006 入学初日 夜 陽の思い

   *  *  *


 陽さんと私は、引越しの挨拶を終え、向かいにある陽さんの自宅玄関の中に戻ってきた。



瀬場せばさん、引越しのご挨拶にまで同行くださり、ありがとうございました。残業になってしまいましたね。」



 陽さんが、靴を脱ぎながら言う。



「いえいえ、この爺が、雇用主のお役に立てるのなら、何でもやりますよ。」


「またそういう冗談をおっしゃる……。」




 陽さんは玄関土間から一段上がった、上り框あがりかまちに立つと、くるっと振り返って、私に深く礼をした。



「瀬場さん、今日だけでなく、今までも本当にありがとうございました。今日という日まで来れたのは、瀬場さんのおかげです。」



 はたから見れば、妙な光景だと思うだろう。

 見た目、祖父と孫くらいの年齢差の二人が、礼をしたり、雇用主なる関係だと話している。可笑おかしな話だ。

 事実、可笑しい。最初に会ってから今までの事も、誰に話しても信じてはもらえないだろう。



   *  *  *



 証券会社の事務職で業務中、窓口に番号札を持ってやって来た小学生。両親の許可の下、分散投資を行なっており、それを加速させたいとのこと。



 ……何だこの小学生は、と思った。

 が、彼と取引履歴について話をしてみると、まるで熟練のアナリストと会話をしているようだった。



 さらに、「引退間近なのであれば、僕と雇用関係になっていただけませんか」だそうだ。

 ……今度は違う意味で、何だこの小学生は、と思った。




 彼が話してくる知識と知恵は驚くものばかりで、さらには投資だけでなく携帯アプリ開発にも造詣ぞうけいがあるようだった。私は六十歳間近だったということもあり、再雇用先として、面白そうな船に乗ってみることにした。


 彼は、何か他にも一生懸命ずっと勉強していると思ったら、突然、ドイツの音楽学校に留学すると言ってきた。

「何か目的があるのですか」と聞くと、真剣な眼差しで、「僕には命をかけて果たしたい使命があるんです」と言った。


 若者の戯言ざれごとか、と思ったが、本当に日本を離れてしまった。

 取引や業務の指示は、毎日メールで届いた。

 そして二年半ほどしたら、若手指揮者の登竜門であるシャルズール国際指揮者コンクールで最年少優勝し、一躍時の人となって、岡崎に戻ってきた。しかも、音楽課の無い、公立高校を受験したいと。



 わけがわからない。



 ただ、気付いた。

 一緒にいて、全く飽きさせない。誰も歩んでいない道の光景を、六十過ぎにして共に見せてもらっていることは、なんと光栄なことか。


 この度の家の建築と購入も、何かその「使命」に関係する目的があるらしい。これからも、この爺を若返らせる何かを、この青年は見せてくれるだろう。




「陽さん、お顔を上げてください。礼を申し上げるのはこちらのほうです。私のような者を使ってくださり、ありがとうございます。どうかこれからも、新しい世界を私に見せ続けてください。」


「瀬場さん……ありがとうございます。明日もどうぞよろしくお願いいたします。明日の内容は、メールで書いた通りです。」


「承知しました。では、今日はこちらで失礼いたします。」


「ありがとうございました。夜の運転、お気をつけて。」



 日が落ちて間もない夕暮れ、私は玄関前の駐車スペースから車を発進させた。



   *  *  *



 瀬場が帰宅した後、陽は洗面を終え、リビングにやってきた。

 フロアの電気は消したまま、窓側にある大きなデスクのライトを点け、椅子に座り、大きく背もたれを倒し、フウっと息を吐きながら両腕を頭の上で組んだ。


 何かを考えるように、目を閉じた。

 一分、……二分……


 目を開け、椅子を戻すと、デスク右下にある引き出しを開けた。


 そこには、使い古してボロボロになったノートと……『光って浮いている本』がある。



 陽はボロボロのノートを取り出し、パラパラとめくる。


「2018年」「2019年」と、順番にタグが付けられており、「2026年」まである。


 陽は2020年のページを開くと、


 ・新型コロナ流行

  →ゲーム市場株

  →オンデマンドサービス市場株

  →太陽光産業


 と、記憶を殴り書くような筆跡でたくさん書かれている項目を、少し眺めた。

 全部、右横にチェックマークが入っている。


 

・2020年4月12日14時31分、東岡崎駅前交差点で轢き逃げ事故、水都、右大腿骨損傷


 その右横には、「阻止!!」と赤字でグルグルと書かれている。




 陽は軽く眺め終わると、2024年のページを開き、

 

 ・2024年4月8日 矢作北高校入学式


 の右横に、チェックを入れた。




 ノートを閉じ、元の場所に入れる。

 そして、『光って浮いている本』を取り出す。


 その本の表紙には、『歪波ゆがみ命書めいしょ』と、大きく日本語で書かれている。



 分厚い表紙をめくると、冒頭に説明書きのようなものが、インクではなく燃えた跡のような文字で、このように書かれている。



 「運命に逆らい 人の寿命に直接作用して生じた歪波は 自身に返る」



 下に目をやると、そこから縦に割線が伸び、挟むように、燃えた跡のような文字が書かれている。



 「2020年4月12日 交通事故による後遺症 未発生 河合水都 +623日」

 「石上陽 -623日」



 本を入れ、引き出しを閉める。



 机の上に両手を組み、口元を引き締め、つぶやく。



「ようやくここまで来た。……ここからだ。。今年、必ず全国へ……。」

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