっていくことになるが、それも想定内のようにNANAには見えていた。


「一度興味を持って彼女の話の先を聞こうとすると、いつの間にか逆に質問されるんです。答えているうちに、いつの間にか『あれ?』となって、さらに現状がわからないから質問したり、その説明を聞いたりしているうちに、自分の方が迷子になっているんです。気が付いたらもう引き戻せないところまで来ていて、というのは自分が何の話をしてたのか、何を聞かされていたのか、何を考えていたのか、何が何だかわからなくなってしまっているんですよ。それはまるで今思い出してみると催眠術みたいで……それで、連れて行った張本人の亜紀さんがさらに『あれ? 何の話だったか、わからないわ』って言い出すんですよ。そして『もう最初の始まりの場所には帰れません』って言い出すんです。30分以上してきた話のはずなのに、空中分解です」


「和香さん、一緒に話をしながら森のどこか奥の方へと連れて行かれて、帰り道が無いって想像すると、それはかなり怖い体験ですね」


「怖いんですよ、本当に。それで、どうしたい? どう思う? って亜紀さんに聞かれ続けるようなところがあって、ついには……」


「はい。ついには……」


「叫び出したくなるんです。怒りというか腹立たしいと言いますか……」


「そこで和香さんは?」


「ある時には、亜紀さんに怒鳴ってしまいました。わけがわからなくなってしまう恐怖と、迷いの森の中で自分の座標がわからなくなるっていうか。でもそれが自分の中から出てくるっていうことが生まれて初めてでもあって、それが不思議でもあったんです」


「と、言いますと?」


「私、そもそも、怒ってたんだなって……そう思ったんです」


「ほぅ」


「亜紀さんって、人のそういうところを見透かしているんだろうって思ったんです。私の日常の中にある抑圧っていうか、抑え込んでいる欲求とか感情みたいな、ですね。自覚的じゃないっていうところが問題だとは思いますが。私は自分が怒っていることや言いたいことが言えない状態だったなんて自覚してませんでしたから……」


「不安にさせる、脅かす、怒らせるっていうことを亜紀さんは何度も人を代えてはやっているようですね」


「NANAさんが言わなかったら、私は付き合いませんでした、亜紀さんの言動に。でもそうすると、この気付きは得られてなかったっていうことになるんですよ。」


「はい」


「NANAさんが言ったんです。何か理由や意味はあるはずだよって。相手が悪いだけじゃ無くて、どんなことであったとしても何か意味を見つけることも出来るはずだよって。最初はわからなかったんですけど、もしかしたらこういうことなのかなって……ひとつ気が付きました。私にとっての大切な意味のひとつだと思っています」


「和香さんの中にある無自覚な怒りの感情っていうのは、どういう感じですか?」


「ええ、それは、まだ言葉にもなっていなかったものです。だけどしっかりと自分の中には存在していて、むしろずっと溜め込んできていて、それを放置してきていたといいますか……。亜紀さんと話していると段々イライラしてくるんですよね。そこから質問したり答えたり二人でしているうちに、まるで罠にはまったかのようにぐるぐると堂々めぐりしていくんです。怒りが段々と膨れあがっていくんです」


「なかなか無い体験ですね、それは」


「そうなんです。ビックリしました。けれど、NANAさんの前でひとつずつ解いていってもらったり、樹海からの出口方面へのヒントをもらったりしながら、ようやくようやく自分のところに帰って来れた、ということが何度あったか」


「和香さんは、そういった恐怖は初めての経験だったのですよね」


「ええ。ただ……否定したり、嫌うことって簡単なんですが、圧をかけて来てくれたおかげで、私が何を持っていたのか、わかったんです。それを隠し持ったまま無自覚に作り笑顔で私は生きていたのか、と。そういうことに気が付くようにしてくれていたのだと、今は思います」


「それも大きな収穫ですね」


「ええ、でも、二人だけで話をするだけだったら、私はあの森の中から出られなかったかもしれないって思います。怖い、とても怖いお母さんっていう印象がありました。森から出られたからこその感謝ですね」


「さぁこれでどうだって、徐々に追い込んでくるわけですね。そうして圧を強めながら、言いたいことがあるならハッキリ言えと。どうしたいのかハッキリ言えと。そして、怖いお母さん……という印象でしたか?」


「そうです。そうです。実の母親でも無いのに、むしろ私たちは年齢は近いのに、心情的には酷く意地悪な母親に森の中に騙されて連れて行かれて、道は忘れたからもう家に帰ることは出来ないよと言われて放置される。もうどうしようもないよ、みたいな風景の中に居た感じです」


「そう、ですね。そしてまんまと感情的になって叫び出すのか、それを通過した後にその迷いの森の全貌を見ることが出来るのか、森へ連れて行った相手がどうするのかを見ているっていう感じですね。これまた無自覚に、です。そして計算では無く、演出でも無く亜紀さんが本気で挑んでくるからこそ、これが結構本気で怖いわけです」


「本当にです。ハッと気が付いて自分の問題として考えたことを整理してひとつずつ並べていって発言していくと、そうすると解けていくように樹海の迷路は無くなってしまうんですよね。魔法が解けたかのように、です」


「ステージクリア! おめでとうございます」


「もう! 脱出ゲームですか!」


「ある意味そうかと」


「笑い事じゃないんですが。でも、そうなんですよね。風景が変わるっていうか、亜紀さんの興味がもう私には向ってないっていうことを目の当たりにしちゃうんですよ。ひどいですよね、あんなに私に興味あるのかと思っていたのに、まるで興味無いんじゃないですか。じゃぁ、いったい何に対する興味だったのだろうって……そう思いました」


「人そのもの、への興味とか執着では無さそうですね」


「ええ、違います。寂しいくらい、私のことは見ていないのだと思いました。寂しさを体験するなんて、わたしも随分とおかしいのかもしれませんが……」


 和香さんは苦笑いしていた。



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